第3話:忘れられた旋律(3)
形ばかりの門と扉を、まるで侵入者のようにカテリナは帰宅した。
通路全ての部屋の明かりが消えていることを確認したカテリナは、細心の注意を払い、古く軋む廊下を歩いた。
隣人が気づいたとしても、夜遅く帰る同業者を諫めるためにわざわざ顔を出すことはしないが、流石に大きな音を立てれば大事になりかねない。何せ自分の肩には酔っ払いの男がいるのだから。
カテリナは自室の鍵を開け、取りあえず肩の大荷物を下ろすために扉からベッドまでの十数歩の道のりを記憶で辿り、引きずりながらベッドへ放った。流石に患者のように優しくとはいかず、放られた本人は小さく呻いた。
ランプに火を点け、ようやくひと段落と、カテリナは床にへたりこんだ。空腹だったことを思い出して、湯を沸かし、その間にサンドウィッチを頬張った。
ランプに照らされた彼の姿に、カテリナはサンドウィッチを詰まらせて咽た。
夕焼け。紅玉(ルビー)。ガーネット。薔薇(ローズ)。
カテリナは頭の中で近しい色を思い浮かべたが、どれもしっくりこなくて、食物を飲みこむという生物にとって当たり前の行為を忘れてしまったのだ。
まるでおとぎ話に出てくる、魔法使いの使い魔を拾ったかのよう。
やはり何度見ても彼の容姿は現実離れしていた。
しまった。
カテリナは慌てて時計を見返し、急いで備え付けのシャワールームへと急いだ。十二時を過ぎればお湯は出なくなる。多少超えても出ることはあるが、それは最早神頼みの域だ。
「お願い、お願い!」
カテリナは一縷の望みをかけてシャワーを浴びたが、途中から冷水に変わり、体を一基に冷やしてしまった。
しっかりと衣服を着てからベッドに戻ると、目下の問題である彼は起きていた。
「変な気起こさないでよ」
彼は勝手に水差しから水を飲んでいた。
「どうだろうなあ。僕はこの通り酔っているし、君は風呂上りだ」
先ほどとは打って変わって饒舌に喋るその人に、カテリナは思わず眉間にしわを寄せた。
「———あなた、今は酔ってないでしょ?」
「バレたか」
「どうして酔ったフリなんか」
「ちょっと巻きたい奴がいて」
ただのピアノ弾きではないとは思っていたが、何者かに追われているとは。我ながら余計なことに首を突っ込んでしまった。
「看護婦であるあんたの家は全寮制の宿舎だな。流石に侵入まではしないか」
「待って! 一体何に追われているの?」
カテリナは彼がコップいっぱいに入った飲みかけた水を奪った。
「酒も煙草もないんじゃ、ここには用はない」
「答えて」
「………」
彼は心底面倒臭いと、琥珀色の目を伏せた。
カテリナは問い詰めても答えが出ないと、妥協案を提示した。
「こっちはあなたを助けることに一役買ったんだから、名前くらいは教えて頂戴。何かあったらあなたを指名手配してやるから」
「知らなかったよ、今時の医療従事者に公務権限があるなんて」
どうやら皮肉を言うことが彼の趣味らしい。
「カテリナ・コーネリアスよ」
「———ノアだ」
ノア。
フリーゲルにおいてそれは決して珍しい名前ではない。ただ、彼の風貌から紡がれる彼の名は、よく似合っていて、どこか魔法や神秘に近いものを感じた。例えば彼が不老不死の吸血鬼だと言われても、成程納得してしまう。
余りにもじろじろと見続けたせいか、ノアは、ようやく視線を拒まずにカテリナを見た。いや、観察したと言ってもいい。
「———あんた、珍しい色だな」
「こんな服、どこにでもあるでしょう?」
カテリナはノアの目線の先が服や髪色に向けられていないことに気付き、彼が指すものが分からず首を傾げた。
「何?」
「———いや、こっちの話だ」
彼はまた混濁した意識の中へと落ちた。
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