首肯
耳鳴りが止み、周囲の音を拾う。
ぱちぱち、と火花の弾ける音。
水蒸気の立ち上る水面を叩く雨の音。
〈──無事ですか、シルバーロータス!〉
そして、パートナーの声が耳に届く。
政木家の1基を残して墓石は破砕され、視界を遮るものはない。
ヤシガニを含むファミリアは水蒸気と共に消えた。
「…ああ」
記憶から出力された幻影とはいえ、ヤシガニを跡形もなく消滅させるか。
さすがはナンバーズの一角。
消費したエナも膨大だ──インクブスのエナが激減している。
ベニヒメとエナを混交した結果、インクブス真菌はリソースを大幅に失った。
だが、私もファミリアを失い、条件は五分五分。
「お兄ちゃんは、ここにいる」
視界の端で、ゆらりと狐火が揺れる。
両手で顔を覆った政木は、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「…ここにいるよ」
それ以外を認めないと言わんばかりに、九つの尻尾で世界を閉ざしている。
「帰ってきたんだよ……」
それは願望だ。
二度と叶わないと理解しながら縋っている。
いつ歩き出すか、決めるのは政木だ。
だが──
「違う」
空虚な幻影に縋ることだけは否定しなければならない。
エナの感知に優れる政木は、傍らの存在がインクブスだと理解しているはずだ。
「それはインクブスだ」
何度でも言う。
傍らに立つ幻影の内には邪悪が犇めき、蠢いている。
それが政木優二なものか。
刀身の欠けたククリナイフを握り直し、今一度インクブスを観察する。
《ひどいなぁ、蓮花ちゃん》
立ち上る水蒸気の影から現れる幻影。
迷彩柄の戦闘服を纏い、ライフルを携えた青年の姿。
彼とは似ても似つかない醜悪な笑みを浮かべ、当然のように墓石の隣に立つ。
《僕は、政木優二だよ》
反吐が出る。
故人の記憶を汚すなよ、インクブスが。
「お前は表面的にしか人間を理解できない」
記憶とは曖昧で、時に願望も混じり、欠けた部位を補う。
現実との齟齬が生じることも、よくある。
人間を見下すインクブスには、その機微が理解できない。
「だから、初歩的なミスを犯す」
《ミス?》
私の前に現れた彼との違いは、ただ一つ。
静かに息を吸い、短絡的な感情を沈降させていく。
今、必要なのは言葉だ。
「律」
はっきりと彼女の名を呼び、閉じた世界を開かせる。
一瞬でいい。
彼女の顔を上げさせ、翠の瞳を真っすぐ見据える。
「どうして腕時計が2つある?」
ただいま、と傍らの存在は言った。
ならば、忘れ物を身に着けているはずがない。
しかし、その左腕には質素な腕時計──あの手巻き式の軍用時計があった。
傷の位置まで覚えてはいない。
だが、雨の中であっても見逃すものか。
「腕、時計……」
政木の細い喉が震える。
開かれた翠の瞳に頷きを返す。
視線が手元に落とされ、それから傍らの幻影へ向けられる。
《…これが一体、どうしたんだい?》
その意味が理解できないインクブスは、苦笑を浮かべた。
ただ、腕時計を隠すように袖を下ろす。
「分かるものかよ、お前に」
腰から下げたシースを外し、左半身を隠すように構える。
彼我の距離は30mほど、狙うは短期決戦。
左肩のパートナーと視線を交え、小さく息を吸う。
「出来の悪い模造品め」
ただ淡々と、最大限の侮蔑を込めて挑発する。
それだけで露骨に表情を歪めるインクブス。
ライフルの銃口が真円を描く──好都合だ。
白磁の装束が映り込む水面を蹴り、水蒸気の揺蕩う墓地を駆ける。
銃口を突きつけられるのは、一度や二度ではない。
恐れず前へ踏み込む。
《模造品か…確かめてみるかい!》
銃口で炎が瞬く。
構えたシースから衝撃が伝わり、硬質な音が鼓膜を叩いた。
頬を弾丸が擦過し、銀の髪を弄ぶ。
「ぐっ…!」
脇腹に強い衝撃が走り、息が詰まる。
防御力を高めた装束でも衝撃を殺せない一撃。
致命傷か──今は捨て置け。
ただ、囮の役目を果たせばいい。
「東さんっ」
絶望に染まる政木へ笑ってみせる。
痛みで揺れる視線をインクブスの足下へ移せば、迫る影。
揺蕩う紐は蛇となり、やがて龍へと変化する。
〈今です!〉
盛り上がった水面が割れ、白い水飛沫を散らす。
青き炎に照らされた翡翠色の外骨格が光り輝く。
《こいつ、生き──》
慌てて振り向くインクブスの脆弱な横腹を龍の顎が捉えた。
ライフルが空中に放り投げられ、骨の砕ける嫌な音が響き渡る。
《ぐぁぁぁぁぁ!》
くの字に折れ曲がった迷彩柄の人影が、鉛色の水面へ叩き込まれる。
水飛沫が舞い、音もなく広がる波紋。
リュウジンオオムカデは獲物を咥えたまま墓石の下まで潜航していく。
インクブスのエナが霧散する──リソースを食い潰したか。
