余燼
鉛色の厚い雲が星を隠し、昼間の熱を残す街並みは闇に包まれている。
しかし、夜の訪れた市街地に静寂はない。
花火を思わせる軽快な破裂音、そして重々しい銃声が鳴り響く。
「こんなに隠れてるとは思わなかったね」
嫌悪の滲む声は鈍い爆発音に掻き消される。
とんがり帽子の下で琥珀色の瞳を細め、眼下を睨むダリアノワール。
上空より見下ろす市街地は戦場と化していた。
〈どこに隠れてたのやら……わらわら出てくるにゃぁ〉
黒魔女が腰を預ける2m長のライフルから冷淡な声が響く。
夕刻の襲撃に呼応して現れた信奉派は、驚くべき人数だった。
まるで社会の裏で息を潜めていた悪意の全てが溢れ出したよう。
「僕も制圧に回るべきじゃないかな?」
禍々しい黒煙が立ち上り、炎が曇天を赤く染める。
ダリアノワールの黒髪が熱風に弄ばれ、闇夜で大きく靡く。
信奉派は暴徒同然の存在だが、その手に持つ火炎瓶やパイプ爆弾は脅威となる。
〈シルバーロータスの言伝を忘れたのかにゃぁ〉
「すぐ終わるよ」
眼下で炎上する車両を見つめる瞳には、仄暗い闇が宿っている。
それは信奉派への敵意であり、憎悪だ。
盲目的な信奉者──ダリアノワールから日常を奪った者たち。
インクブスと同等か、それ以上の敵。
周囲に不幸を振り撒き、信奉する対象にすら害を及ぼす。
たとえ信奉の対象がウィッチであろうと、それは変わらない。
〈撃てるのか?〉
長大なライフルへ変化しているパートナーは問う。
数多のインクブスを屠り、数多の人間を救ってきたウィッチに。
「撃てないと思う?」
ダリアノワールは眉を顰め、言葉の節々から苛立ちを滲ませる。
痛みの伴わない教訓に意味はない。
人類の脅威となった信奉派に必要な痛みとは、死そのものだ。
〈ご主人が引金を引きゃ、弾丸を吐き出す。それが道具ってもんだ〉
主を乗せた黒鉄のパートナーは淡々と語る。
止めるわけでも、諭すわけでもない。
人類の発明した道具に変化し、主に仕える──その在り方は自身が望んだ姿。
銃器とは火力の投射を容易にイメージでき、彼女の趣味趣向に合致する。
そして、パートナーにとっても好ましいデザインだった。
望む結果を得るため洗練された工業製品は、従者の理想とする姿だ。
〈だがな……後悔されるような仕事はごめんだぜ〉
だからこそ、望まぬ結果のために使われるわけにはいかない。
これまでダリアノワールは敵対者の生存を否定してきた。
しかし、その権能を一度たりとも同胞へ向けたことはない。
彼女には悪を許さぬ善性と殺人を禁忌とする倫理が備わっている。
〈もう一度聞くぞ、ダリアノワール〉
焔の輝きが映り込む銃身から発される声に、普段の人を食ったような響きはない。
〈人を殺せるのか?〉
その真率な問いは、戦場音楽の止まぬ夜でも明瞭に聞こえた。
琥珀色の瞳が閉じられ、黒魔女は口を閉ざす。
──沈黙が回答だった。
新たな爆発音が轟き、乾いた銃声が摩天楼の狭間を反響する。
無秩序な攻撃を仕掛ける信奉派によって戦場が拡大していく。
「復讐は無意味とか……先輩は望んでない、とか言わないんだ」
とんがり帽子を目深に被ったダリアノワールは、ライフルの銃口を郊外へと向けた。
〈他人様の御託はいらねぇよ〉
飛翔のマジックによる加速は音もなく主を薄汚れた戦火の空から連れ出す。
地上を照らす焔が遠ざかり、闇が影すら飲み込む。
〈ご主人がどうしたいかだ〉
黒鉄のパートナーは至極当然のように宣う。
ダリアノワールの選択を他者が決めることはできない。
今は亡き初代ウィッチナンバー4であろうとも。
「──日常を守るためなら容赦しない」
吐息と共に漏れ出した呟きが夜風に溶ける。
唯一の肉親である母を喪った日、黒澤牡丹の日常は致命的に歪んだ。
理解者と居場所を同時に奪われ、この世の地獄に放り出された。
だからこそ、固執する。
己を受け入れ、肯定してくれた今に。
「なんて言ってたのにね……結局、何一つ守れてない」
ダリアノワールとなって数多のインクブスを屠り、数多の人々を救った。
それでも日常の欠片は零れ落ちていく。
自身の知らないところで。
「駆けつけるのは、いつも終わった後だ」
シルバーロータスから報告を受け、現状を把握した。
それまではインクブスの動向も、ベニヒメの窮状も把握できていなかった。
ウィッチは全知全能ではない──友を救えない力に意味はあるか。
