冬の精

@shiratama1608

前口君

冬の精を見たのだと思った。パーマがかった黒いショートカットにくりっとした茶色い目。頬は雪のように真っ白でその上に整った鼻と口が並んでいる。 

明らかに場違いな雰囲気を纏った彼女はゆっくりと予備校の試験会場に入って来ると流れるように椅子を引き、私の斜め前の席に座った。辺りから小さなざわめきが上がり、瞬く間に周囲の視線が彼女に集まっていく。試験開始まで残り2分。明らかに彼女の周りだけ時間の流れが違っていた。


もう3年前になるのか。手垢まみれの茶色いアルバムに挟まった写真を見ながら、私は溜息をついた。後ろからこっそり撮ったブレブレのフォトに映るその古い友人の顔は、周りからの視線に戸惑っているように見える。何か熱いものがこみ上げてきた。涙が一滴、写真の傍に落ちて黒い染みを作る。それをふき取ることなく目を動かした。


左のページの写真には、河原から撮った土手の上で花火を眺める冬の精の姿が写っている。えっと、確かあの試験の後、思い切って話しかけてみたんだっけ。そう、そしたら彼女は魔法の世界から来た冬の精なんかじゃなく、真澄ちゃんという読書好きな高校二年生の女の子だと気付いたんだった。真澄ちゃんとは帰り道が同じこともあって直ぐに友達になった。でも結局それ以上の関係にはならなかった。もしあんな事が起こらなければ、いや仮に起こらなかったとしてもきっと叶わなかったのだろう。


「ねぇ前口君見える?あそこの花火?」真澄ちゃんの視線の先には河原で一人、地面に埋めたネズミ花火に次々と着火する男がいた。高校生位だろうか?背中には通学用のリュックを背負い、手にはカメラ付きの携帯電話が握られている。

「冬の花火か」思わずにやっとした。「いいね。確か太宰治の作品に同じ題名の作品がなかったっけ?」

「戯曲のこと?うん。あったよ」そう答えた彼女の顔は何故か少し強張っている。

不思議に感じて覗き込むと、真澄ちゃんは何か思い詰めた顔でこちらを見た。目は河原の方に泳ぎ、顔にはくっきりと不安の色が浮かんでいる。「あの人嫌い。いつも私に付いて来て気を引こうとしている気がして・・。このままだと何かとても悪いことが起きる気がするの」

生暖かい風が吹き、辺りの街路樹がカサカサと音をたてた。彼女の髪が風でなびき、その先を舞い上がった落ち葉が飛んでいく。胸がきゅんとした。その瞬間また時間がゆっくりと流れ出し、彼女は天女か何かに見えた。

「大丈夫。何もないから」私は安心させるように真澄ちゃんの肩を強く掴んだ。何も起こさせはしない。友達である自分が彼女を守る。そう決意しながら力を込めた。

急に彼女は走り出した。靴を月の光で銀色に光らせながら、一度も振り返ることもなく真っ直ぐと。

「あっ、待って」もちろん直ぐに追いかけようとした。だが次の瞬間、警察服を二匹の獣が目の前に立ちふさがって・・・抵抗したものの直ぐ地面に押さえつけられた。


アルバムがブルブルと小刻みに揺れる。それが自分の手が震えているからだと気付くのに数秒かかった。震える手で次のページをめくる。そこにはくしゃくしゃになった1枚の写真が入っていた。前の写真から一月たったの現場検証の時の写真だ。そこには中央で血だまりに沈む真澄ちゃんとべっとりと血の付いた包丁。そしてその横で泣きじゃくる私の姿が映っていた。


守り切れなかった。守り切れなかった。マモリキレナカッタ・・。ずたずたになった感情とぼろぼろと落ちる鉛のような涙の中で、私は血だまりに浮かぶ包丁を呆然と見つめていた。雪が解け春になって冬の精は消えてしまった。自分の下に留めおけなかった。

周りから聞こえてくる悲鳴と怒号が槍となって背中に突き刺さり、崩れ落ちるように真澄ちゃんに覆いかぶさった。彼女の体は既に冷たく、もう雪に還ってしまったように感じられた。


アルバムを閉じると私はゆっくりと立ち上がった。空は少しずつ白んできたが、まだ起床の時間にはなっていない。「ごめん、殺してしまって」思わず口から溢れた言葉は暗い鉄格子の外の廊下へと消えていった。


「2月20日火曜日20時30分頃、長野県鹿骨市裏山2丁目で市内の高校に通う古川真澄(18)が包丁で殺害され警察は同市に住む前口誠(18)を殺人の容疑で現行犯逮捕した。二人は同じ予備校に通っていたものの、面識はなかったという。△被害者は後ろから包丁で複数回刺され、その場で死亡が確認された。警察によると、古川さんは以前、前口容疑者と思われる男性から「ずっと誰かからつけられている気がする。昨日も帰宅中、花火の音がして見ると(前口容疑者から)写真を取られた」と相談しており、警察も複数回補導していた。警察は計画的な犯行も視野に捜査を進めている。【2月21日朝刊の新聞紙面】

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