血の滲む頬を右手で拭い、左手に視線を落とす。
弾痕の穿たれたシースは見事に役目を果たし、パートナーと私の頭を護った。
そこに刀身の欠けたククリナイフを差し込む。
〈シルバーロータスっ〉
「問題ない」
切迫した声を出すパートナーへ小さく口元を緩めてみせる。
脇腹に広がる鈍痛で引き攣りそうになるが、奥歯を噛んで誤魔化す。
それよりも政木だ。
「東さん!」
駆け寄ってくる少女は喪服のように黒い和装を纏ったまま。
しかし、今にも涙の溢れそうな瞳には生気が戻っていた。
シースを手放す──飛び込んできた政木を両手で受け止める。
私の貧弱な力でも辛うじて踏み止まれた。
軽いものだ。
「よかった……ほんとうに……」
ようやく接触できた。
その身体は冷え切っていたが、しっかりと心音が聞こえる。
安堵の息を吐き、左肩のパートナーへアイコンタクト。
「あ、さっき撃たれて…!」
「大した怪我じゃない」
慌てて離れようとする政木を抱き留める。
まだ、措置が終わっていない。
脇腹の焼けるような痛みは罰の一つと思って受け入れる。
それよりも、政木に謝らなければならない。
「お兄さんのこと…すまなかった」
マジックを誘発するために、私は彼女を傷つけた。
必要なことだから、何を言っても許されるわけではない。
最低な友達もいたものだ。
「……謝るのは、私の方だよ」
自嘲する私の背中を撫でる手は、まるで壊れ物でも扱うようだった。
「お兄ちゃんが帰ってくるはずないのに……東さんを傷つけて……」
インクブスに侵食された状態で、正常な判断を下せるはずがない。
しかし、それで納得はしないだろう。
自罰的な思考になりがちな点は、私と似ているのかもしれない。
「本当に、私は──」
「律は、自分のためだと言ったな」
だが、それ以上は言わせない。
痛みと疲労で思考が止まる前に、伝えたい事を吐き出させてもらう。
「私もだ」
「え…?」
そう言って苦笑を漏らす私に、律は困惑する。
いつの間にか雨は上がり、灰色の空が茜色に染まっていく。
「こうして助けに来たのは、私のためだ」
政木律だけの専売特許じゃない。
私も大概だ。
視界の端に見える和装から黒が剥離し、美しい紅が顔を覗かせる。
順調にインクブスのエナを排除できている。
「私は口下手で、あの身なりだから友達がいなかった」
コミュニケーション能力は低く、常に仏頂面で、長い黒髪以外に特筆すべき個性がない。
「だからと言って行動もしない。当然の孤立だ」
他者との交流を避け、それを改善しようとしなかった。
日常でも、非日常でも。
アズールノヴァやラーズグリーズが例外だった。
「でも、律たちは踏み込んできてくれた」
あの雨の降る河川敷で、その例外が変わった。
私の力になる──そう宣った少女を受け入れてしまった。
本来、庇護されるべき子どもを引き込んだことを後悔した。
殺戮者のくせに平穏な日常を送れることに罪悪感を覚えた。
「おかげで、私は居場所を見失わず立っていられる」
だが、それ以上に救われていた。
頼もしい協力者であり、私を日常へ連れ戻してくれる彼女たちに。
「ありがとう」
改めて感謝を口にする。
平穏な日常があったおかげで、私は私で在り続けられた。
「だから……」
細い肩に手を添え、そっと体を離す。
それから改めて律の顔を見据える。
涙を湛える瞳は翡翠のように美しく、輝いて見えた。
「帰ってきてくれないか?」
それが酷な願いだと分かっている。
だが、それでも律には微笑んでいてほしい。
そう願う。
回答は──頬を伝う涙だった。
それは茜色に染まった水面へと落ちた。
静かに波紋が広がり、紅の装いを纏ったウィッチの姿が揺れる。
「うん…うんっ」
何度も頷く律は流れる涙を袖で拭うが、止まる気配はない。
細い肩から手を放し、そっと頭に手を置く。
──芙花を宥める時のように、優しく撫でる。
嗚咽が安らかな寝息に変わるまで。
〈……エナの安定を確認しました〉
パートナーの穏やかな声に頷きで応じる。
勾玉に宿る光が静まり、夕陽の光だけが私たちを照らす。
悪くない気分だ。
残す問題は──
《はいはい、良かったね》
声の方角へ振り向けば、当然のようにインクブスが立っていた。
そろそろ見飽きた面だ。
《友達ごっこは終わりかな、蓮花ちゃん?》
枯れ枝のような身体を軋ませ、インクブス真菌は問う。
余裕があるように振る舞っているが、私では感じ取れないほどエナが微弱だ。
焦燥が手に取るように分かる。
《僕たちと同じ化け物のくせに》
「それがどうした?」
英雄と死神は紙一重だ。
そして、死神と怪物は置換できる。
あれだけ同胞の屍を積み上げても、目の前にいるウィッチが理解できないのか?
