明日香と渉


 白い壁、白い床、入り口の前にはモニターが置かれ、債務整理の手続きをアニメーションで説明している。

 ここは、裁判所のロビー、吹き抜けの天井の上はドーム型になっていて、そのステンドグラスには天秤と剣を持った。「正義の女神」が描かれている。

 入り口から少し奥、廊下が二股に分かれるところに自販機とベンチが置かれている。

 制服姿の少女が自販機から紙コップを取り出してベンチに座り、紙コップを口に持って行き一口飲んだ。

「はぁ、やっぱり一仕事終えた後はカフェオレにかぎるわぁ」

 少女はしばらく紙コップを持ったまま考え込んでいた。いや何も考えずに疲れた脳を休めていたのかもしれない。

「明日香―!」

 少年の声が響き渡る。声変わりしたばかりの若い声だ。

 紺のブレザーに緑色のチェックのズボン、胸ポケットにはペンが交差し中央に分厚い本が開いている紋章が着いている。

 明日香と呼ばれた少女は、声の方向に目をやった。明日香の胸ポケットにも少年と同じペンと本の紋章が縫い付けられている。

「渉、遅かったじゃない!」

 渉と呼ばれた少年は走りながら少女の前にやってきた。

「ちょっとトイレ行ってた」

 渉は少し、恥ずかしそうに、答えた。

「まぁいいわ! とりあえず、何か飲む?」

 明日香の透き通るメゾソプラノが響いた。

「じゃぁコーヒー……ブラックで」

 明日香は、一瞬驚いた。カフェオレを飲んでいる自分とコーヒーをブラックで頼む同級生兼依頼人である目の前のさえない少年を見ながら。「なんか負けたような気がする」と明日香は少し感じた。

「そうじゃぁ、私のおごりね」

 渉は明日香からお金を受け取ると自販機に入れコーヒーのボタンを押し砂糖やクリームの加減をするボタンのブラックを押す。「ブラックコーヒーって渋い物飲むのね」と思いながら渉に紙コップを渡す。

「ところで、話しって?」

 明日香は、渉に聞いた。渉は、少し戸惑いながら話し始めた。

「職場で手紙渡されたんだけどそれが……」

 渉は黒いショルダーバッグから恐る恐る茶封筒を取り出した。

「早く開けて」

「わっ」

 明日香は、渉から封筒を取り上げ、中を開けた。手紙には大きな字で『解雇通告』と書かれていた。

「どうしたの一体? 何かやらかしたの?」

 明日香は厳しい口調になり眉をひそめながら言った。

「何にもしてないよ、遅刻もしてないし、やることはやってる、ただ……」

「ただ?」

「父さんが捕まってから、職場で無視されたり、ミスもしてないのにミスしたって言われたり……」

 渉は、涙ぐみながら明日香に訴えた。明日香は、腕を組みながら考え込んで、紙コップのカフェオレを飲み干して、口を開いた。

「不当解雇の疑いがあるわね! 後で行ってみましょう」

 明日香は、目を細めながら手紙の文面を睨み付ける。

「ねぇ、『弊社所有の自転車を返却すること』って書いてあるけど何のバイトしていたの?」

 明日香は、顔を上げて渉に聞いた。

「新聞配達」

 渉は答えた。

「とりあえず私が交渉してみてもいいけどどうする?」

 渉は、少し黙ったまま俯いた。そして、

「お願いします」



 明日香は渉の職場に電話を入れた。午後に渉と一緒に交渉に行くことになった。時刻は十二時を回ったところだ。

 明日香と渉は、裁判所から出て駅に向かって行った。 裁判所から駅まで歩いて十五分ほどかかる。

 明日香が渉に声をかける。

「ちょうどお昼だし食べて行かない? 良い店があるの」

 明日香は渉に誘いをかけた。

 渉は少し考えてから小さく声を漏らした「良いけどあまりお金持ってないよ」

と返し、明日香はすぐに返答した。

「いいわよ、今日は私がおごるから」

 渉は少し戸惑った。そして、少し考え込む。「相談に乗って貰って、ご飯までご馳走になって良いものかと」しかし、断る理由もないし、なにより、明日香の誘いを断るのは怖いと感じて結論を出した。

