第一章~⑧
大学は夏休みに入ったが、やることは山ほどあった。今後を見据えた勉強は、今の内にやっておかなければならない。大学が始まれば、講義と高評価で単位を取得する為の勉強に時間を割かれる。
今はないが、三年になればいずれかのゼミに入らなければならない。そこでも外部からの評価が高い、有名な教授がいるところへ入っておく必要がある。そうしたゼミは競争率も高く、良い成績を収めた上で面接をクリアしなければならなかった。
その為、休み中にできるだけ会得できることは済ませておかなければならない。直近の課題として、五月にFP技能二級を取得したので、九月にあるAFPの試験を受け合格しておく必要がある。場合によっては語学留学も考えている為、TOEFLを受け高得点を出しておきたかった。
他に六月は間に合わなかったが、税理士試験の受験資格として必要な簿記一級試験を、十一月には受けたい。そうした勉強もしておかなければならなかった。厳しい受験勉強を乗り越え、せっかく大学生になった最初の夏だからと、浮かれて遊んでいる場合ではない。サークルや部活等に時間を費やす余裕なんてなかった。
折角世間的に、一流と呼ばれる大学へ入ったのだ。ゆくゆくは優秀な官僚や政治家、または一流上場企業の社長や起業家になる者が、必ず周りにいるだろう。このような恵まれた環境を活かさない手はない。そうした可能性を持つ多くの人物と接し、人脈を形成しておくことも必要だ。
といって最初に自動的な組み合わせで決められるクラスを除けば、特定の集団に属するのは余りにも効率が悪い。それならば、出来るだけ将来有望であろう人物が受講する講義を選び、できるだけそこにいる人物達と交流し、顔を売って置こうと考えたのだ。当然そこでは人当たりよく、社交性がある点をアピールしなければならないだろう。
しかしどの講義が良いのかと問われれば、なかなか難しい。ただ単位取得が楽だと言われるものより、困難な授業の方が優秀な人物が集まる可能性は高いはずだ。あくまで確率に過ぎないけれど、基準が
そうした悩みを抱えながら、入学した当初の講義選択には、かなり時間を費やした。新入生歓迎コンパという名目で開かれる、サークルや部活に勧誘しようとする先輩方から情報を得る為、いくつも参加した事もあった。
けれど同じクラスになった楓との出会いは、予想を超えた出来事だった。何と言っても富裕層の親から仕送りされているとはいえ、複雑な家庭事情を抱えた彼女は、間違いなく来年の春に超富裕層となるのだ。そんな漫画のようなシチュエーションにある人物が、すぐ目の前に現れたのである。
しかも相談に乗った事により親しくなっただけでなく、あの憧れであるプル―メス社を訪ねる機会を得た。さらには取引先である調査会社の担当者と、繋がりを持てたのだ。こんなチャンスを得られるなんて、考えてもいなかった。これは運命だと大貴は感じていた。
けれどもこの頃はそれ程長きに渡って、謎を追う羽目になると想像していなかった。しかもその後、いくつかの壁に何度もぶち当たったのである。
まずは泊から、最初の中間報告をしたいとの連絡を受けた時、第一の壁が立ちはだかった。依頼してから三週間後の事だ。
彼との待ち合わせは、プルーメス社への訪問をしなかった絵美も同席した方が良いとの話になり、大学の近くで行われた。九月初旬の夏休み中で、学生がほとんどいない時期だったからだ。
それでも部活やサークルに参加する学生達は、それなりにいる。聞かれてまずい事もあり、ましてや同じクラスの友人や知人と会っては、何かと面倒だ。
その為、学生達が出入りする場所とは少し離れた住宅街にある、洋食店の個室を予約した。値段が張るので、学生は気軽に入れない。ランチ等混む時間帯を外せば、店内はとても静かだからだ。中にはお茶を楽しむマダム達がいたけれど、TPOを
四人が揃い全員が飲み物を注文し終わった後、泊が口を開いた。
「結論から申し上げます。お探しされていた、山内様のお祖父様の居場所が分かりました。詳細はこれからお渡しする中間報告書に記載していますので、ご覧ください」
楓は目を輝かせ、受け取った報告書を真っ先に開いて見た。一部だけしかない為、絵美と大貴は覗き込むように中身を見せて貰った。
だが少ししてから彼女は眉間に皺を寄せ指差し、泊に問い質した。
「これはどういう意味ですか」
彼女が疑問を持ったのは、記載された祖父の現在における仕事内容についてだ。そこには某ビル清掃と某社社食での洗浄と調理補佐に加え、スーパーのレジ打ちとある。何故そんなにも複数の職場で働いているのか、不思議に思うのも当然だろう。
しかし彼は淡々と説明し始めた。
「まずお祖父様が住まわれているのは、葛飾区にある月五万円台の古いアパートです。経済的にかなり困っていらっしゃるようでした」