おめでたい連中だ。
《まぁ、いいか》
悠長に近寄ってくるインクブスは、口元に邪悪な笑みを浮かべている。
その姿が滑稽でならない。
《ようやく……》
鈍痛と熱を発していた脇腹の感覚が急速に薄れていく。
耳鳴りが酷い。
それでも政木の身体を抱き留め、しっかりと支える。
《種が食い込んだ》
それで勝利を確信か。
このインクブスは一度も敗北したことがないのだろう。
だからこそ、詰めが甘い。
◆
パックルは勝利を確信した。
幾度と阻まれてきた攻撃が、ついに獲物の腹を貫いたのだ。
己のエナを奪われ、定めた理を覆された時は敗北を予感した。
しかし、領域外のピスキーからエナの供給を受けてでも、攻撃を続けた甲斐があった。
《よくも手こずらせてくれたねぇ?》
敗者であることを獲物に認識させるため、パックルは悠然と歩み寄る。
そして、シルバーロータス──東蓮花を見下ろす。
用済みとなった
しかし、白い肌は血色を失い、脇腹から滲む血が白磁の装束を侵す。
彼女の意識は限界が近い。
《でも、今度こそ終わり》
種が食い込んだ点は致命的だが、実のところ彼女の肉体は損傷していない。
パックルの領域内で生じた事象は、現実に作用しないのだ。
《玩具にしてやるよ》
ゆえに、負傷を誤認している今、傀儡とする必要があった。
逸る気を抑えて、エナの不足によって軋む右腕を向け──
「レギ」
インクブスの姿を映す紅い目に恐怖や後悔はなかった。
ただ純粋な敵意だけが宿っていた。
幾度と分身を粉砕してきたファミリアを彷彿とさせる目に、パックルは一歩後退る。
それは本能的な忌避だった。
「奴を滅ぼせ」
東蓮花は一切の感情を排した声で告げる。
死の宣告を。
〈分かりました〉
対する左肩のパートナーは、主の命に了承で応じる。
言葉は不要──ただ為すべきことを為す。
それを聞き届けた東蓮花は目を閉じ、全身から力が抜けていく。
同時に敵意も霧散し、夕陽に照らされる少女は沈黙した。
《僕を滅ぼすだってぇ…?》
無防備な獲物を前にして、パックルは口元を大きく歪める。
《はははっ! 傑作だ!》
この世界で自ら意識を手放すなど抵抗を諦めたも同然。
種の発芽はより容易となるだろう。
しかし、パックルとしては強制的に覚醒させ、徹底的に可愛がる心算だった。
それを邪魔できる者はいない──
《ウィッチの小間使いに何が》
はずだった。
刹那、世界の色が反転する。
〈口を慎め、痴れ者が〉
聞く者を平伏させる厳かな声。
そして、夕陽を遮る巨影。
《っ!?》
突如、現れた怪物を前にパックルは後方へ飛び退く。
茜色の空を映す水面に波紋が広がる。
《……誰だよ、お前》
獲物を前にして、一歩も踏み出すことができない。
安らかな寝息を立てる少女たちを囲う8本の脚は、一瞬で彼我の距離を縮めることができる。
擦り合わされる鋏角は、一太刀でパックルを四散させるだろう。
〈名乗る舌を持たん〉
クモ目を模した漆黒の怪物は、当然のように言葉を発した。
水面の波紋が消え失せ──花びらへ変質する。
茜色に染まっていた水面が、朱を吸い込む銀の花びらに埋め尽くされる。
それは少女たちを中心に際限なく広がっていく。
〈根を断つには足りぬか……まぁ、よい〉
足下を満たす銀の花びらは、ウィッチのエナが可視化したもの。
それを操る存在は、東蓮花のパートナー以外に考えられない。
《へぇ……》
発芽に必要なエナまで奪い取られ、勝利の機会は失われた。
