磔刑

 主なき車両の並ぶ無人の屋内駐車場に響く足音。

 1体の異形が枯れ枝のような指をコンクリートの柱に突き立てる。


《くそが!》


 ピスキーの長たるパックルは窮地に陥っていた。

 背中の翅が微かに発光し、黒い外皮に刻まれた裂傷が塞がっていく。

 当然の結果にパックルは見向きもしない。


《次はない、だと?》


 愚かな家畜には覆すことのできない盤面が崩壊した。

 余興に過ぎなかった戯れで遭遇した災厄によって。


《ふざけるなよ…!》


 口元を大きく歪め、毒を吐く。

 領域内で敗北し、分身の位置を暴露されようと優位は揺るがない。

 そのために手足となる駒を揃え、広域を汚染するマジックを仕込んでいたのだ。


 傀儡を放ち、マジックを以て災厄へ報復する──はずだった。


 蒔いた種は一つも実を結ばなかった。

 コミュニティへ放った傀儡はウィッチを含めて全滅し、マジックを発動すべく打ち込んだ楔は破壊された。

 残された手札は逃走の一手しかない。


《あの化け物、必ず──》


 憎悪に満ちた言葉を最後まで紡ぐことは許されなかった。

 無人の屋内駐車場に激震が走り、鳴動する高層マンション。


 舞う埃が闇を灰に染め──突如、天井が爆発した。


 コンクリート、鉄骨、配管、あらゆる質量物が頭上より降り注ぐ。

 崩壊する構造物の狭間を縫って疾駆するパックル。


《ちっ!》


 肥大化させた右腕を振り抜き、障害ごと壁面を破砕。

 穿った脱出口より月夜へ身を躍らせる。

 空中にて身体を捻り、倒壊する高層マンションの頂を仰ぐ。


 そこには灰の粉塵に侵された夜空と──月光を背負う黒い影。


 襤褸に等しい外衣を纏い、漆黒の体毛が銀の艶を帯びる。

 そして、長大なシミターの切先が天を衝く。


《鬱陶しいっ》


 パックルは着地と同時にアスファルトを蹴り抜いた。

 大気を引き裂く悲鳴が至近を擦過し、黒き大地が爆ぜる。

 それは切断というより

 巻き上がる粉塵を突き破り、再び白刃が闇を切り裂く。


《この雌犬が!》


 再度、跳躍。

 すかさずシミターがパックルの影を両断し、車道にクレーターを穿つ。

 刃の重量に任せた斬撃は乱雑。

 されどオーガの頭蓋を一撃で砕く威力があった。


《しつこいんだよ!》


 なおも迫る獣にパックルは右腕を突き出す。

 右腕は4つに裂け、網状の傘となって襲撃者の視界を覆う。

 獲物を絡め取る仮足を前に、黄金の瞳が瞬き──


「潰れろ」


 漆黒の体毛に覆われた右手を閉じる。

 刹那、膨大なエナが流動し、大きく開いた傘が歪む。

 空間ごと捻じれ、ついには弾け飛ぶ。


《潰して良かったのかなぁ!》


 糸を引いて四散する異形の肉片は、ヒトの心身を蝕む穢れそのもの。

 しかし、漆黒の獣は前進を止めない。

 全身を使ってシミターを振り抜く彼女に、肉片はおろか血の一滴も触れることは叶わない。


「無駄」


 襤褸が陽炎のように揺らぎ、全ての穢れはアスファルトへ叩きつけられた。

 月光を帯びた白刃が音の壁ごと敵を断つ。


《ちぃ!》


 紙一重で後退に成功したパックルは、切り飛ばされた左腕を破裂させる。

 暗黒の霧が一面に降り注ぎ、愚かな雌を死の微睡へ誘う。


 しかし、これも無意味──禍々しい黒のカーテンは空中にて静止する。


 暗黒の影より歩み出る漆黒の獣には通用しない。

 尖った獣の耳が揺れ、腰から伸びる黒い尻尾が地を払う。

 鋭い爪の備わる脚がアスファルトに存在を刻む。


《本当に鬱陶しいなぁ……家畜の分際で》


 交差点の中心に佇むパックルは苛立ちを隠せない。

 災厄との戦いで消耗したエナが回復していない今、状況は圧倒的に不利。

 新たな身体へ移り、家畜たちの群れに紛れるべきだが──