「だからこんなに、いくつも仕事をしているというのですか」
「そのようです」
「健康状態は問題ないのですか。もしかしてどこか悪くて、失踪したのかと心配していましたが」
「その点は問題ないと思われます。お祖父様が病院へ通っている形跡はありません。またもし健康状態が悪いのなら、清掃とレジ打ちは別としても、社食の仕事には就けなかったでしょう」
それを聞いてやや安堵した彼女だったが、さらに尋ねた。
「お祖父ちゃんに、一体何があったのですか」
「申し訳ありません。私が依頼されたのは、お祖父様の居場所を探し出す事でしたよね。暮らしぶりについてお知らせしたのは、ちょっとしたサービスに過ぎません。ですが同じ東京にいらっしゃるとは驚きました。連絡を取り合う必要があった、連城先生がいるからでしょうか。山内様がどうされているかも気になっていたのかもしれませんが、そこまでは分かりません」
暗にそれ以上知りたければ、追加の調査が必要だと告げている口振りだった。彼女はグッと言葉に詰まり、俯いてしまった。意外と近くにいた事と、無事を確認できた点は安心したはずだ。
けれど生活ぶりを聞いて、心配になったのだろう。それだけ働いているのなら、健康状態なども気になっているに違いない。それ以前に、何故そこまで落ちぶれたのか釈然としない様子だった。
「遺産のほとんどを私に渡したとはいえ、お祖父ちゃんもそれなりのお金は持っていたはずなのに。お祖母ちゃんが会社を引退するまで、私の面倒を見ながら仕事も手伝っていたから」
「受け取った遺産の一千万の内、大半は管理費と固定資産税でなくなるとはいえ、ある程度の預貯金が無ければ家を出たりしなかったと思うし。何かあったのかな」
嘆き悲しむ楓の背中をさすりながら、絵美が口を挟んだ。そこで大貴が言った。
「山内さんは、お祖父さんの暮らしぶりや何故そんな状況に陥ったのか、興味があるようだね。できれば失踪後、どういう経緯があって今の場所に行きついたのか、知りたいんじゃないの。ただそうなると、聞きたくない事実まで明らかになるリスクも抱えるけど、その覚悟はあるかな」
彼女は顔を上げてこちらに視線を向けてから、泊の表情を見た。サービスと言った彼が、どの程度調べ上げているのかを探る意味もあったのだろう。
もし不都合な真相に辿り着き、伝えるべきでないと考えているのならば、これ以上の調査を依頼するのは止めた方がいい。居場所は判明したのだから、後は楓が祖父に会って自ら問い質せば済む話だ。
しかし彼は無表情を崩さなかった為、そこから何かを読み取る事は出来なかったらしい。それでもしばらく悩んだ挙句、彼女は覚悟を決めたのだろう。
「追加調査をお願いします。祖父がどういう経緯で、このようなアパートに住まなければならなくなったのか。何故今、お金に困った生活をしているのか、調べて下さい。料金はお支払いしますので」
この時彼は、この店に入ってから初めて大貴に視線を向けた。そこで軽く頷き返したのを確認し、話し始めた。
「承知しました。実はそうおっしゃるだろうと予想していた大貴さんから、事前に調査依頼を受けております。こちらをご覧ください」
先程とは別の報告書を二部取り出し、持っていた鞄から取り出す様子を見て、楓と絵美は目を丸くしながらこちらを見た。それでも敢えて黙っていた所、彼は楓と大貴に渡した書類を開くよう言った。
指示された通り、中身を見て内容を読み始めて驚く。これはさすがに、大貴も想像していなかったからだ。楓が持つ書類を覗き込むように見ていた絵美も、書かれている文章から目が離せずにいた。
ある程度内容を理解した三人が顔を上げた所を見計らい、彼は説明をし始めた。
「山内様のお祖父様はN県の家を出た後、最初福岡に住所を移し、それから東京へ出てきたようです。建物の登記簿謄本から、居場所を知られないよう細工する為だったのでしょう。そうした知恵をつけ東京での住まい等の紹介をしたのは、恐らく連城弁護士ではないかと思われます」
そこまでは大貴も想定していた。けれどその後は、彼らも思いがけない事件に巻き込まれたらしい。
「当初東京では、そちらに記載された不動産会社へお勤めになられ、ごく普通のマンションに住まわれていました。これも連城弁護士を通し、かつて磯村不動産に勤めていた経験を活かして紹介されたのでしょう。小さな町の不動産屋なので、そう簡単には見つからないと考えていたはずです。ただ問題は二年前に起こりました」
「もしかしてお祖父ちゃんは、この女の人がいたから私を捨てて姿を消したのですか」
動揺する楓を、泊は落ち着くように言い聞かせ首を振った。
