第2話 電気的静寂

 やがて嵐が止み、視界が開けた。

 一様に続く砂は岡に向かってなだらかな稜線を描き、その先にはべったりと青で塗りつぶしただけの雲一つない青空が広がっている。あまりに透明感がないから、その向こうに宇宙が広がっているとは信じ難い。青空の一角で太陽が膨れ上がり、スクリーンを白銀の光で焼き尽くそうとしている。全ては一様に明るく、私が踏みしめる砂の音以外、風も止んで世界は完全な無音だ。

 この差異のない世界の中では、自分の輪郭がぼやけて景色の中に溶けだしていきそうな気がする。今の私は存在自体曖昧だ。何も覚えていないということが。こんなに恐ろしいことだとは思わなかった。

 自分のことが分からなければ、自分が本当に存在しているかどうかさえ分からなくなる。大きな不安が私を取り囲み、心臓は私のちっぽけな胸の中で暴れ出し、鼓動が世界に鳴り響く。落ち着け、落ち着くんだ。何とか自分に言い聞かせ、私は今できるたった一つのこと……すなわち、現状の限られた情報から少しでも自分のことを思い出すことに集中することにした。形のない恐怖から逃れるには、何かに集中することが一番だ、そう私の空白の記憶が言っている

 私は私自身を観察する。身長は普通。体型は極度のやせ型で、脂肪も筋肉も少ない。引き締まった身体というにはほど遠い、服の上から触って確かめると、あばらが浮いているが、腹筋がろくについていないせいで下腹部が少し突き出している。手足の肉もなくガリガリである。

 服装はスーツ姿。紺色の上下のセットアップにYシャツ、赤字に黒の縞模様のネクタイ。生地はそれほど上等ではなく、また私の体格に微妙に合っていないことから、大量生産された吊るし売りの安物だろう。足元は靴下にローファー。

 年齢は中年のはずだ。服装や、若さを失った肌の調子からそれはどうやら間違いない。しかし私は自分がどうやってこの歳まで生きてきたのかさっぱり分からない。私は自分の身体全てが他人のもののように感じられる。

 現状から得られるのはたったこれだけである。私はこれらの情報から、なんとか自分のことを思い出そうと試みる。

 自分がどうしてこんな砂漠の真ん中に居るのか。

 名前。

 家族。

 仕事。

 出身地。

 その他、なんでも。

 しかし全く思い出せない。どんなに頭をひねってみても、何か過去に繋がるようなヒントは得られなかった。

 私は本当は別の人間で、何か訳の分からないアクシデントによって、誤って誰か別の身体に魂だけが入り込んでしまったのではないか?そんな妄想にかられる。その妄想が全く非合理的で突拍子もないものだということは理解できているのに、今の私にはそれを否定するすべもない。

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