第8話 蛇・稲光①

「……おい、水を持ってきてやれ」

 老人が合図をすると、タタタ、と一人分の足音が離れていき、すぐに戻ってくる。老人が私の口元に水を入れた容器を差し出す。薄汚れた半透明の、底付きで中空の円筒状のプラスチックの容器。中身の水は消毒用の薬品の臭いがきつかった。それが喉を通り過ぎるなり、私はたちまち噎せた。麻痺しているせいで気道防御が利かなくなり、気管に何の抵抗もなく水が入ってきたのだ。その様子を見て老人は納得したような顔をしている。

「ふむ。

身体は確かに麻痺しているようだ。

烏羽玉の毒にあてられているな。

……声は出せるか?」

 出るわけがない。

「出せないようだな。

ならば瞬きで意思を示すんだ。

YESなら瞬き一回、NOなら瞬き二回だ。

分かったか?」

 YES。瞬き一回。

「さて。君はここがどこだかわかっているか?」

 NO。

「我々が誰か、知っているか?」

 NO。

「君は過去の自分のことについて覚えているか?」

 NO。

「なるほど。……我々は君のような症状をよく知っている。

何しろ、ここに居る皆がそれを経験したことがあるのだから。

今から、君に何が起こったのか、説明してやろう」

 老人の厳しい目の中に、悲嘆の灯が暗く揺らめいた。

「まずそのために、物事の道理について説明しなければならない。

それが、君が現状を理解する助けになるから。

道理といっても、何も難しいことはない。

あらゆる物事は常に二面性を持っている、ただそれだけのこと。

光あるところに影があり、

熱あるところに冷たさがあり、

陸あるところに海がある。

単純な、二面性の原則。

ここまで理解出来たか?」

 YES。 

「そしてこの原則は、に対しても適応されるのだ。

世界は二つ存在する」

 老人はそんな冗談みたいなことを大真面目な顔で言う。

「誰が言いだしたか、それを桜の木に例えることがある。

地上で美しい花を咲かせる銘木ほど、地下にはそれは見事に曲がりくねった巨大な根を持っている。

さっきと同じ、簡単な二元論だ。

世界も同様に二つ存在する。

我々は二つの世界を桜になぞらえてこう呼ぶのだ。

『花の国』と、『根の国』と。

君は過去、向こう側の世界、即ち『花の国』で生活を持っていた。

しかしある時次元の狭間に入り込み、こちら側の世界、即ち『根の国』に落ちてきた」

 私は混乱した。世界が二つ?まるで冗談みたいな話だった。しかし老人はちっとも笑わずにそれを私に語りかけた。悲し気にさえ見える表情で。その様には異様な迫力があった。

「君の記憶が抜け落ちているのも、それが関係している。

『根の国』に来たばかりの奴は皆、短期的な記憶障害に陥っている。

次元の隙間に入り込んだ際に生じる認識のズレから一時的に記憶の歯車が狂うのだ。心理的な防衛機制の一種だ。

だが心配はいらない。

特別な治療はせずとも、皆段々と元の自分を思い出していく」

 私は理解しようと努める。しかし脳はそのつもりでいても、身体が納得を拒む。

「端的に言えば、君は別の世界からやってきたのだ。

いまはこれだけ理解できればいい。

理解したか?」

 YES。

 そう瞬きで合図した。しかしまるで嘘をついているときのように心拍数が高くなり、呼吸が早くなる。

「納得できないようだな。

それも仕方あるまい。

この世界に君が元居た場所はない、

そんなことを突き付けられて平常心を保てる奴はいない。」

 老人は私に共感を示す。しかしそれが見かけの上だけであることは、私は十分分かっていた、彼は私を落ち着けるためにそれを言っているだけだ、孤独という大きなストレスに対して、共感は何より強力な治療法となる、彼はそれを知っている、知っている、この老人は優秀なセラピストだ、彼が私を吞もうとする、私は彼に吞まれまいとする、意識だけで抵抗する私に老人は言う。

「受け入れるんだ」

 老人の声には奇妙な安心感があった。

「受け入れるんだ」

「受け入れるんだ」

「受け入れるんだ」

 私は鼓室の中の老人を逃すまいと縋り着く。呼吸が少しずつ落ち着いていく。

「私の名は『老』。

このコロニー、『リュタンの戦士たち』の創設者にして、現酋長だ。

我々は君に一週間の猶予を与える。

自分を思い出すための猶予だ。

その間に、過去の自分を思い出し、自分が我々に貢献できることを証明してみせてくれ」

 自信のないYESを確認した後、老人は椅子から立ち上がった。矍鑠とした立ち姿である。

「さて、あとはグランピー、お前に任せよう」

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