「ご馳走になります」



 都会のビルの間は案外人通りが少ない、夜になれば仕事帰りのサラリーマンの溢れる繁華街となるのだろうけど昼間はスナックも居酒屋もシャッターが閉まっていて活気がない。そんな街の片隅を歩く二人の若い影があった。

 そして、昼間でもシャッターが開いている店があった。赤い看板に金色の字で中華料理、九龍と書かれていて、中からは賑やかな声と言えば聞こえが良いが、悪く言えばガラの悪い酔っ払いの叫び声がする。

 二人は、戸をガラガラと音を立てて開くいた。

「いらっしゃい!」

 景気の良さそうな店主の声が店の中にこだまする。

 狭い店内にいくつかの長方形のテーブルがあり、カウンターでは昼間からビールを飲む中年から壮年の男性が多くいた。

 明日香は、開いている席を見つけ、渉に席を勧めた。

「今日は若いお客さん連れてきたね、彼氏かい?」

 店主が、満面の笑みを浮かべながら水を持ってきて、明日香に聞いた。

「ち、違うわよ! 同級生兼依頼人というか、まぁそんな感じよ!」

 明日香は、顔を少し赤らめて店主に答えた。店主は楽しそうに言った。

「で、ご注文は何になさいますか?」

 明日香はメニューを見ながらいろいろ迷うも結局はいつものを注文する。

「五目焼きそばにするわ、渉は?」

「僕は、五目炒飯にするよ」

 店主は、ニコニコしながら「かしこまりました」と言って厨房へ入っていった。

「ここ、よく来るの?」

 渉が明日香を見ながら、少しおどおどしながら聞いた。

「ええ、裁判所へ行った帰りにはよく寄るわ、教えてくれたのは山崎先生なの」

 渉は、それを聞いて納得したかのように明日香に返した。

「明日香の事務所の所長さんの?」

 明日香は、水を一口飲んでコップをテーブルに置いて答えた。

「そうよ、初めての裁判の後、山崎先生に連れてこられてから、裁判所の帰りにはここでご飯って事が多いかしら、まぁ汚い店だけど、味はホテル並みよ」

 明日香がそう言い終えると、

「汚い店で悪かったね」

 恨めしそうな声が後ろから聞こえた。

「ああ、おっちゃん聞こえちゃった」

 明日香は、作り笑いをしてごまかした。

「はい、ホテル並みの味の炒飯と焼きそばね」

 店主は、再び笑顔に戻りそれぞれの席に皿を置いた。

明日香は、割り箸を割った。パチンと乾いた音が小さく鳴る。

「まずは腹ごしらえね、渉も冷めないうちに」

 渉はレンゲに乗った炒飯に息を吹きかけて冷ましている

「僕、猫舌だから……」

 明日香は目を輝かせながら、ウズラの卵を箸でとり「これ、最高なのよね」と言って口に入れる。そして、うっとりとした顔になる。

 渉はそれを見て、一瞬ドキっとした。普段はちょっと怖い明日香とは違う別の顔を見たような気がしたのだろう。

 明日香は、そのまま勢いよく焼きそばをすする。

 渉は、少し冷めて食べやすい暖かさになった炒飯を食べ、時々、明日香の様子を見た。

 こうして、二人は、テーブルの上のささやかな幸せを味わった。



 電車がプラットホームに大きな音を立てて入ってくる。ドアが開き、明日香と渉は電車を降りた。

 海から吹く風は、少し潮の香りがする。海までは少し距離があるが、少なくとも都会から離れた事を感じる。そんな小さな町へやってきた。

「歩いてどれくらいかかる?」

「十五分くらいかな」

 明日香の問いに渉は答えた。

「ならタクシー使わなくてもいいわね」

 明日香が言うと渉は少し驚いた。

「タクシー?」と語尾を上げて答えた。

「結構使うわよ」

明日香が平たく答え、

「高校生がタクシーってちょっと贅沢じゃ」

渉が恐る恐る返した。

「いいの! 第一、高校生がタクシー使っちゃいけないって法律なんてないんだから」

 明日香は少し怒って渉を睨みながら言った。

「いいわ! タクシーで行きましょう!」

「えっ、ちょっと明日香……」

「問答無用! 付いてきなさい」

 明日香は渉の手首をつかみホームの階段を降りた。改札を抜けて、バスターミナルの一角にあるタクシー乗り場へ行き、先頭のタクシーの窓を軽く二回叩いて、ドアが開くと後部座席に渉を押し込んだ。そして、明日香も乗り込んだ。