しかし、パックルにとって初めての敗北など些細な事象へ成り下がっていた。
強い執着心を抱かせた一個体の異常性に惹きつけられる。
災厄──東蓮花の根源はインクブス、あるいはヒトの雄に近い。
その性質ゆえにインクブスを喰らい、苗床とし、眷属を増やすことが可能。
しかし、それではウィッチから同族と認識されず、排除の対象となるだろう。
《同類と思ってたけど……》
枯れ枝のような手が空を掴み、1枚の花びらを握り潰す。
インクブスを拒むエナは指の隙間から逃げていく。
しかし、エナの感知に長けたピスキーの長は、その刹那に揺らぎを捉える。
揺らぎの裏に流れる異種のエナ──それはインクブスと同質だった。
ウィッチやパートナーを欺くエナを纏い、さも同族のように振舞う。
巧妙な擬態だ。
《なるほどねぇ》
握り締めた手を開き、虚無を確かめたパックルは嗤う。
他者との結束を必要としない怪物は、その擬態の意味を理解した。
《お前、小間使いじゃないな?》
漆黒の外骨格が波打ち、禍々しいエナが微かに漏れ出す。
その気配はウィッチのパートナーなどではない。
《同類は訂正するよ》
ヒトを喰らい、ヒトの雌を苗床にして増殖するインクブス。
その生態やエナの性質は似通っているかもしれない。
しかし、災厄に天敵は存在しない。
《とんだ化け物だ》
天敵と成り得るウィッチに擬態し、安定的にインクブスを捕食し続ける。
淘汰の恐れがない捕食者、それも生態系を滅ぼす頂点捕食者。
その歪な存在は、明らかに世界の理から外れている。
〈餌が喋るな〉
花びらが舞い上がり、茜色の空を銀世界へ変える。
そして、真の姿を現した大地が震え出す。
橙色の大地──否、それは無数の翅だ。
高速で振動する翅が大気を震撼させ、耳障りな高音を発する。
それは、母を害する存在に対する最後通牒。
〈潰せ〉
ミツバチの群体は外敵目掛けて一斉に突進する。
世界は橙と黒の縞模様に覆われ、パックルに退けるだけのエナはない。
無数の脚が伸ばされ、黒い外皮に爪を立てる。
《今回は──》
全方向からの圧迫。
枯れ枝のような身体が軋み、悲鳴を上げる。
《…勝ぃ…ぁ譲ってやる…ょ》
それでも圧死しなかったパックルが口を開く。
ミツバチもといミンストレルは小型に分類されるファミリアであり、基本的に戦闘は不得手。
しかし、例外がある。
それはニホンミツバチの防衛行動──熱殺蜂球を模倣する時だ。
天敵のオオスズメバチを球状に囲んで蒸し殺す戦法は、インクブスに対しても猛威を振るう。
ファミリアの耐熱温度は原種の比ではない。
《…次にぃ……会う…時がぁ…》
圧迫を続けるミンストレルは、腹部の筋肉と翅を振動させて熱量を生み出す。
エナを媒介に熱量を転移させ、中心部の温度を瞬く間に上昇させる。
まるで溶鉱炉のようだ。
高温に曝されたパックルは外皮が弾け、体液が一瞬で蒸発する。
《たの…しみだ…ぁぁ…!》
そして、ついには発火した。
自然現象とは異なり、消火は不可能。
全身のエナを焼べて燃え盛る様は、文字通り命を燃やしている。
やがて、赤い炎は青へと色を変え──
〈次などない〉
線香花火のように一瞬で消え失せる。
エナを燃やし尽くし、後には欠片も残らない。
その無価値な顛末を見届けた黒曜石の眼は、小さき主の寝顔を映す。
〈そうでしょう、東さん?〉
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