弁護士だけど高校生


 古いビルが立ち並ぶオフィス街、ビルの上にはきれいな青空が広がっている。

 三階建ての小さな貸しビルの階段を一人の少女が駆け上がるのが窓から見える。

 高校生だ。制服といい肩から背負うスクールバッグといい、このような場所には不似合いだった。

 彼女は、大岡明日香、弁護士だ。 制服の紺のブレザーの胸元で弁護士バッジが光沢を放つ、そして彼女は貸しビルの一室のドアを開けた。

「ただいま戻りました」

 明日香の透き通った声が響く、しばらくして、「おかえり」と恰幅のいい丸い眼鏡をかけた中年の男が奥から出てきた。

「遅かったね? 何かあったのかい?」

「ええ、いろいろと」

 明日香は一日の事を思い出した。

「まあ、話しは後で聞くとして明日香君にお客さんがみえてるよ、お茶は私が出してあげるから取りあえず応接室へ行って」

「ありがとうございます。山崎先生」

 山崎法律事務所、所長の山崎元と大岡明日香の弁護士二人で切り盛りしている。当然事務員はいないから接客、雑用もどちらかがやらねばならない。大体いつもは山崎に来客があって、明日香がお茶くみをするのだが今日は珍しく、明日香に来客が来た。

 給湯室で山崎は買ってきたばかりの電動ミルでコーヒーを挽く、豆は山崎が適当にブレンドしていて時々味が変わる。まず、来客用のコーヒーカップに注ぎ下皿にクリームと袋に入った砂糖をのせる。次に明日香、愛用のピンクのマグカップに牛乳とコーヒーを入れてカフェオレを作って応接室に持って行くことにした。「コーヒーは挽き立てが一番美味しいからね」と独り言を呟いてコーヒーとカフェオレの乗ったお盆を持った。



 その頃、応接室で明日香は憮然とした顔をしていた。

 来客用ソファーにはガッチリとして、スーツ姿がよく似合う体格のいい四十代半ばの男が座っていた。

 明日香は「どこかで見た顔ね」と思いながら席に着く、そして名刺を出して、

「弁護士の大岡明日香です。ご依頼ですか?」

 男は名刺を受け取ると自分も名刺を取り出した。

「県会議員の有田伸行です。以後、お見知りおきを」

 明日香は、思い出した。「ああ、あの新聞屋のポスターに貼ってあったやつね、一体どういうつもりなのかしら」そう思うと明日香は少し警戒心が働いた。

 そこへ山崎が入って来て「コーヒーのおかわりをどうぞ」と有田の前にはコーヒーを明日香の前にはカフェオレをおくと「ごゆっくり」と言って出ていった。

 山崎が出た後しばらく静寂が流れた。

 明日香は、カフェオレを一口飲む「はぁ山崎先生の入れるカフェオレは豆挽き立てだから良い香りがするわ」そう思いながら豊かな香りと味を味わっていたところ、有田が口を開いた。