「笹野新聞店まで」

 明日香は大きな声で言った。

 中年の運転手がいぶかしそうな顔をして「近くですし、歩いてもそんなにかかりませんよ」と言った途端に、明日香は憤慨した「何? 乗車拒否? 客に文句あるって言うの? あんたん所のタクシー会社に電話入れて文句言ってやってもいいのよ」と凄い剣幕で捲し立てた。

 中年の運転手は、少し黙り込む。そして「笹野新聞店までですね」と運転手が言うと、タクシーはゆっくりと走り出した。



 コンクリートに固められた土地に、原付バイクと自転車が何台か並んでいる。タクシーが入ろうとしたら、原付バイクが横切ろうとした。

 タクシーの中で明日香は後部座席から大きな声で言った。

「何やってんの! はい、クラクション鳴らす!」と言って後部座席から身を乗り出そうとした。

「お客さん危ないですから」

 運転手は明日香をなだめて、仕方なさそうにクラクションを鳴らした。

 クラクションに気がついて、従業員たちは原付バイクをどかした。

 そうして出来たスペースに、タクシーは入り込んでいった。

 タクシーの後部座席のドアが開く。

「はい、ご苦労様、近くで悪かったしおつりはいらないわ」

 明日香は運転手に五千円札を渡してタクシーを降りた。

 タクシーを降りた二人を見ていた若い、二十代前半くらいの男が二人やってきた。一人はガリガリに痩せていて、もう一人は太っていた。

「渉? 何しに来たんだ? 彼女か?」

 太っている方の男が面白そうに聞いてきた。

「いや、僕の弁護士」

 二人は一瞬驚いてしばらくして、痩せた方の男が言った。

「ああ、新聞で読んだことある。中学で司法試験に合格した。高校生の弁護士がいるって」

 明日香は胸を張って、弁護士バッジを見せびらかした。

「スッゲー本物だぁ」

 痩せた方の男は感嘆の声を漏らす。

「でもよ、バッジはともかく胸ちっちぇえよな」

 太った方の男が明日香の胸を見ながら言った。

 明日香は気にしていることを言われて、頭に血が上った。

「ちょっと、あんた! 弁護士にセクハラ発言するとはいい度胸ね」

 明日香の睨む目はギラギラと光りを放っているようだった。

 太った方の男は、明日香の剣幕の押され冷や汗を流しながら謝罪した。

「わかればよろしい!」

 明日香は笑顔に戻った。

「ところで、社長はどこにいるのかしら?」

 痩せた方の男が答えた。

「確か、パチンコ行っていると」

 太った方の男が腕を組んだ。

「いや、確かゴルフの練習じゃなかったか?」

 明日香は、怒りを通り越して、少し呆れてしまった。

「今日、話しがあるってアポ取ったんだけど」

「俺たちに言われても」

 痩せた方の男が肩をすくめて言った。

「専務なら事務所にいるけど」

 太った方の男が言った。

「専務って?」

明日香の頭の中には疑問符がたくさん出てきていた。

「社長の息子だよ」

 渉が、明日香に説明する。

「しょうがないわ、とりあえず話しを聞いてみましょう」

 二階建てで一階にシャッターがありそのすぐ奥に、ガラス戸がある小さな店舗だった。外見は小さいが奥行きはだいぶあり、テーブルが六卓ありちょうど夕刊が届いたので十数名の従業員が夕刊を運んで入り口から一番近いテーブルに置いていく。

 そしてさらに奥へ行くと正方形の窓がある木製ドアがありその上に事務所と書かれたプラスチック製のプレートがつけられていた。

 明日香はそのドアをノックした。

「本村渉の代理人の大岡と申します」

 三十代半ばほどの女性がドアを開けて、申し訳なさそうな顔をして「どうぞこちらに」といって事務所の奥の廊下を通って応接室に案内された。

 応接室には手前に三人掛けのソファー、奥に一人がけのソファーが二つ、真ん中にはガラスのテーブルに灰皿が置かれていた。周りには戸棚がありその上にはキジの剥製が飾ってある。そして、壁には、県会議員、有田伸行のポスターが貼ってある。

