第2話:忘れられた旋律(2)

 そして彼女は一息ついて、鍵盤に指を走らせた。

————この曲。

 数小節のメロディに耳をすまして聞いて、カテリナは心臓が跳ねた。

 幼い頃、古いラジオから流れるこの曲を、カテリナは繰り返し聞いていた。

 シルヴィア・フォルミード作曲の「春の訪れ」。

 十年以上も前。まさにこれからが全盛期という時に突然音楽会から姿を消した女性ピアニスト。

 悲しく、繊細なメロディの中にある郷愁と神秘が作曲家としてのシルヴィアの奏でる音楽だ。それをこの女性は再現した。十六にしてデビューしたにも関わらず、彼女が作った曲は数十あると言われ、世に出ている曲はその半分にも満たないという。

 繊細で滑らかな曲でありながら、複雑なメロディを弾くことが求められる「春の訪れ」は、シルヴィア・フォルミードの代名詞であり、再現することは高度な技術が求められる。

———シルヴィアの曲をここまで表現できるなんて。

 この曲の終盤は、春の恵みを現す雨を表した、滴る雫が跳ねるようなメロディでゆっくりと終える。

 騒がしいパブでは、その曲はあまりにも不釣り合い。耳を傾ける者などわずかだ。彼女がステージから立ち去っても誰も目もくれない中、カテリナだけが彼女が裏口から出ていくのを追った。

 注文したサンドウィッチが出てきたばかりだが、カテリナ一つも手に付けず、それをナプキンで包んで代金を支払い、パブを飛び出た。急いで裏口に回り、ローズマダーの髪の彼女を追った。

 明かりの全く届かない路地裏を通り抜けようとして、カテリナは呼び止めた。

「あの!」

 彼女は足を止め、視線を送る相手に半面だけ体を向けてカテリナを注視した。煌々と光る琥珀の目は夜の猫のそれだ。警戒を解かない彼女に、カテリナは続く言葉が見つからず、そして自分が何をしたのか纏まらずにまごついた。

「何?」

 声のトーンの高さで、カテリナは自分の勘違いに気が付いた。

「男?」

「男だけど? ああ、何? 女だとでも思ったんだ?」

 たっぷりの皮肉と、爛々と光る琥珀色の目を細めて、長いローズマダーの髪をくるくると指で絡めて遊んでいる。

———だって、肌艶もいいし、髭も生えてない。

「間違われるのは久々だな」

 カテリナは混乱する中で、ようやく本題を思い出した。

「あの、あなたに訊きたいことがあって。あの曲、シルヴィア・フォルミードの『春の訪れ』を弾いていたのは、どうして? あの弾き方はどこで習ったの?」

 ああ、と「彼」はつまらなさそうに答えた。

「気まぐれで弾いただけだ。あそこのマスターはたまに賄いくれるんだよ」

「気まぐれって………。誰が聞いても正規の音楽を学んだ弾き方なのに」

「それは光栄だね。ここらの野蛮人はその良し悪しなんて分からないようだったけどな。なあ、あんたタバコをくれないか?」

 彼は口元を抑えて俯いた。苛立っているようにさえ見える。

「いいえ。私は吸いません」

「ああ、そう。じゃあ、ストーラ=スティーブン」

「何、それ」

「ミズリーのワインだ」

「ミズリー? 北の湖水地方の………?」

 彼は壁にもたれてゆっくりと座り込み、カテリナは慌てて彼に近寄った。

「———っ」

店内以上のアルコール臭。綺麗な顔立ちとはいえ、唇もかさついていて、目元もひどいクマ。明らかなアルコール依存症だ。

 この震える手で、あのメロディを弾いたとは思えない。

「———またここか」

「え?」

「もういいんだよ、ああ、またここに来た」

 挙句、同じうわ言を繰り返し、ずるずるとへたり込んだ。

「ちょっと!」

 困ったことになった。このまま置いていくわけにも行かない。

 カテリナは朦朧とする彼の肩に手を回して、看護婦の持てる馬鹿力を発揮して大通りを渡った。

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