糾明

 曇った翠の瞳は、私を見ているようで見ていなかった。

 ベニヒメを支配しているのは虚無だが、インクブスの傀儡になったわけではない。

 黒に染まった和装の胸元で光を放つ勾玉が侵食に抗っている。

 まだ、彼女の自我は消滅していない。


「助けに来た」


 そう言って一歩踏み出せば、濡れた砂利が音を立てる。

 ベニヒメの狐耳が立ち、ゆらゆらと漂っていた狐火が静止する。

 口から零れた白い息が雨中に流れていく。


「助け…?」

「そうだ」


 雨が静かに降り注ぐ墓地には、私とベニヒメしかいない。

 だが、周囲にはインクブスのエナが満ちていた。

 エナの感知に鈍い私でも察することができる。


 墓石の影で蠢く者、鉛色の水溜まりに映る影──インクブス真菌の一部だ。


 この墓地はベニヒメを閉じ込める牢獄であり菌類の繁殖場。

 道案内がなければ立ち入るのも骨が折れたはずだ。


「……いらない」


 弱々しくも確かに紡がれた拒絶の言葉に、足を止める。


「私は、ここに残る…」


 政木家の文字が刻まれた墓石の前に座り込み、顔を俯かせるベニヒメ。

 その横顔を隠す髪から雫が滴り落ち、水溜まりに波紋を広げる。


「どこにも、行きたくない」


 自らの肩を抱き、小さく震える姿は痛々しい。

 いつから雨に打たれていたのだろう。

 既視感を覚える光景。


「みんなと一緒にいたい……」


 水溜まりに浸かった和装の黒が淀みのように水底へ滞留する。

 その周囲を漂う青い狐火は、まるで鬼火のように見えた。 


 遺体収納袋の前に座り込んでいた時と同じ──あの日から根源は変わっていないのだろう。


 政木律という少女の最も脆弱な一面が、インクブスの侵食で露になっている。

 時間がない。


「ベニヒメ」


 あくまで普段通りに、ベニヒメへ呼びかける。

 下手な同情心で寄り添っても、彼女と一緒に沈むだけだ。


「ここにいたら風邪を引く」


 だからといって、救済の言葉など思いつくはずもない。

 口下手らしくやるしかない。

 腹を括れ。


「晴れた日に、また来ればいい」


 進むにも逃げるにも歩き出さなければ始まらない。

 まずはベニヒメを立ち上がらせる。


 声を拾って狐耳が動く──私の声は届いている。


 弱った心に命令しても人は動けない。

 だから、提案する。


「帰ろう」


 周囲に注意を払いながら、ククリナイフをシースへ戻す。

 互いの表情が辛うじて分かる距離だ。

 手を繋ぐには遠い。

 それでも右手を差し出して、ベニヒメを待つ。


「…やっぱり、強いね」


 紡がれた弱々しい声は、今にも消え失せてしまいそうだった。

 だが、言葉の芯には拒絶があった。



 壁だ。

 目には見えない壁を築き、私を遠ざけようとしている。


「私は、そんなに強くなれない……」


 ベニヒメは身を守るように九つの尻尾を纏い、小さく縮こまってしまう。


 勾玉の放つ光が弱まる──インクブスのエナが徐々に濃度を増す。


 いつもの私なら引き下がっているところだ。

 他人の心に土足で踏み込みたくはない。

 だが、ここで踏み込まなければ、確実に彼女の心は喰われる。


「傷つきたくない…誰かが傷つくのも見たくない」


 親しい人間が傷つく辛さは、私も知っている。

 たとえ、顔が思い出せなくとも痛みを覚えている。

 だが、両親と兄を喪った彼女の心境は察するに余りある。


「それを繰り返さないために戦っている」


 この悪辣な世界は、簡単に人の生命と尊厳を奪っていく。

 奪われないためには戦うしかない、と宣う。

 本来、そんな世界と無縁だった少女に。


「私には無理だよ……辛い…怖い」


 ベニヒメは悪意の塊のようなインクブスと戦ってきた。

 ウィッチナンバー9という序列は、才能や運では与えられない。

 成し遂げるには、強い意志が必要だ。


「なら、私が手を引く」


 俯いていた顔を上げ、微かに光の戻った翠の瞳が私を捉えた。

 それを真っすぐ見返す。


「歩けるようになるまで」


 立ち上がることさえできれば、自らの足で歩いていける。

 私はになるだけでいい。

 可能性を閉ざさせないために、この灰色の墓地から連れ出す──


《ひどいもいたものだねぇ》


 雨音に雑音が混じり、連なる墓石の影が歪む。


《こんなこと言って、律を置いていくんだよ?》

「え…?」


 ベニヒメの足下まで黒い影が伸び、水溜まりの淀みと混じり合う。

 インクブス真菌が一気に活性化し始めた。

 案の定、抵抗力が落ちたところを狙ってきたな、菌類め。


「耳を貸すな」


 ククリナイフを抜き、ミンストレルのテレパシーに意識を割く。

 今も高速で演算を続けているが、まだファミリアは展開できない。

 ベニヒメの下まで駆けるか?