 明日香は、先に、渉をソファーに座らせて、部屋を一別してから、渉の右隣りに座った。

「今、お茶をお持ちしますね」と案内してくれた女性が言い部屋を出た。

 明日香が渉に聞いた。

「緊張してる?」

「うん」

 すぐに返事が返ってきた。

「部屋を見る限り結構儲かってそうじゃない」

「うん、たぶんね」

 二人が話していると先ほどの女性がお茶とを持ってきて渉と明日香の前に置いた。

「失礼します」と言って女性は部屋を出て、しばらく立って、四十代くらいの中肉中背の男性が入って来た。

「こんにちは」と挨拶を言い応接室に入ってきて、奥に置かれた一人がけのソファーに腰掛けた。

 明日香は、名刺を取り出し「初めまして、山崎法律事務所の大岡明日香と申します」そう言って名刺を渡した。

「専務の笹野良夫です」

そう言って、男は明日香に名刺を渡した。

「早速ですが、本村渉の代理人として、解雇通告に対して異議を申し立てます。正当な理由のない不当な解雇としてこちらも取るべき手段を取るつもりです」

 明日香が言うと専務は少し焦った。

「なんとかしたいのですが、もう、社長が決定してしまった事なので……」

 少し言いにくそうに、専務は言った。

「社長は、どうしたんですか?」

 明日香は、少しきつめの口調で専務に聞いた。

 専務は、少し口ごもり、

「その、外出中というか……」

 明日香は、少し呆れてしまった。

「さっき駐車場で従業員に聞いたわ、パチンコに行っているとか、ゴルフの練習に行っているとか、店の開いている時間にいいご身分ね」

 専務は、少し驚き冷や汗をかいていた。そして、しばらくの間沈黙していた。

 そこへ、応接室の扉が勢いよく開き、小太りで背の低い禿頭の老人が入って来た。

「弁護士が来ていると聞いたがどこにいる」

 大きな、そして、下品な怒鳴り声が応接室に響く、専務が立ち上がり、「こちらが渉君の弁護士」と明日香を紹介した。

 明日香は立ち上がり、名刺を取り出した。

「山崎法律事務所の大岡明日香です。」そう言って名刺を老人に渡す。

 老人はいぶかしそうな顔をして、名刺を見た。『山崎法律事務所 弁護士 大岡明日香』と書かれているのを見た。

「こんな小娘が弁護士か?」

 明日香を見ながら、少し馬鹿にしたように言った。

 老人に専務が耳打ちをして「例の中学生で司法試験に合格したっていう高校生の」老人は少し考え込んで「ああ、だいぶ前に新聞やテレビのニュースでやっていたやつか?」明日香は微笑みながら「ご名答」と答え、つづけて「そして、渉君の代理人です。」と不適な笑みを浮かべながら言った。

 老人は腕を組んだ。

「なんと言おうが解雇は取り消さんからな!」

「なんと言おうが違法は違法です!」

 明日香は老人に向かいキバを向くように言った。

 すると老人は激昂し、怒鳴り散らした。

「わしが社長じゃ! ここはわしの店じゃ、どうしようがわしの自由じゃろうが」

 明日香は、憮然とした顔をし、しばらくして「それでも法というルールには従っていただきます。渉君を解雇する法的根拠はありません!」老社長は、その言葉に憤慨して泡を吹いた「犯罪者の息子なんて雇っておったら客が減るんじゃ! それが解雇の理由じゃわかったか?」明日香は冷たく言った「それは解雇の理由には該当しません、そのような措置に断固として抗議します」すると社長は壁のポスターを指さし、胸を張って言った「いいか! わしには県会議員が付いておるんじゃわかったか!」それに対して「そんなの関係ないわ! こっちには法律が付いているのよ、覚悟なさい!」明日香は、すぐに言い返した。明日香も胸を張る。

 こうして、押し問答が続き明日香が、いくら法的な説明をしても、社長は頑固に一歩も譲らずにいて、もう二人とも理性的な会話、交渉のはずが、まるで子供のケンカのようになってしまっていた。そんな言い争う二人の間で渉は黙り込んでいた。

