007.『闇に咲く光』5

「ありがとうございました! 私はムーングロウのあちこちを旅しながら踊っています。いつかまたどこかでみなさんとお会いできることを楽しみにしています!」

 そう澄んだ声で言ってルナは深く丁寧にお辞儀をした。それはルナがダンスを終えた際に決まってする挨拶だった。蠱惑こわく的な衣装をまとい、あどけない顔立ちをしていながら、大人びた清潔感のある言葉づかいと立ち振る舞いができることもまた、彼女の人気の理由だった。彼女の顔貌がんぼうのかわいらしさと衣装の大胆さは男性に人気がありそうだが、実のところ女性の人気の方が高いほど彼女は万人に支持されていた。ダンスと挨拶の言葉に対して人々は惜しみなく拍手を送り、やがて広場の人だかりは三々五々と散っていった。

 ダンスを見終えるとアカデミー生の三人の若者はこんな会話をした。まずリビエラが問いを切り出した。

「そういえば論文は間に合ったの?」

 それはエレノアに向けられたものだった。何の気なしにエレノアは答えた。

「え? あ、うん。余裕だったよ」

 するとリビエラは口を尖らせた。

「何だよあんなに焦ってたクセに。心配して損した」

 それに対しエレノアは苦笑いした。

「ああ、まあ歴史書漁ってるとどうしても脱線するのが悪い癖でね。でもまあ本気になりゃ何とかなるもんよ」

 それを聞いたリビエラは「まったく調子のいい」と言わんばかりに肩をすくめた。するとエレノアが急に声のトーンを低くしてこんなことを言い出した。

「そういえば…、ちょっと気になることあったんだよね…」

 リビエラは「どうせ大したことないんだろ?」とでも言いたげな顔をしてたずねた。

「気になることって?」

 他方レティシアは存外エレノアの「気になること」が気になるようで、じっとエレノアの目を見ていた。

「いや、最近オーガについてまた調べてるんだけどさ」

 ここぞとばかりにぽつりとリビエラがつぶやいた。

「オーガオタク」

 先を早く話したいエレノアは手短にリビエラを黙らせた。

「うるさい」

 彼女は切り替えて真面目に続けた。

「オーガの神と八体の悪鬼はこのムーングロウの大地を支配し、その強大な力で人を従え、人をしいたげていた。ところが一人の女性が現れ、オーガに言った。『この地を人間にゆだねましょう』。そしてオーガはこのムーングロウの大地を去った」

 それに対しリビエラが退屈そうに言った。

「そんなの知ってるよ。このムーングロウの成り立ちであり、神話であり、歴史。専攻じゃない俺でも習うし、何ならアカデミー生でなくても知ってる」

 リビエラの茶々を想定していたエレノアはたじろぐことなく言葉を継いだ。

「でもね、歴史書がないの」

 それを聞いたリビエラの表情がにわかに神妙になった。

「オーガがこの地を支配し、人間をしいたげていた頃の歴史書は残ってるし、今のアーケルシアやフラマリオンの独自の歴史書もある。でもオーガがムーングロウから立ち去ったときの歴史書なんてどこにもないの」

 リビエラは一応思いつく反論を試みた。

「歴史書が紛失するなんてよくあることだよ。俺が専攻してる戦争史にだって歴史書の紛失により『空白』になってる時代はあるよ」

 リビエラと違ってレティシアはエレノアの言葉の重要性を正しく理解していた。

「歴史書がないのに誰もが常識の様に『歴史』だけを知っている」

 エレノアがレティシアを真っ直ぐに見てうなずいた。

「そう。歴史書や歴史的事実を示す遺物があってこそ歴史は事実として推定され認知されるものよ。なのにオーガを説得した女性がいたことや、オーガが説得に応じてこの地を去ったこと、その辺のことはどんな歴史書にも史跡にもないの。それなのに誰もが知ってる」

 リビエラもここに来てエレノアの指摘の重要性をようやく理解した。

「たしかにおかしい…」

 レティシアは一つの仮説を立てた。

「『口伝』…かしら…」

 それを聞いたリビエラはやや呆れ顔で言った。

「口伝なんて歴史を伝える手段にならないよ」

 だがレティシアは冷静に反駁はんばくした。

「そうかしら。ビュルクのシャーマンは一族の歴史や大地の成り立ちを口伝していたって聞くわ」

 リビエラはなおも納得しなかった。

「それはビュルクという小国家のシャーマンという閉塞へいそく的な少数のコミュニティだからこそ成立したことだろ? 一つの歴史的事実をムーングロウの人々の共通の認識にするなんて口伝じゃ難しいだろ」

 しかしエレノアはレティシアに同意した。

「ううん。私も口伝はいい線いってると思う」

 リビエラは「冗談だろ?」と言わんばかりの顔をした。構わずエレノアは言葉を継いだ。

「問題は誰がどう伝えたか。それもムーングロウ全体に。しかもこれほど互いの国が仲違いをしている状況で」

 リビエラはしぶしぶその仮説について考えてみた。

「そりゃまあ、そんなことできるとすれば国の指導者くらいのもんだろうな…あるいは…」

 リビエラはそこで一拍置いた。

「『禁書』」

 エレノアとレティシアは同時に神妙な目をリビエラに向けた。リビエラは続けた。

「この世界の重大な歴史のすべてが記されているとされる本。だが所在は不明。実在するかどうかも不明。あるいはそこに記されているのかも…」

 三人は思考を巡らせたが、その命題についてそれ以上の仮説は思い浮かばなかった。レティシアはそれを潮に話頭を転じた。

「そういえば、私も少し気になることがあるの」

 エレノアはそれを聞いてきょとんとした。

「医学の研究で?」

 医学といえば歴史学に比べると個人の推定や仮説の余地が限られる学問という見識をエレノアはもっていた。

「そう、あたしもこないだ一人で勉強してたときにちょっと変なことに気付いちゃって。エレノアが言ってたこととは全然関係ないことなんだけどね。多分」

 するとリビエラが思い出したように言った。

「あ! 俺も気になることがあったんだ!」

 エレノアがジト目でリビエラを見た。

「何よ。人の意見散々けなしといて、あんたも気になることあるんじゃない」

 リビエラはそう言われてさすがに少し反省した。学問の話を三人でするときにいつも他者の仮説に対して否定的立場をとるのが悪い癖だと彼は自覚していた。

「いや、まあ悪かったよ」

「今日はもう遅いから、続きは明日にしましょう。あたしお腹すいちゃった」

 レティシアがそう言うとそれを潮に三人は議論を切り上げることにした。三人は話頭を転じて他愛もないことを話しながらアカデミー生の寮の方へ歩き出したが、各々の脳裏には互いの「気になること」がもやのようにかかって離れなかった。それは単に「気になること」に過ぎなかったが、何かそれでは済まされない重要な事実を背景にもつように思えてならなかった。そのためか帰路を辿る三人の会話は先ほどとは対照的にほとんど弾まなかった。

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