手の届く範囲すら護ることができない。
胸中より溢れ出した自己嫌悪が少女の表情を歪める。
〈まだ終わってねぇよ、ご主人〉
主の言葉を一切の迷いなく否定するパートナー。
その長大な銃身が射す方角、郊外に広がる闇の中で光が瞬く。
モールス信号のように一定の間隔で点滅し、存在を主張する。
〈今日は売られた喧嘩を買える日だぜ〉
光源の正体は、ホタル科のファミリアだ。
ダリアノワールを目標まで導くため、シルバーロータスが遣わせた
〈雑菌野郎の小細工を台無しにしてやるんだろ?〉
黒魔女のパートナーは挑むような口調で問いかける。
ベニヒメを救出したシルバーロータスは反撃に際し、ナンバーズに協力を求めた。
ダリアノワールは郊外に点在する爆心地の焼却を任されていた。
それはインクブスの切札──大規模なマジックを発動するトリガーの完全破壊。
ファミリアによる無力化だけでは不完全、だからこそ呼び出した。
否定という強力無比な権能を有するウィッチナンバー6を。
「そうだね」
闇夜に浮かぶ蛍火を見つめ、ダリアノワールは自嘲気味に笑う。
空中で静止した黒魔女の装束が風に揺られて靡く。
高層マンションの屋上に音もなく降り立ち、ライフルの銃口を曇天へ向ける。
「まだ終わってない」
己の無力を嘆き、為すべきことから目を背けてはならない。
「やるよ、トム」
身体を軸に長大なライフルを軽々と回し、錆び付いた手摺に銃身を置く。
琥珀色の瞳が微かに光を帯び、爆心地に滞留する霧を睨みつけた。
〈おぉん、汚物は消毒にゃぁ!〉
銃口が紅蓮を吐き出し、闇を一掃する。
◆
夜の闇を吸い込むアスファルトの黒から緑が顔を覗かせている。
衝撃で歪んだ遮音壁の隙間からは、文明の墓標を拝むことができた。
龍のように長大な躯体を誇る都市高速道路は、誰に知られることもなく朽ちていく。
そんな道を悠然と進む人影があった。
「収容中のウィッチは3人、お願いできる?」
携帯端末を耳に当て、黄金の髪を夜風に靡かせる。
お遣いを頼むような気軽さで話すのは、空色の戦女神だった。
「そう……苦労をかけるわね」
曇天を見上げる碧眼に一瞬だけ憂いの光が宿る。
しかし、それ以上のことは語らなかった。
支給品の携帯端末が沈黙し、アスファルトの路上を規則的な足音が反響する。
「黒狼」
自他共に認める最強のウィッチは、左斜め後ろを歩くウィッチの名を呼ぶ。
微かな光を身に纏う戦女神と異なり、その者は闇より深い影だった。
頭上の尖った耳が揺れ動き、黄金の瞳が鋭く細められる。
「私は囲いを作るだけ。それ以上は介入できない」
刃の如き眼差しを受け流し、ラーズグリーズは右手に持つスピアで路面を小突く。
その柄には純白の糸が結び付けられている。
「あなたの仕事は追い込みよ」
「分かってる」
人を小馬鹿にしたような声に対し、あどけなさの残る声が返される。
彼女たちが向かう先は、闇夜に沈む旧首都。
目標──それは、フェアリーリングを統制するインクブスの首魁だ。
市街地で繰り広げられる国防軍と信奉派の戦闘には介入しない。
シルバーロータスが捕捉した首魁を全力で叩く。
「それがシルバーロータスの作戦なら従う」
闇を映し込むシミターの刃を肩に担ぎ、黒狼は力強く宣告する。
シルバーロータスに故郷の人々を救われた少女は、残された時間を捧げると決めた。
死すら恐れないだろう。
「あ、そう」
素直に従う黒狼へ突き放すような口調で応じ、ラーズグリーズは歩みを進める。
献身の精神を否定する気はない。
しかし、称賛しようとも思わない。
「はぁ……」
目的地上空に集まる影を捉え、戦女神は気怠げな溜息を吐く。
それから気難しい協力者へ振り向き、首元を指差す。
「首のドッグタグ、外しておきなさい」
いつ如何なる時も肌身離さず持ち歩いていたドッグタグ。
それは黒狼と共に戦った者たちの生きた証だ。
「戦闘の余波で千切れちゃうかもよ」
エナで構成されてない以上、どうしても不安が残る。
戦闘に集中させるため、あらかじめ外しておくことが望ましい。
警戒心を露にする黒狼の眼前に、ラーズグリーズは無造作に左手を差し出す。
「だめ」
異形の右手でドッグタグを守るように抱き、黒狼は一歩後退る。
敵愾心から生じた逃避ではない。
死神を映す黄金の瞳には、微かな恐怖の色があった。
「無くしたら──」
「そこまで抜けてないわよ」