「笹野新聞店の事なのですが……丸く収めてくれませんか?」

 無表情に有田は言った。明日香は、腕を組んで答えた。

「丸くと言われても、私どもは、依頼人にとって、最善と思われる手段を取るだけです。そのような要求は受諾できません」

「そこを何とか、あの新聞屋の専務とは同級生で学生時代もアルバイトさせて貰ったりして恩があるんです」

 懇願するように有田は言ったが、明日香は、腕を組んだまま姿勢を保っている。

「とにかくそのような事を言われても困りますからお引き取りください!」

 そう言うと有田は俯き残念そうな顔をした。

「そうですか、では今日のところは失礼いたします」

 有田は立ち上がった。そして明日香も立ち上がる。

「もし良かったら」と言って折りたたんであるチラシを明日香に渡し、

「では失礼します」と言って有田は事務所から出ていった。

 明日香は手渡されたチラシを見た。有田の顔が大きく印刷されたマニフェストだった。

「げげ、こんなの、よこしやがった。こう厚かましいから政治家って嫌いなのよ」



 明日香は、自分の席に座る。奥に山崎の机があった。明日香の反対側には誰も使ってない書類置き場になっている机が一台ある。

 明日香が、給湯室からコーヒーとカフェオレを持ってきた。コーヒーを山崎の机に置いて自分の机にカフェオレを置いて、お盆を給湯室へ置きに行った。

 山崎は灰皿を手元に置いて、ポケットからタバコを取り出して、オイルライターで火をつけた。そして、近くの窓を開ける。

 明日香が戻ってきて、

「先生、またタバコ吸って、体に良くないから程々にしてくださいよ」

 山崎はタバコの煙を吐き出して、

「まあ、一日一箱くらいは良いだろうよ、我慢は良くないしな」

 笑顔でそう言い終えると、タバコを深く吸い込む。

「パパも山崎先生も美味しそうにタバコ吸うけどタバコって、本当に美味しいのかしら?」

 明日香は、ふと疑問に思った。

「明日香も大人になったら試してごらん、ブラックコーヒーと一緒にやると最高だぞ、ああ、明日香はカフェオレじゃなきゃ飲めないか?」

 煙を勢いよく吐き出して、山崎は言った。

 明日香は少しふて腐れて「また、子供扱いして……」と呟いた。

「ところで今日はどうだったんだ?」

 山崎は、タバコを消しながら明日香に聞いた。

「公判は相変わらずだったけど、被告人の息子に解雇通告来たからその職場に行ってみたんだけど、とんでもないワンマン社長で困ったわ、さっき来た県会議員はそこから何か聞いて来たみたい、本当に参っちゃうわ」

 明日香は言い終えるとため息をついた。

「まあ、田舎のワンマン社長はそういうものだよ、ところで、公判は相変わらず進まないか?……私が弁護している西田もだが」

 山崎は机の上で手を組んで考え込んだ。

「私の弁護している本村も自分が刺したの一点張りです」

 すると山崎が眼鏡を外して、

「西田も自分が刺したと言い張っていてね。果たしてどちらが刺したのだろうか? 凶器の出刃包丁には二人の指紋が付いているな」

 山崎は、眼鏡を拭きながら考え込んだ。

「たぶんどちらかが刺した後、抜けなくなって、抜こうとして、もう、一人の指紋が付いたのだと思うわ」

 明日香はカフェオレを一口飲む。

「その指紋、どちらが先に付いたかが問題なんだがね」

 山崎はコーヒーを一口飲みタバコに火をつける。

「あと、問題なのが、どちらが犯行を計画したかという点だな」

 明日香は、事件資料を開いて、

「犯行計画に使われた犯罪マニュアルは本村のパソコンにダウンロードされたデータがあって、代金も本村が支払っているわ」

 山崎はタバコの灰を叩いてまた一口吸った。

「インターネットでこんなモノが売られる世の中になるとはな……」

 山崎はタバコをくわえて考え込んだ。そして、つづけた。

「しかし、実際の犯行の計画を記した犯行計画書は西田の筆跡で書かれていて、本村のところで押収されたのはコピーだったみたいだが」

 明日香は、机の上で腕を組みながら、

「たぶん、西田が本村に購入するように言って、本村にダウンロードさせたんじゃないかしら? だって、西田の家にはパソコンはなかった訳だし、その犯罪マニュアルを本村に印刷させて犯行を考えたんじゃないかしら?」