「最初の威勢はどうしたのかしら?」


 月と並び立つ戦女神が許さない。

 空色の戦装束を夜風に靡かせ、眼下を睥睨する最強のウィッチが。


《笑ってられるのも今のうちだよ》


 パックルは苦々しい声を奥歯で噛み殺し、嘲笑を貼り付ける。

 天より投じられた13本のスピアは、不可視のコロッセウムを旧首都に生み出した。

 そこは内と外のエナを断ち、ピスキーの生命線たる交信を封じた処刑場。


「あら、怖い」


 嗤う戦女神は観戦者であり、その手には何も握られていない。


 処刑人は眼前の獣──否、ウィッチだ。


 膨大なエナを代価に破壊を振り撒く人類の守護者。

 対するパックルは僅少のエナと2体の分身しか残されていない。


《……思い出した》


 力が足りぬなら策を弄するのがピスキーの長だ。

 情報を集積している群体から切り離され、特定に時間を要した。

 しかし、ひとたび獲物を知れば嬲るのは容易い。


黒狼ヘイラン


 記憶の片隅より引き出した名を唱える。

 目も鼻もないパックルの顔に赤い亀裂が走り、弧を描く。


《たくさん友達を殺しちゃった雌犬じゃないかぁ…!》


 灰色の粉塵が揺蕩う旧首都に下卑た笑いが響き渡った。

 ヒトの内へ土足で踏み入り、唾を吐きかけて嘲笑う。

 それがピスキーだ。


「友達…」


 雑音を拾った耳が揺れ、黒狼は言葉を反芻する。

 大陸最高戦力と謳われるウィッチナンバー2は、己の右手へ視線を落とす。


 鋭利な爪が生えた異形の手──同胞の血に塗れた手だ。


 覚悟や信念といった言葉で取り繕う幼きウィッチの心は脆い。

 残されたヒトの部位に刃を突き立て、抉り出すのだ。


「…いたんだ」


 吐息を小さく漏らし、寂しげに微笑む少女。

 その綻びは一瞬、一呼吸の後には消え失せる。

 瞳孔の狭まった瞳が黄金に輝く。


《は?》


 予想外の反応に硬直するパックルの眼前には、獣の手があった。

 転移ではない。

 空間を歪曲し、彼我の距離をのだ。


《ぶぇっ》


 並のインクブスであれば血煙と化す一撃が、パックルの胸部を打ち抜く。

 貫通、破裂、四散。 

 肉片は放射状に飛び散り、路面へと降り注ぐ。


《調子に乗ってんじゃねぇ!》

《お前を潰してやるよぉぉ!》


 古い身体を捨て、2体の分身を動かすパックルが咆哮を上げた。

 交差点の中心に立つ黒狼を左右より挟撃する。

 攻撃手段は、頭上まで持ち上げたタンクローリー。


 それはパックル謹製の爆弾──質量が大気を裂き、交差点へ降る。


 黒狼は異形の右手を天へ翳し、一歩も動かない。

 放射されるエナが交差点に滞留し、渦を巻く。


「潰れろ」


 足元の影が塗り潰された瞬間、虚無を握り締める。

 響き渡る金属の鈍い悲鳴。

 2両のタンクローリーは圧潰し、死へと誘う暗黒の霧が噴き出す。


《おい、ふざけんなよ…》


 死は空間ごと捻じ曲げられ、禍々しい華となって夜空に咲く。

 その直下に佇む者を汚すことなど不可能。


 ウィッチナンバー2の権能──それは歪曲。


 万物を歪め、捻じ曲げ、圧し潰す。

 枷を外したことで得た膨大なエナが、その暴威を最強の一歩手前まで引き上げている。


「8体目」


 シミターを水平に構え、マジックを発動。

 己から見て左、背を向けて逃走する分身との距離を捻じ曲げる。


《家ちぅがぁっ》


 刃の描く銀の軌跡に異形が飛び込む。

 薪を割るような快音が響き、首が宙を舞う。


「…あれで最後?」


 歪曲によって捲れ上がった路面へ骸を打ち捨て、黒狼はシミターを肩に担ぐ。


〈ああ、間違いない〉


 そして、最後の分身──パックルのを見据える。


〈仕上げだ、黒狼〉