「とにかく違法解雇をするのでしたら、こちらにも考えがありますから!」

「ふん、やれるものならやって見ろ!」

「では、今日はこれで失礼します! 渉、行くわよ!」

黙って話しを聞いていた渉の手首をつかみ、応接室を出て廊下を早足で歩きながら明日香は呟いた。

「ほんとにもう、頭にきちゃう、一体何様のつもりよ、アポはすっぽかすし頑固だし」

 渉は、明日香に引きずられながら、

「そういう人なんだよ、社長って」

 明日香は、答えた。

「まぁよくある田舎の中小企業のワンマン社長ってやつね」

 明日香が応接室を出た後、社長が専務に向かって吠えた。

「塩まいとけ!」

 専務は渋々台所に塩を取りに行った。



 明日香と渉は、店を出て歩き始めた。

「はぁ、あの社長にはまいったわ」

 明日香が渉に言う。

「うん、いつもあの調子……」

 明日香はやる気のない渉を見ながら声を出した。

「あなたね、自分の権利が侵害されているのよ、あの社長に何とか言ってやったらどうなの?」

 渉は俯きながら、小さな声で呟くように言った。

「僕にはできないよ」

 明日香は、憮然としてしばらく黙っていた。数歩、歩いた。

「まぁそのために弁護士がいるんだけどね。」

 明日香は腕を頭の後ろで組みながら言った。そして渉が口を開く

「うん、ありがとう、明日香のおかげで少しスーっとした感じがするよ」

 渉は、顔を上げて明日香を見ながら言った。

「どういたしまして、まぁ今後どうするかは後日考えましょう、労働審判にしてもいいし、労働基準監督署に訴えるのもいいわね」

 渉は考え込んだ。

「僕は、そういうことよく解らないから明日香に任せるよ」

 明日香は、微笑みながら頷いて「任せときなさい! あのワンマン社長に一泡吹かせてやるんだから」明日香と渉は、商店街を歩く、ほとんどの店はシャッターが閉まっていて、開いている店はほとんどない、空は青く白い雲が風に乗って流れていく「ところで、まだ、時間もあるから送って行くわ、近いんでしょ」明日香は渉に聞いた「うん、歩いて五分くらい」渉は、答えた。

 そして、渉が、明日香の一歩先に出て歩き始めた。



 古い家と新しい家が混ざって立ち並ぶ住宅街、渉の後を着いて明日香は歩いていた。人気は少なく静かさが漂っている。

「ここだよ」と渉が言って玄関の戸を開け中に入り戸を閉めた。その瞬間だった。

「人殺し!」

 外から叫び声が聞こえて来た。そして、パリンと音がして戸のガラスが割れた。

「痛ぁ」明日香が頭を抱えて蹲った。

 床には、小石が落ちていた。そして、小石は、ガラスを突き破った後に明日香の後頭部に見事に命中した。

 小石には赤く明日香の血が付いていた。

 明日香は痛みをこらえて立ち上がり、戸を開けて、外へ出た。するとそこには逃げていく男の後ろ姿があった。

「許さないんだから!」そう激昂の声を上げると明日香は全力で追いかけた。

 若い、小太りの男だった。全力で走っているが、明日香のほうが早く、どんどん距離が縮まっていく、やがて追いつき明日香は逃げる男の袖をつかみ無理矢理引っ張った。勢いで男が横を向いたところを、蹴りで足を払う。男は勢いよく転倒し地面にうつぶせになった。そして、明日香が馬乗りになって男の両腕を後ろで押さえつける。