 山崎はタバコを消して、箱からもう一本取り出して火をつける。

「そう考えるのが妥当かもしれないが、証拠もないから推測するしかないがね」

 そう言って、山崎はコーヒーを飲んだ。そして、しばらく目を閉じて考えこんでから、資料を見ながら考え込んでいる明日香を見た。

「にしても、被害者の畑山隆則はまだ若いのに気の毒だな」

 明日香は、資料のページをめくりながら、

「確か、聖パウロ大学の大学院生で深夜に牛丼屋でアルバイトしてたとか」

 山崎はタバコを灰皿に置いて伸びをした。

「今時珍しい苦学生ってやつだな、ますます気の毒になるよ、アルバイトしないで済んでたらこんな目には、遭わなかったかもしれないしな」

 明日香は、資料を注視して、

「確かに、奨学金借りて、それでも足らなくて、学費や生活費のために給料の良い深夜のアルバイトをしていたみたいね」

 明日香と山崎は腕を組んで考え込んだ。しばらく静寂が流れた。

 柱時計の鐘の音が事務所の中を響き渡る。

「おや、もうこんな時間だ。今日はもう閉めるから学校へ行っておいで」

 時計を見ながら山崎が言う。

 明日香は残っていたカフェオレを飲み干して、軽く机の上を片付ける。

「はい、お疲れ様でした」

「後は、私が片付けておくから早く学校行っておいで、じゃないとお父さんに叱られちゃうからね」

 山崎も机に散らばった書類を片付けながら、明日香に言った。

「じゃあ、お言葉に甘えて、お先に失礼します。あと、パパだったら大丈夫ですよ、門限にはうるさいけど遅刻の一回や二回くらいは平気ですから」

 明日香は、スクールバッグを肩にかけた。

「あと先生、今日はタバコ多いですよ……少しは健康に気をつかってくださいね」

「ああ、解ってはいるのだがな」

 山崎は、少し俯いて答えた。

「じゃぁお先に失礼します」

 明日香は、事務所のドアを開けて外へ出た。古いビルなのでエレベーターはない、階段をリズムよく降りて、ビルを出る。

 夕日は、沈みかけてだんだんと、空の色が濃さを増していく。明日香は駅まで独り、少し早足で歩いて行った。

 明日香が去った後、山崎は独り事務所で後片付けをしていた。

「ちゃんと寄り道せずに学校行ったかな? 大岡君もあれで結構心配性だからな、まあ、一人娘だから仕方がないか」

 山崎は、独り言を呟いた。片付けは終わり、戸締まりをして、事務所を出る。外はだいぶ暗くなっていた。

 そして山崎は駅までゆっくりと歩いて行った。空の色は紺から黒に変わろうとしていた。



 明日香は、フェンスに沿って歩いている。フェンスの奥にある建物からは大きなかけ声と共に竹刀で打ち合う音が聞こえてくる。

 学校に設けられた道場だった。中では剣道部と柔道部、そして、空手部が練習をしているようだった。

 そこから少し歩くと裏門があった。明日香はいつもそこから校内へ入る。

 外房総合高等学校、明日香と渉の通う高校だ。明日香も渉も夜間定時制に在籍している。

 下校する生徒に混じって何人か登校してくる生徒もいる。明日香は下駄箱で上履きに履き替え教室へ向かった。

 三年B組と書かれた教室に明日香は入った。中には年齢も性別もまちまちな生徒が三十人ほどいた。

 明日香は、自分の席に着き、前の渉の席を眺めていた。渉は、長く学校を休んでいる。

 教室の中はざわめいていた。十代の若い生徒たちは談笑していて、おそらく最年長と思われる四十代の男子学生はうるさい中、教科書を開いて予習していた。

 明日香も取りあえずと一時間目の数学の教科書を取り出す。

「はぁ、一時間目から数学かぁ、」

 明日香は、ため息混じりに呟いた。

 教室の戸が開きスラックスの上にジャージを着た三十代半ばほどの男性教師が入って来て、ホームルームが始った。出席の確認を取り、軽い挨拶をしてホームルームが終わった頃、「もう、いいかしら」と言って二十代半ばの小柄な女性教師が入って来た。そして、明日香にとって魔の時間とも言える数学の授業が始った。