 髪飾りに扮したパートナーは厳かに告げ、ウィッチは静かに頷く。

 シミターを握る左手が小刻みに震え、犬歯の覗く口から重い息が漏れる。

 マジックの連続使用は少女の身体を確実に蝕む。

 ゆえに、放つ一撃は必殺でなければならない。


《仕上げだって…?》


 嘲る余裕すら失ったパックルは、マジックの兆候を見逃すまいと身構える。

 閉じた右手を向けられた瞬間、脚の膂力を解き放つ──


〈後ろだ、菌類〉

《なにっ》


 背後に広がる空間が収縮し、パックルは吸い出されるように投射された。


 殺人的な加速が身体を折る──あらゆる抵抗は無意味。


 純白に着飾る不動産のオフィスビルを貫通し、減速。

 コロッセウムの中心に位置するマンションの駐車場に着弾する。


《くそっくそっ! 僕を玩具にしやがって!》


 捻り潰されなかった事実にパックルは憤る。

 家畜と見下す存在に遊ばれている、そう認識した彼は無様に喚く。

 周囲にはコンクリートの破片が降り注ぎ、世界は灰色の闇に閉ざされている。


《楽には殺さないぞ、家畜…ども…?》


 しかし、エナの感知に優れるピスキーの長は異変を察した。

 急速に増大していくエナの反応は、忌まわしき災厄の臭い。

 瓦礫を叩く硬質な足音、打ち鳴らされる大顎。


「これで終わり」


 月下に響く幼き声。

 駐車場を見下ろす獣は漆黒の毛並みを靡かせ、黄金の瞳を爛々と輝かせている。

 それは勝利を確信し、獲物の最期を見据えた目だ。


《勝手に終わらせてんじゃねぇよ!》


 怒気を漲らせるパックルは腕を振るい、立ち込める粉塵を吹き散らす。

 露となる瓦礫の山、そしてハキリアリの戦列。


 微かに引き攣る口元──脚が一歩、後退する。


 十分なエナの備蓄があれば、ピスキーの長にとってファミリアなど雑兵に過ぎない。

 しかし、膨大なエナを消耗した今、眼前に布陣する戦列は難攻不落。

 だからこそ、無意識に後退を選んだ。


《はっ…今度は虫けぁっ!?》


 その浅慮は致命的な結果となってパックルを襲う。

 重力に逆らい、脚が地より浮き上がった。


 背より生える翅を絡め取る物体──によって。


 それは大地から切り離された瞬間、獲物を天高く吊り上げる。


《ぐぁっ、くそっ!》


 頭上から次々と純白の糸が投げられ、パックルを上へ上へと吊り上げていく。

 生暖かい風が吹き、天より注ぐ月光が死の罠を照らす。

 マンションの上階から伸ばされた係留糸を基礎とし、立体的に糸を張り巡らせた不規則網。


《ラタ、トスク…そぅだ、ラタトスクぅ!》


 その主たるヒメグモは、喚き散らす獲物に一切の興味を示さない。

 機械的に糸を手繰り寄せ、羽虫の如き翅を乱雑に折り曲げる。


《早く助け、にっ…こい!》


 これまで見下してきた臆病者は姿を現さない。

 エナの放射が完全に遮断され、一切の抵抗が不可能となる。


《この僕がっ…あがっ…こんなっ》


 交信を封じられたパックルに次はない。

 この身体が破壊された瞬間、パックルという個は消滅し、ピスキーという群は機能不全を起こす。

 死を知らなかったインクブスは、最悪の形で死を知る。


《こんな虫けらにぃ──》


 罵詈雑言を吐く口を糸が塞ぎ、固く縛り上げる。

 ヒメグモは腹部後端から糸を紡いでは獲物に巻き付け、自由を奪っていく。 

 やがて、黒い外皮は純白に覆われ、棺桶を形作る。


「報いを受けろ」


 黒狼の宣告を聞き届けることなく、パックルの世界は闇に閉ざされた。

 これより彼に訪れる死は、彼が最も間近で見てきた死だ。

 は新鮮な苗床を前に大顎を打ち鳴らす。

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