 そこへ渉が後を追いかけてやってきた。

「渉! 警察に連絡して! あと縛る物持ってきて!」

「わかった」と渉は言い急いで来た道を戻って行った。

 明日香の下敷きになった男は、朦朧とする中、手を動かそうと抵抗を試みた。

「傷害及び器物損壊の現行犯! 逮捕!」

 明日香は叫んだ。

「そんな、警察でもないのに」

 明日香の下で、男はうめくように言った。

「現行犯は、誰でも逮捕できんのよ! この小悪党」

 そこへ渉が、ビニール紐を持ってやってきた。

「これで良い?」

「十分よ、警察が来るまでの間の仮手錠ね」

 そう言うと、明日香は男の手を勢いよく締め上げた。

「渉、今日が初めてじゃないわね?」

 渉は小さく頷いた。

「うん、何回か石を投げ込まれたことある」

 明日香は訝しそうな顔をしてた。

「警察にはちゃんと話した?」

 渉は俯いて、小さな声で言った。

「言ったけど全然解決しなくて……」



 約十分後、赤色灯を回転させながらパトカーがやってきた。中から警官が二人降りてくる。若くて痩せた男と中年の小太りの男だ。

運転席には若くておとなしそうな警官が乗り込んだまま待機する。

 明日香の下敷きになっている男は怯えていた。

 「ご苦労様、傷害及び器物損壊の現行犯をお引き渡しします」

 明日香は上からどいて男を無理矢理立たせて警察に突き出した。

「ご協力感謝いたします」

 二人は敬礼をして

中年の警官が「大川巡査部長です」と言い、続けて若い警官が「田中巡査です」と言い終えると、明日香の下敷きになっていた男のビニール紐を解き手錠をかける。

「今までにも何度か同じような事があったと聞きます。今後このような被害がないようにお願い出来るかしら?」

明日香は、少し強い口調で言った。

 大川巡査部長は男を暴れる男を押さえながら

「今後、重要パトロール拠点として周辺を警戒いたします」

 明日香は満面の笑みを浮かべながら言った。

「そうしていただけると助かるわ、もし、また、こんな事があったら」

「また、こんな事があったら」

 二人の警官は声をそろえて言った。そして間髪入れずに明日香が言い放つた。

「県警本部の監察官室にお手紙をお送りするわ」

 それを聞いた二人の表情が凍り付いた。

「上にも報告して警戒強化いたしますから、それだけは……」

「そう、ならいいけど」

 明日香は、不適な笑みを浮かべた。二人の警官は苦笑いをした。

 大川巡査部長は、先ほど手錠をかけた男を後部座席へ押し込んだ。田中巡査は、車のドアを開けて一足先に中に入る。大川が「お二人ともご協力ありがとうございました」と言って、反対側のドアからパトカーの中に入り、引き渡された男の隣に座る。そして、パトカーは赤色灯を回しながら走り去って行った。

 パトカーの車内で大川巡査部長は呟いた。

「やっかいな事件に回されたな……」

 運転席に座る若いおとなしそうな警官が聞いた

「どうしたんですか先輩? 最初から犯人逮捕されてて楽な事件じゃないですか?」

 何も知らない、運転席の若い新人警官は、気楽な表情を浮かべていた。

「山本君は、任官したばかりだから解らないかもしれないが、やっかいなのは事件事態じゃないんだ。俺たちの署全体がお偉いさんからどやされるかもしれない、監察官って聞いた事くらいあるだろう?」

 大川巡査部長が言うと、運転席の山本と呼ばれた若い警官は、ため息をついた。



 パトカーが見えなくなるまで明日香と渉は見送っていた。明日香はすがすがしい顔をしていた。渉は明日香に聞いた。

「ねえ、監察官って何?」

 明日香は、ニコニコしながら答えた。

「警察のお偉いさん、まぁ、警察の職務が適正に行われているか調べて、場合によってはお説教のお手紙の一通も各警察署に送ったりもするわね。だから、そんなお手紙が来ないように彼らもできる限り努力するわけ」

 明日香が言い終えると渉が俯いた。

「それって彼らにとってはかなりの脅しじゃ」

 明日香は、少し厳しい表情になって言った。

「今回の事件って前にもあって解決してなかった訳じゃない! 警察は事がなきゃ動かないって言うけど、今回は事があっても動いてなかったんじゃない! だからそれくらい言ってやらなきゃ! まぁ犯人捕まえたし、あれ見てたら、他にも、あんな事しようって奴はいないだろうから大丈夫だと思うけどね」

 言い終えたところで明日香の顔が少し緩む。

「とにかく、ありがとう、これで家に石が投げられる事もなくなるといいな」

 渉が、明日香を見据えて言う、

「勿論よ、まぁもし何かあったら警察に連絡するのよ、今度はちゃんと動いてくれるはずだから」

 明日香は、腕時計を見た。

「あ、もうこんな時間、事務所に戻らなきゃ、じゃあね、渉、気をつけるのよ」

 明日香は、渉に軽く手を振りながら、駅に向かって歩いて行った。

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