《律は鈍いからなぁ》

《律を置いていっちゃう》

《律はひとりぼっち》


 一瞬で3体に増えた黒い影は、聞くに堪えない雑音を発する。

 おそらくは記憶から抽出した誰かの声。

 取るに足らない雑言だが、今のベニヒメには──


「ひとり、ぼっち…?」


 効果を発揮する。

 翠の瞳から光が消え、虚ろな闇に支配される。

 同時に胸元の勾玉も輝きを失い、周囲に禍々しいエナが放射され始める。

 まずい。


「ベニヒメ!」

「い、いや……」


 顔を両手で覆うベニヒメに、声は届かない。

 9つの狐火が旋回を始め、速度を増していく。


「ひとりぼっちは──」


 権能による加速。

 青き光輪となった狐火は、触れた雨粒を一瞬で蒸発させる。


「いや!」


 そして、ベニヒメはマジックを発動させた。

 ろくに照準もしていない、穴だらけの面制圧。

 だが、私の身体能力では躱せない──


〈下がってください、シルバーロータス!〉


 灰青色の巨躯が立ち塞がり、青が爆ぜた。 

 積層構造の外殻が一部の層を剥離させ、エナを放散させる。

 それでも衝撃を減衰できず、重量級ファミリアの巨躯が宙に浮く。


「くっ…!」


 熱波が肌を撫で、私は姿勢を落とす。

 そのまま吹き飛ばされるヤシガニの下を潜って、墓石の陰へ滑り込む。


 質量が落下し、墓地が揺れる──追撃はない。


 高熱のマジックが炸裂したことで、水蒸気が立ち上っている。

 そこに口から漏れた白い息が混じる。


「……領域の掌握は?」


 口を強く引き結び、墓石の陰からインクブスの様子を窺う。

 黒い影は徐々に人型へ近づき、色を帯び始める。


〈順調です。ただ──〉


 それは迷彩柄の戦闘服となり、手に持つライフルを私へ向けた。


〈わわっ!?〉


 重々しい銃声が響き、墓石の上面が吹き飛ぶ。

 左肩にしがみつくパートナーを確認し、砂利を蹴る。

 分かっていたが、ライフルの威力じゃない。


〈ベニヒメさんの侵食が想定よりも深刻です…!〉


 鳴り響く銃声。

 墓石が砕け散り、跳ねてきた砂利が背中を叩く。

 想定外は今に始まったことじゃないが、芳しくない。


《律、心配しないで》

《僕が守ってあげよう》


 ベニヒメを取り囲む迷彩柄の人影が不規則に揺れ動く。

 そのヘルメットの下はだ。

 しかし、甘言を囁くインクブスは最後の一歩が踏み込めない。

 燈火のように燃ゆる狐火が接近を阻んでいる。


「本体を潰すだけでは──ちっ!」


 墓石の陰から生えた腕へククリナイフを振り抜く。

 枯れ枝のような腕が宙を舞う中、なおも健在の片腕を伸ばす異形。


 返す刃を顎に叩き込む──二つに割れた頭頂部から体液が噴き出す。


 この異形、軽量型フェアリーリングの目的は足止めだ。

 追撃が来る前に、左肩のパートナーと視線を交える。


《惜しかったねぇ、ご同類!》


 墓石を踏み台に跳躍した異形が頭上より迫る。

 その場で膝を突き、白磁の装束が映る水溜まりに左手を置く。


《ほら、逃げないとぉ──》


 白い水面が弾け、私の髪を風が弄ぶ。


 そして、雨が止む──頭上で静止する異形の影。


 その腹を貫く黒褐色の下唇かしは、足下の水溜まりから伸びていた。

 私の姿を映す水溜まりには、オニヤンマの幼虫が全身を沈めている。

 物理法則の歪んだ世界ならではのアンブッシュだ。


〈このまま本体を消滅させると……ベニヒメさんの自我が


 軽量型フェアリーリングの死骸が水溜まりに沈んでいき、再び銃声が響く。

 砕かれた墓石の破片を左腕で防ぎつつ、次の遮蔽まで駆ける。


「切り離す必要があるわけか」

〈はい〉


 インクブスのエナを除去して解決、とはならない。

 ラーズグリーズ曰く苗床となった者の治療が難航する要因の一つ。

 異物であっても体を巡っていた代物は心身と強く結び付いてしまっている。

 それを強制的に除去すると致命的な結果を招く。