 数学の授業を終えて明日香は放心状態だった。

「はぁ頭がグルグルする感じ……」

 明日香は机に伏せていた。

「明日香さんって本当に数学が苦手なんですね」

 後ろの席の大人しそうな眼鏡をかけた女子生徒が話しかけてきた。

「これだけは苦手なの、小学校の算数から」

 明日香は苦しそうに答える。

「中学で司法試験に受かった大岡さんでも苦手な科目あるんですね」

 眼鏡の少女は興味深そうな顔をした。

「桜井さん、アレと学校の勉強は別物よ」

 明日香は顔を起こして言った。

 そして、チャイムが鳴り三十代前半の女性教師が入って来た。次の時間は英語だ。



 数学、英語、国語と授業が続き、四限目の世界史の授業、明日香は数学の時間とは打って変わって、目を輝かせて授業を聞いている。

「このように社会契約説はフランス革命に大きな影響をあたえ……」

 スラックスの上にジャージを着た男性教師は熱く語っている。

 明日香の前の席、渉の席に目をやる。そして、ため息をついて、また語り始めようとしたところでチャイムが鳴った。

「今日はここまで、今日のところはテストに出るからな、プリント渡すからよく復習しておくように」

 教師はプリントを一番前の席の学生に渡して後ろに回すように指示を出した。

 そして、そのままホームルームに移った。といっても帰りの挨拶くらいであっさりホームルームは終わった。



 教室ではみんな急いで帰り仕度をしていた。明日香も教科書や筆記用具などを鞄に詰め込んでいた。

「大岡、ちょっといいかな?」

 スラックスの上にジャージを着た男性教師が明日香に話しかけてきた。

「高橋先生、何かあったんですか?」

 明日香はあっけにとられながら答えた。

「本村がずっと休んでいるだろ、だから本村に会ったときにプリント渡して欲しいんだけどお願い出来るかな?」

 明日香は少し考えてから、

「いいですよ、ちょうど明日、渉の家の近くに仕事で行きますから」

 明日香はプリントを受け取り世界史の教科書に挟んだ。

「それではこれで失礼します」

 高橋は、明るい顔を明日香に向けた。

「遅いから気をつけて帰るんだぞ、あと、本村によろしく言っといてくれ」

 明日香は教室の入り口で手を振りながら、

「はい、伝えておきます。では、また明日」

 夜の校舎を明日香は歩く、夜間部の生徒がどんどんと下校して校舎は静けさに包まれていく、教室で高橋も帰り仕度を始めた。



 電車を降りて、明日香は夜道を歩いていた。途中二十四時間営業のスーパーの前を通りそこから歩いて五分ほどの少し古びた団地にやってきた。大きな団地で、五階建てでエレベーターもあった。そして、エレベーターの前でスーツ姿の男性に「明日香ちゃん、お疲れ様」と声をかけられ明日香も「お疲れ様」と返す。

 この団地の一部は検察庁と法務省の職員の官舎として使われているので明日香が仕事で関わったことのある住民も多かったりする。

「ただいまぁ」

 明日香は自分の部屋のドアを開ける。美味しそうな、カレーの匂いが部屋の中を漂っていた。

「おかえり」

 張りのあるバリトンの声と共に、短髪に無精髭で茶色い色の付いた眼鏡をかけた柄の悪そうな中年の男が出てきた。ワイシャツの上に黒いエプロンをしていて、まるで喫茶店かバーのマスターみたいな服装だ。