「そうした形跡は見つかっていません。あくまで不動産会社に勤めていた頃に知り合った、顧客の一人だと思われます。しかし相手が悪かった。人が好いお祖父様だったから、引っ掛かったのでしょう」
彼の調査によると、物件を探しに来たある女性と親しくなったという。と言っても男女の仲にまでなったのかは、定かでない。けれど経済的に困っている彼女を助けようと、お金を出したことは確かなようだ。かつてトラブルに巻き込まれ、所持金をほぼ使い果たしたとの経緯を聞いたらしい。
そこでやり直す為に飲食店を開きたいという女性の願いを叶える為、設立資金を出したという。どうやら彼も、将来自分の店を出したいと考えていたようだ。その証拠に、不動産で働きながら調理師免許や栄養士の資格を取得していたという。
そうした特技を生かし、社食で働くようになったのかもしれない。
「そういえば、お祖父ちゃんが作る料理はすごく美味しかった。お祖母ちゃんも大好きで、お店が出せるレベルだって褒めていた時、そんな話を聞いた覚えがある」
いつかあの村に帰って、お金儲けの為じゃなく近所の人達に喜んで貰えるようなカフェでも開こうかと二人は笑っていたらしい。だが彼女の祖母の体調が思わしくなかったからだろう。それは夢のままで終わった。
そうした経緯もあり、彼は同じ希望を持った若い彼女を応援したいと考えたのかもしれない。あくまで投資であり、儲けが出れば回収できると思っていたか、もしくは失敗して出資が無駄になっても、しょうがないと覚悟していた可能性もある。
だが話はそう簡単で無かった。その女性の背後には、別の男がいたのである。やがて開店資金に加え、彼女が抱えた多額の借金の保証人にまでなった挙句、逃げられたという。その為所持金を失った上に、五千万円近い借金を背負わされてしまったらしい。
「連城先生が近くに居ながら、どうしてそんなことになったのですか。お祖父ちゃんは確かに優しい人だったから、騙されやすかったのかもしれません。それでも、そんな大金の保証人になるような人ではなかったはずです」
「連城先生には、内緒で話を進めていたようです。それに相当手の込んだやり口で、巧妙だったから騙されたのでしょう。裏にいた人物が、女性にわざと多額の借金を背負わせていたのかもしれません。そこで開店資金を出す書類に印を押させる際、どさくさまぎれにそちらの証文へもサインさせるよう仕向けた。気付いた時にはすでに手遅れで、彼らは行方を眩ましてしまったのです」
警察には被害届を出しているが、現在のところ捕まっていない。ただその届け出も、当初は渋っていたようだ。それを連城がなんとか説得したらしい。
「詐欺にあったのですよね。それなのに、どうしてお祖父ちゃんが借金を抱えて、今のような酷い生活をしなければならないのですか」
「詐欺の被害に遭った事と、借金の返済義務とは別だからでしょう。連城弁護士が間に入り、なんとか弁済しなくていいように動いたと思われます。しかし利子の高い闇金も含まれており、常識的な金利に引き下げるのが精一杯だったようです。それでも法定利息の上限は元本が百万円以上だと十五%ですから、その支払いだけでも大変な状況だと思われます。以前勤めていた不動産会社からは、トラブルを抱えている事を理由に、解雇されてしまいました。なので今は三つの仕事を掛け持ちして懸命に働き、返済しているようです」
「そんな馬鹿な話ってありますか。どうにもならないのですか」
「山内様、落ち着いてください。連城先生は放棄しても良いよう法廷で争う選択を提示したようですが、お祖父様はそれを良しとはしなかった。借りたお金は返さなければ迷惑をかけると言い張り、自ら現在の状況を選択されたのです」
大貴はこれまで、多額の遺産をほぼ放棄したとはいえ、まだ当時中学一年生だった楓の前から姿を消した彼は禄でもない奴だと思っていた。彼女が執着する価値などない、とまで考えていたのだ。
しかし泊の調査内容から
だから必ず探し出したいのだと、ようやくこの時腑に落ちた。
「借金は五千万近いと言ってましたよね。それ位ならお祖母ちゃんの遺産で払えば済むのに、何故連城先生はそうしなかったのかな」
「あくまで遺産の名義は、山内様だからでしょう。想像ですが、連城先生なら一時的にでもそのお金を使って弁済すればいい、と提案したのではないでしょうか。でもそれをお祖父様は拒否された。騙されたお金を馬鹿正直に返そうとする方ですから、そう言い張ったとしても不思議ではありません。しかも報告書に記載しましたが、労働条件はかなり過酷です。彼はこの生活を二年近く続けているのですから、相当な根性の持ち主であり頑固者と言えるでしょう。なので連城先生も諦めたのではないかと思われます」
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