《釣れないねぇ…!》


 連なる墓石を蹴り、雨の中を跳ねる軽量型フェアリーリングの影。

 そして、その後方から砂利を踏み砕く足音が迫る。


《仲良くしよぅがぁ!?》


 灰青色の巨躯が墓石を吹き飛ばし、重厚な鋏が雨を切り裂く。


 一刀両断──異形の上半身が無様に転がる。


 ようやく復帰したヤシガニは積層構造の外殻が焼け、第二触角が1本失われていた。

 それでも私の盾として立つ。


〈ベニヒメさんのエナに働きかけることさえできれば、排除できるはずです〉


 私には知覚の難しい領域だ。

 パートナーによる言語化がなければ、理解に手間取っていただろう。

 身に纏った白磁の装束を撫で、その恩恵を噛み締める。


〈ただ、全てを拒絶している今の状態では……〉


 銃声が絶えず響き、背を預けるヤシガニの外殻で火花が弾けた。

 雨に吸い込まれる火花の間隙から敵陣を睨む。


「説得か」

〈あるいは接触してエナを通わせるしかありません〉


 6体に増えた幻影は弾幕を形成することで接近を阻む心算らしい。

 国防軍の真似事をしてでも私を近づけたくないと見える。


 だが、突破は不可能じゃない──問題は突破した後だ。


 耳を塞いで縮こまるベニヒメの周囲を旋回する狐火。

 あれは彼女を守るための迎撃機構であり、重量級ファミリアすら退ける。

 私の身体能力では、まず回避は不可能だ。

 つまり、説得しかない。


「よし……やるぞ」


 迷っている時間はなかった。

 ベニヒメを正気に戻し、インクブス真菌を駆逐する。

 言葉を尽くしても彼女に届くか、それは分からない。

 だが、ここには私しかいないのだ。


「まず、取り巻きを潰すぞ」


 ゆっくりと立ち上がり、ミンストレルのテレパシーに集中する。

 掌握した領域のエナを変換、攻撃に転用。


〈はい!〉


 パートナーの声が雨音に溶けていく。

 降り注いだ雨水が飽和し、砂利を覆い隠して鉛色の水面を形成する。


 雨音と銃声──そこに水を弾く微かな音。


 視界の端、鉛色の水面に覆われた墓地を高速で滑走する影。

 数にして6体。


《なんだ、また虫けら…か?》


 それは体長を超える長さの中脚と後脚を使い、水面を滑走するアメンボだ。

 褐色の影を追うライフルの銃口が火を噴く。

 マジックの一つでも使えばいいものを。 


《ちっ……無駄、無駄だよ!》


 弾丸は全て水柱となり、アメンボが水面に残した波紋を乱す。

 1ストロークの生み出す速度がゴキブリの3倍とされるアメンボに、人間の形態で追従できるものかよ。

 ヤシガニの背甲を軽く叩き、前進を開始する。


《何をやっても無駄、もう諦めろって!》


 インクブスは苛立ちを嘲りで覆い隠す。

 呼応するように、軽量型フェアリーリング4体が雨のベールを突き破って現れる。

 私を狙う判断は悪くない。

 だが──


「馬鹿の一つ覚えだ」


 異形たちが水面を踏んだ瞬間、白い水飛沫に覆い隠される。

 枯れ枝のような脚を刈り、獲物を水底へ引き込む灰褐色の大鎌。

 タガメの捕獲脚から逃れることは不可能。


 墓地ではなくビオトープ生物生息空間と化した世界──ここは、もうだ。


 インクブス真菌は、損失を挽回するためにリソースを逐次投入している。

 それが失敗だと感づく前に叩き潰す。


《噛みつくしか能がないんだろぉ?》


 ベニヒメを中心に大きな円陣を組む幻影。

 アメンボの接近を阻む連中は、やはり足下が見えていない。


《ほらほ──がぁっ!?》


 龍の如き長大な身体が水面より飛び出し、円陣の1体を強襲する。

 雨空へ向いたライフルが銃火を放ち、翡翠色の外骨格を照らした。

 そのまま獲物を引き摺り、リュウジンオオムカデは水面へ沈み込む。


《鬱陶しい!》


 身体をくねらせて優雅に泳ぐ影は、墓石の下を潜って銃撃を躱す。


〈いちいち喧しいインクブスですね…!〉


 弱者を嬲らずにはいられない。

