第7話 囚われの姫 部屋を出る

(「…? 体が痛い…」)


 リリアはハッとして目を覚ました。テーブルにうつ伏せたまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。おかげで体はバキバキだ。伸びをするにも恐る恐るである。


(「寝た気がしないな…」)


 そんなことを考えながら大あくび。床にぺたりと座り込んだまま、うつらうつらしている。ぼんやりとした意識の中で、どこからかコツコツと音が聞こえてきた。リリアは目を瞑ったままうっすら笑った。


(「ラッコが貝を叩いている…」)


 ふふふとのんきに笑っていたリリアだったが、コツコツ音が激しくなった瞬間、こんなところにラッコがいるわけがないと思い直し、ようやくその音の正体に気がついた。


 小窓から控えめな朝日が差しこんでいる。

 気がつけばもう、朝。

 ピンクちゃんが朝食をもってやってきたのだ。


「今行きます!」


 リリアは昨晩の毛糸玉をとりあえずソファの下に投げ込み、立ち上がろうとした。そして、テーブルに脛をぶつけて盛大に転んだ。


 ガシャンと派手な音がして、すごく嫌な予感がしたが、ガラスのテーブルはそのままそこにあり、リリアはほっと胸をなでおろした。あまりに遅いとピンクちゃんに不審がられてしまう。駆け足で戸口に向かった。


「寝間着のままですまないね。寝坊した」


 ぺろっと舌を出し、はにかむ。

 ようやくリリアが現れて、ピンクちゃんはほっとしたように肩の力を抜いたが、それも一瞬。すぐに血相を変えて青ざめた顔であわあわしだした。


「どうしたんだ?」


 ピンクちゃんの視線はリリアの脇腹を捉えている。見ると赤黒い液体がべったりとついているではないか。


「なんじゃこりゃ」


 痛みは…無い。リリアはほんの少し考えて、すぐに合点がいき、と同時に自分の情けなさにがっくりきた。

 ピンクちゃんは慌てていた。メイド服のポケットから包帯や絆創膏をごちゃごちゃ取り出したは良いものの、「違うな」と思ったようで、突然どこかに駆け出した。リリアは慌てて呼び止めた。


「あー、違うんだ! 怪我じゃない。インクを零したみたいだ」


 リリアはさきほど転んだあたりを振り返った。テーブルに置いていたはずのインク壺が床に転げ、ボルドーの水たまりを作っている。まるで血の海だ。


 ピンクちゃんは、ほっとしてぽろぽろ泣いていた。


 ◇◇◇


 それから、数日の時が流れた。

 その間リリアは筋トレをして過ごしていた。この小部屋には生活に必要なものは全て揃っているが、何せ娯楽が少ない。そうすると、不思議なことに人間という生き物は筋トレを始めるのだった。


 しかし、リリアはただ筋トレをするためにこの数日を費やしたわけではない。インク壺を零したあの日以来、リリアの頭の中に1つのアイデアが浮かんでいた。


(「私に死なれたら困るはずだ」)


 人質が死んだらジャヤ国と交渉できなくなってしまう。それは鬼璃きり魔国にとってとても困るはずだ。うん…そのはずだ…。


 リリアはベッドの天蓋で懸垂をしながら、頭の中にクエスチョンマークを浮かべていた。


 しかし、だとすれば、今、鬼璃きり魔国がどのような手段でジャヤにリリアの生存を証明しているのか疑問だ。リリアは確かに生きているが、顔を見せていない以上、その証明ができないはずだ。それでは交渉にはならない。


 そもそも、両者には埋められない力の差がある。それは、何ヶ月もここで過ごして来たからこそはっきり分かる。鬼璃きり魔国がジャヤを支配するなんて赤子の手を撚るくらい造作もないことだ。つまり、ジャヤ国を支配するつもりならばそもそも交渉すら必要ないのだ。


 支配が目的ではないとすれば、本当にいったいぜんたい何が目的でジャヤの姫を誘拐したのだろうか。


 リリアには皆目検討がつかない。


 いい運動をしたあとは小腹が空く。そこで、これの出番である。リリアは戸棚からパンの欠片を取り出した。これは今朝のパンではない。その証拠にカラフルなカビ菌がしなびたパンを彩っている。


 パンを持つリリアの手がわなわな震える。パンを口元に添えた瞬間、その震えはクライマックスに達した。リリアは誰にともなく呟く。


「私に死なれたら困るはずだ。多分…」


 パクっと口に放り投げ、ゴクリと飲み干す。味はしない、というか感じる暇もない。


「吉と出るか凶と出るか」


 リリアは筋トレを再開した。


 ◇◇


 リリアが激しい腹痛に襲われたのはそれからおよそ30分後のことだった。

 あまりの痛さにリリアは床に這いつくばりながら、己のバカさ加減を呪った。


(「すみません。私がバカでした。もう二度と腐ったパンは食べません。もう一生パンが食べられなくても仕方ありません。全部私が悪いんです。本当にごめんなさい。だから、誰か、この痛みを、どうか、消して下さい…っ!」)


 胃がキリキリ痛み、意識が飛びそうになる。体が震えるほど寒いのに背中には汗が伝っている。もう、何も考えられない。


 リリアの意識はそこで途切れた。


 だから、必死に彼女の名を呼ぶ声も、魔法で扉をむりやりこじ開ける音も、リリアは全く気が付かなかったし、彼女を抱えて城を走る男の力強い手の感触にももちろん気が付かなかったのだった。

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