管理の不手際を疑う発言に、さすがの戦女神も眉を顰める。
ラーズグリーズは数多の人命を奪った正真正銘の死神だ。
しかし、死者に対する最低限の礼儀は弁えている。
「まぁ、信用ならないのも分かるけど」
自嘲気味に笑うラーズグリーズは左手を下げ、旧首都へ足を向けた。
本来であれば敵対関係にある者を信用するはずがない。
ただの気まぐれで時間を浪費するのは無意味だ。
「…そこは疑ってない」
黒狼の言葉を背に受け、戦女神の歩みが止まる。
「随分と買われてるのね」
ラーズグリーズは口元にニヒルな笑みを貼り付け、背後へ視線を投げる。
しかし、黒狼には届かない。
ドッグタグの束を胸元で抱き、祈るように俯く彼女には。
「これを外したら……忘れてしまう」
紡がれた切実な言葉には、戦女神の笑みを削ぎ落す重みがあった。
夏の夜を重苦しい沈黙が支配する。
昼間の熱を残す路上を夜風が撫で、ウィッチたちの髪を弄ぶ。
「黒狼」
ラーズグリーズは背中越しに協力者の名を呼ぶ。
何事もなかったかのような普段通りの声色だった。
そのまま振り向くことなく、無人の都市高速道路を進む。
「あなた、何人家族?」
誰でも回答できる簡単な、他愛のない問い。
しかし、質問者の背を追って歩く黒狼は口を引き結ぶ。
「兄弟姉妹はいた?」
回答を待たず、次の問いが為される。
黒髪と同化していた獣の耳が天を衝き、黄金の瞳が大きく開かれる。
「居たっ……はず…」
「名前は?」
続く問いに黒狼は答えることができなかった。
何度も口を開こうと努力したが、実を結ぶことはない。
足音だけが月明かりの射さない道を満たす。
「身体の変質に、記憶障害…いえ、欠落かしら」
限界を超えたエナの放射が及ぼす影響について、ラーズグリーズは様々な事例を知っている。
しかし、黒狼の状態は前例がなかった。
身体の変質が報告された例はあるが、精神や記憶への変調は報告されていない。
「そこまで酷いのは初めて見るわ」
長期記憶どころか短期記憶の維持も困難となっている。
黒狼に残された時間は、彼女自身が思っているより少ない。
理性的に会話できるだけでも奇跡的だった。
「……私は、すべてを護りたかった」
本名すら忘れた少女は、底抜けに善良だったのだろう。
今や名前も思い出せない誰かのためにウィッチとなり、インクブスと戦った。
「だから、力を得るために枷を外した」
多くを救うためには、多くを捨てなければならなかった。
その結果、少女が得たものは絶大な力と異形の身体、欠落した記憶。
残された時間は不明──これから至る結末すらも。
出現から5年が過ぎてもウィッチとは未知だ。
インクブスとの戦いを生き延び、日常へ戻った者は一人として存在しない。
「後悔はない」
言い聞かせるように呟いた言葉が闇に溶ける。
黒い毛並みに覆われた右手がドッグタグを首元へ戻す。
「中国では──」
足音が止み、流麗なスピアの石突がアスファルトを強かに打った。
そこより先に道はなく、眼下には倒壊した都市高速道路が朧げに見える。
「狼は貪欲の象徴だそうね」
〈なんだと…?〉
一切の感情を乗せず告げられた言葉に、黒狼のパートナーは怒りを露にする。
主のために沈黙を貫いていたが、主の在り方を愚弄されても続けるほど薄情ではない。
〈黒狼の覚悟を、願いを愚弄するか…!〉
「呪いの間違いでしょう?」
ラーズグリーズは感情論を鼻で笑って受け流し、普段通りの調子で刺し返す。
しかし、その声には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「はぁ……まったく」
胸に溜まった淀みを息と共に吐き出し、眼前のコンクリートジャングルを睨む。
無意味な問答に時間を費やしている場合ではない。
エナの輝きを帯びる碧眼が闇夜でも目標の位置を正確に捕捉する。
シルバーロータス曰くインクブス真菌──その群体に命令を下す者。
己が置かれた状況を理解せず、策士として振舞う道化だ。
他者の
「とっとと片付けるわよ」
「言われるまでもない」
空色の戦装束を靡かせ、悠然と佇む戦女神。
長大な刃を肩に担ぎ、夜と同化した黒き獣。
正反対に見える両者は同時にアスファルトの地を蹴り、深い闇へと身を投じる。
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