 愚者を嘲笑わずにはいられない。

 多少生態が異なったところでインクブスだ。


「いつもと変わらん」


 ククリナイフを低く構え、一気に距離を縮めんと駆ける。

 その姿を捉えたヤシガニも同時に動く。

 全長の半分を占める脚が水面を叩き、水飛沫を纏って巨躯を加速させる。


《消えろ、虫けら!》


 灰青色の外殻で銃火が弾けた。

 ヤシガニはオカヤドカリ科の甲殻類であって虫ではない。

 円陣の半分を一撃で削り取り、鋏を閉じる音が雨中に響き渡った。

 黒い体液を散らす人型の残骸が雨と共に降る。


《くそが──》


 それらを躱し、鋏を逃れた人影へククリナイフを振り抜く。

 斬るというより叩きつける乱暴な一打。

 腐ってもウィッチの膂力でヘルメットごと首を折り、のっぺらぼうを沈黙させる。


《ぐぁがっごはっ……》


 残る1体は殺到したアメンボに引き倒され、全身を口器で貫かれる。

 それを確認してから、ククリナイフを振って黒い体液を飛ばす。


 黒い波紋が広がる鉛色の水面──そこには迷彩柄の戦闘服が浮かぶ。


 幻影と分かっていても、気分の良い光景じゃない。

 肺から濁った息を吐き出し、彼女と相対する。


「ベニヒメ……いや、政木」


 エナの感知に鈍い私でも、その華奢な身体からインクブスのエナを感じ取れた。


 黒い和装に浮かぶ白い模様は──菌糸だ。


 視覚化された侵食。

 今は止まっているが、いつ再開されても不思議ではない。


「金城たちが待ってる」


 金城の名前を聞いた瞬間、肩が小さく跳ねた。


「誰も置いて行ったりしない」


 しかし、狐火は外敵を威嚇するように旋回を続けている。

 本人以外が語ったところで響くはずもないか。

 とにかく話しかけ続け、彼女の反応を窺う。


「私も待ってる」


 口から出たのは、責任感のない言葉。

 受動的で、他者に便乗しているだけの軽率な同調。

 自己嫌悪に襲われるが、今は無視する。


「約束しただろう?」


 私の力になる、と政木は約束してくれた。

 本当は約束なんて守らなくてもいい。

 こちらへ戻ってきてくれれば──


「…ごめん、なさい」


 蚊の鳴くような声だった。


「……せっかく、友達になれたのに」


 頭の狐耳を押さえて座り込む少女は、ぽつりぽつりと語り出す。

 その声は、降り注ぐ雨音に負けてしまうほど弱々しい。 


「傷つくのが、見てられなくて……」


 黙って耳を傾け、口を強く引き結ぶ。

 あの無意味な自傷が及ぼす影響を甘く見ていた。

 私を友達だと言ってくれる少女が何も思わないはずがないだろうに。


「全部、全部……私のためだった」

「それの何がいけない」


 人々のために戦うウィッチが、自分を優先して何が悪い。

 そもそも、他者の痛みに敏感な政木が自己中心的とは思わない。

 自罰思考の私よりも周囲を見て、思い悩んでいる。

 否定させるものか。


《そうだね》


 至近にインクブスの影が生えた。


 ククリナイフを真正面に構え、盾に──眼前で狐火が爆ぜる。


 青白い火花が散り、衝撃で足が宙に浮く。

 そのまま背後に向かって吹き飛ばされ、水溜まりの上を無様に転がる。


「東さんっ」

「ちっ…!」


 すぐさま身体を起こし、後退してきたヤシガニを盾にする。

 積層構造の外殻が弾く狐火は、政木が放っているわけではない。


《……律》


 狐火の制御を握ったインクブスが声を発する。

 雑音は混じっているが、聞き間違えようがない。

 彼の声だ。


「お兄ちゃん…?」

《そうだよ》


 迷彩柄の人影を見上げる政木は、虚ろな瞳を大きく見開く。


《ただいま、律》


 政木優二の姿を模した化け物が笑う。

 その微笑みは空虚で、私を見遣る目には嘲笑が浮かぶ。


 なぜ、今まで使ってこなかったのか──どうでもいい。


 眼前の存在は、確実に滅ぼさなければならない。

 誰の許しを得て、その姿を模した?