 明日香の父、大岡俊行、ベテランの検察官だが柄の悪い人相はまるで経済ヤクザのようだ。

「メシ、出来てるぞ、明日香の大好きなカレーだぞ」

 俊行は笑顔で言った。

「鞄、置いてくる」

 明日香は自分の部屋に鞄を置きに行って、俊行はちゃぶ台の上にカレーを置いた。

 テーブルに二皿のカレーとサラダが並んだ。タイミング良く明日香は茶の間にやってきた。そして、俊行も席に着いて二人は食事を始めた。

 明日香がカレーをほおばるのを見て俊行が呆れて言った。

「もう少し女らしく出来ないのか? おまえは」

 明日香はほおばっていたカレーを飲み込んで返した。

「そんなの男女差別よ」

 そう言うと明日香はカレーをあっという間に平らげ、おかわりをした。

「サラダもちゃんと食べろよ」

 俊行が言い、明日香は気がついたようにサラダにドレッシングを掛けて食べる。

「ところで今日はどうだったか?」

 俊行がカレーを食べながら尋ねる。

「そうねぇ、いろいろありすぎて大変だったわ」

 明日香はサラダにドレッシングをたらしながら言った。

「公判のほうは順調か?」

 皿のカレーを半分ほど平らげて俊行が言った。

「うーん、膠着状態のまま、公判検事が一歩も譲らないって姿勢だし」

 明日香は二杯目のカレーとサラダを平らげて、水を飲んだ。

「まあ、お前も一歩も譲らないだろうからな」

「当然!」

 俊行の言葉に明日香はすかさずに返した。

「検察庁期待の星を相手にここまでやるとはお前も成長したな」

 俊行は満足そうな顔をした。

「そりゃそうよ、だって子供の頃から法学書の山の中で生活してれば、でも、深山って検事の被告人を見る目が凄く冷たい気がするの、子供の頃から裁判を傍聴しに行ったり、パパの仕事仲間の検事さんにあったりしてたけど、あんなに冷酷そうな検事さんは見たことないわ」

 明日香は食べ終わった食器を重ねながら言った

「実は、深山君は犯罪被害者遺族なんだ。子供の頃に両親を殺されて、苦学して、検事になったんだ。彼は、人一倍犯罪を憎んでいる。まあ、加害者に人権なんかないと言う彼の口癖は法律家としてどうかとは思うがな……今回の被害者も幼くして両親を亡くした苦学生、だから彼はいつも以上にやる気を出しているんだと思うな」

 俊行は腕を組んで俯きながら言った。明日香も考え込む。

「そうなの……でも負けるわけには行かないわ」

 明日香は拳を握りしめる。

「まあ、がんばれよ」

 俊行が笑顔で明日香を見つめる。

「ええ、勿論!」

 明日香は立ち上がった。が、立てなかった。

「足、しびれた……」

 俊行が呆れて立ち上がった。

「足崩して座ってろ、俺が持ってきてやるから」

  俊行は台所に行って茶器を取りに行く。。

 明日香は足を伸ばして足のしびれが治まるのを待った。しばらくして、俊行が急須と湯飲みを乗せたお盆を持ってやってきた。

 明日香は急須を手に取り手際よく二つの湯飲みにお茶を入れる。

 俊行も席に着いて明日香がお茶を入れるのをのんびり見ていた。

「お前、お茶入れるのだけは上手いな」

 俊行は腕を組みながら頷いた。

「よけいなお世話よ! 子供の頃からやってたんだから当たり前じゃない」

 明日香は頬を赤らめて照れ隠しに言った。

「おかげで、いつも美味しいお茶が飲めて感謝しているよ」

 俊行はお茶をすすり、思い立ったようにつづけた。

「ところで、渉君はどうしてる? 本村の公判に毎回来ていると聞くが」

 明日香は少しためらいながら言った。

「ええ、今日、公判の後に一緒にご飯食べたりしたわ、守秘義務があるから詳しい事は言えないけど、もしかしたらパパの手を煩わせる事になるかもしれないとだけ言っておくわ」

 俊行は、タバコに火をつけ一口大きく吸って言った。

「あんまり面倒な問題持ってくるんじゃないぞ」

 明日香は苦笑いしながら父、俊行を見つめていた。

 しばらく時間が過ぎ、

「もう遅いしお風呂入って寝るわ、パパ先に入る?」

 俊行は、タバコの煙をくゆらせながら、

「俺は、もう入ったからゆっくり入れ、俺は、いつものお勤めやったら寝るから」

「じゃぁ、行くね」と言って明日香はお風呂場に向かった。



 湯煙の中、明日香はゆったりとしていた。髪と体を洗い湯船にゆっくりと浸かっていた。

 鈴の音が聞こえ「魔訶般若波羅蜜多心経、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時……」俊之は自室で仏壇に向かって般若心経を唱えていた。

