第4話 ストリックランド

 朝。

 記憶は未だ戻らない。

 私は相も変わらず砂漠の縁と生命の匂いを求めて彷徨い歩いている。

 腹は大して減らないが、水分不足の方は大問題だ。唾液が出ないのは当たり前。そして、乾いているのは口の中だけではない。私は息を吸い込むたびに自分の気管の粘膜が互いに貼りつきそうになっているのを感じる。身体が干上がるのが先か、それとも気管が閉じ切って窒息するのが先か。だが考える余裕はない。足を動かせ。

 私は眼球に強烈な痛みとムズ痒さを感じる。瞼はねとねとした塩分と脂分の混じった目ヤニに塗れていて、少し目を開くだけでそれが眼球に垂れてくるのだ。私は度々右手の甲を頬のあたりまでもっていくが、理性の働きでそれを目元に運ぶのを抑制している。私の肌はびっしりと砂まみれになっていて、皺の僅かな隙間にまで細かい粒が潜り込んでいる。そんな手で目を擦ろうものなら、眼球の柔らかい表面には細かい傷が沢山ついて、感染の危険がある。運が悪ければ失明するかもしれない。だから私は目を掻かずにいる。限界まで乾いた脳でも、それくらいの理性的な判断は出来る。しかしそうやって抵抗しているうちは、目の痛痒はどうにもならない。私は固く目を瞑って渋面を作り、そののち顔面筋の緊張を解放する……それを何度も繰り返すことで、無理やり涙を出して目ヤニを流し去ってしまおうと思ったが、しかし既に私の身体は脱水状態に陥っている。涙なんて出るはずもない。

 

 昼。

 私は立ち止まる。

 すっかりぼやけた視界の中に、巨大な四つん這いの獣のが見える。丸一日ぶりの生命との遭遇だが、歓迎は出来ない。それはあまりに攻撃的な体躯をこちらに向けて構え、眼光鋭くこちらを睨みつけている。私の目は塩と脂に閉ざされぼやけ切っているが、この時私ははっきりとそれを見た。喉の渇きが加速し、砂まみれの皮膚が縮み上がる。

 しかし奇妙な事だが……私はこの時ほど自分の生を実感したことはない。私の肉体は縮こまった皮膚の中に圧縮されていた。縮められたばねがより大きな反発力を持つのと同じように、私の肉体は追い込まれた危機の中で却って活き活きと動き出していた。それは観念の世界において起こったことではない。私の胸郭の中で心臓は普段より強く脈打ち、血管は力強く血液を輸送する。あらゆる骨格筋は来る戦闘に備えてキゥキゥと収縮し、それによって消費される莫大な酸素量を賄うため呼吸が浅く、早くなっていく。体温が中心に集まり、一方で手足の末端が痺れるように冷たくなっていく。私の身体は、残されたわずかなエネルギーの全てを、あの獣のから逃げ出すことに使おうとしていた。それがこの瞬間、動物としての私が望んだ全てであった。

 しかし私は逃げ出さなかった。

 私は理性を以て認識していたからだ。あの獣のがその気になったなら、どうせ逃げたところで私は死を逃れることは出来ないのだと。私が渇いているように、獣も飢えているだろう。ならば彼が私を逃がしてくれることはあり得ないのだと。

 私はマゾヒスティックに死を受け入れ、身体を砂の上に横たえた。

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