 故人の記憶を汚すなよ、菌類が。

 軽くなった右手を見遣れば、ククリナイフの刀身が大きく欠けていた。

 知ったことか──


〈シルバーロータス!〉


 焦燥感に満ちたパートナーの声で、我に返る。

 怒りに身を任せたところで得られる成果はない。

 一呼吸置く。


「すまん」


 あれは政木の兄じゃない。

 この世界から駆逐すべきインクブスだ。

 思考を切り替え、把握できている情報から戦術を練る。


「奴は、エナの消耗を恐れている」

〈それは間違いありませんが…〉


 インクブス真菌は侵食にもエナを用いている。

 ファミリアと交戦し、消耗するたびに侵食の速度は鈍り、領域の掌握が加速した。

 リソースが共通なのだ。


〈こちらの掌握より供給の方が早いです…!〉


 政木の纏う和装に食い込んだ菌糸は、今になって仮足を伸ばし始めている。

 だが、その速度は恐ろしく鈍い。

 勝機はある。


「供給を消耗で上回ればいい」


 投射される狐火はインクブスのエナを帯びていた。

 ウィッチとインクブスの境界線が曖昧になっているのだ。


〈そんなことが……〉

「できる」


 攪乱目的のアメンボに対する迎撃は最低限、こちらへの攻撃は止んだ。

 狐火の多くは政木の周囲に滞空している。

 インクブス真菌は完全にマジックの主導権を握れていない。

 ならば──


「マジックを誘発して、エナを消耗させる」


 マジックを使用させることで、瞬間的にエナを消耗させる。

 政木がインクブスの傀儡となる前に。

 正直、分の悪い賭けだ。


〈分かりました。やりましょう!〉

「ああ、やるぞ」


 それでも快諾してくれたパートナーへ頷きを返す。

 静かに目を閉じて、テレパシーへ集中する。

 ミンストレルへ掌握した領域のエナをヤシガニの外殻へ集めるよう指示。

 盾は生命線だ。


「…仕掛ける」


 エナを消耗させるためには、高威力のマジックを誘発する必要がある。

 深く息を吸い、欠けたククリナイフに代わる刃を研ぐ。

 そして、標的を見据える。


《もう僕がいるから心配いらな──》

「政木優二は死んだ」


 白々しい言葉を遮り、ただ事実を突きつける。

 眉を顰めるもインクブスは口を噤むだけ。

 それでいい。


「え?」


 初めから狙いは、政木だ。


「何を、言ってるの…?」


 故人と再会し、一縷の望みを見出していた少女は狼狽える。

 本当に彼が帰ってきたと信じ切れていない。

 そこを狙う。

 

「お兄ちゃんなら、ここに…!」

「なら、そこに刻まれている名前はなんだ」


 欠けたククリナイフの切先を墓石へ向ける。

 幻影に縋りつこうとする彼女に、事実という刃を振るう。

 萎びていた狐耳が立ち、瞳孔が細く狭まる。


「死者は絶対に甦らない」


 そこへ無慈悲に言い放つ。


 溢れ出す膨大なエナ──妖狐が目を覚ます。


 アズールノヴァや黒狼を凌駕するエナの放射。

 それはインクブスのエナを巻き込み、禍々しい狐火を形成する。


「どうして…?」

《律、落ち着いて》


 感情を制御できなくなった妖狐は、虚無から狐火を次々と生み出す。

 想定通り、とは言えない。

 あらゆるマジックから私を護ってきたヤシガニも、この規模は初めてだ。

 額を伝う雫は雨じゃない。


「ひどいよ……どうして」


 無数の狐火が螺旋を描いて雨空を覆う。

 ヤシガニの足下から見える空は、まるで星空のようだった。


「そんなこと言うの!?」


 悲鳴のような叫びに呼応し、その全てが弾ける。


〈効力射が来ます!〉

 国防軍の空爆など可愛いものだ。 

 マジックによる効力射とは、天変地異に近い。


 星空が降ってくる──その言葉に語弊はない。


 着弾と同時に視界が青一色に染まる。

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