 仏壇の中にある写真、明日香の母、俊行の妻、雪絵の遺影に向かい俊行はひたすら経を唱えた。雪絵の遺影は若く、聡明と言う言葉のよく似合う美人だった。



 明日香は、お風呂を上がり黄色にピンクのストライプの入ったパジャマに着替えて水を飲みにやってきて、

「パパ、夜中に近所迷惑よ」

 仏壇の前で合掌している俊行に言った。

「そんな罰当たりな事言うな、母さんは、天国でお前と俺を守ってくれてるんだぞ」

 明日香は伸びをして、

「お経唱えるのはいいけどもっと声小さくって事! お風呂場にもよく聞こえたから近所に響いてるかもしれないじゃない、信教の自由は大事だけど周りに迷惑かけちゃダメよ」

 俊行は腕を組んで考え込んだ。

「そんなに大きな声だったか?」

 明日香は少し呆れながら、

「ええ、とっても、いっそ検事辞めて、お坊さんにでもなった方がいいんじゃないって感じよ」

 俊行は少し考え込んだ。

「うーん、俺に袈裟が似合うと思うか?」

 明日香は、俊行が袈裟を着た姿を想像した。

「まぁ、見た目ヤクザみたいなお坊さんも結構いることだし、ありえるんじゃないかしら」

 俊行は、少し嬉しそうに、そして少し照れながら

「そうか、そういうのもありか」

 明日香は、憮然とした顔になり「もう、調子に乗らないでよ、もう遅いし寝るからね」明日香は廊下をゆっくり歩き、ピンクで塗られ白い文字で横書きに『あすかのへや』と書かれた木製のプレートがかかった部屋のドアを開けてベッドに倒れ込む、小さな部屋で明日香は夢の中にゆっくりと入っていった。



「魔訶般若波羅蜜多心経、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時……」

 俊行の読経する声で目を覚ます。

「悪い目覚め……」

 明日香は俊之の部屋に行き、うるさいと文句を言おうとしたら、読経を終えた俊行が目を輝かせていた。

「おお、明日香、見ろ、これで父さんもお坊さんになれるぞ」

 俊行は、チラシを見せてきた『僧侶養成通信講座 あなたも働きながら僧侶になりませんか? 今の仕事を続けたまま僧侶として御仏の教えを導く人に』と大きく書かれていて、下に小さい字で講座のカリキュラムなどが書かれていた。

 明日香は憮然として、父、俊行を見上げると「これなら、検事辞めなくてもいいから、平日は検事、休日は僧侶という生活ができる。おまえの昼は弁護士で夜は高校生って生活みたいにな」明日香は、しばらく開いた口がふさがらなかった。

「もう好きにして……」

 ため息混じりに漏らした。

 俊行は嬉しそうにして落ち着きがなく、自分の部屋の中を歩き回っていた。そんな父親に呆れながら、明日香は、朝食の支度に取りかかった。

 昨夜のカレーを火に掛ける。固まっていたので少し牛乳を入れた。。

 カレーが温まる頃に俊行が茶の間にやってきて食卓に付いた。

 明日香は、二人分のカレーとサラダを食卓へ運んだ。

 二人は手を合わせて「いただきます!」とカレーを勢いよく食べ始めた。

「やっぱりカレーは一晩寝かせた方がうまいな」

 俊行が明日香に話しかける。

「そうね、でも何でかしら?」

 俊行が胸を張って答えた。

「何でも一回冷まして固めるのが良いそうだ。」

 明日香はカレーを頬張りながら、

「それで?」と聞いた

「良くはわからんが、とにかく一回冷ますのがポイントらしい」

 明日香はカレーを食べ終え、

「ふーん、まぁいいか、とにかく美味しければ」

 俊行が腕を組みながら、

「事件も同じだ! 解決に熱中しすぎていると見落としてしまうことも、頭を冷やせば案外簡単にわかる事もある」

 明日香は二杯目を食べ始めていた。

「にしても、朝からよく食うやつだな……」



 朝食を終え明日香と俊行は、部屋を出てエレベータに乗った。外に出ると朝日が眩しく輝いていた。

 二人は朝日を浴びながら街へと向かっていった。

 そして、中心街で激励しあって、明日香は山崎法律事務所へ、俊行は検察庁へとそれぞれの職場へと向かって行った。」

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