遡及
鈴の音色を思わせるヒグラシの鳴き声が響く雑木林。
真っ赤な夕陽は木々に遮られ、心地良い暗がりが広がっている。
その暗がりで存在感を放つ鳥居の下に佇む青年は、どう見ても人間だった。
しかし、エナで形成されている以上、彼はファミリアに近しい存在だ。
「たしかに僕は政木だけど……」
そう言って頬を掻く青年からは敵意を感じなかった。
インクブスの巧妙な擬態か──その可能性は低い。
連中はウィッチのエナを模倣できない。
どれだけ姿形を模倣しても悪性が滲み出るのがインクブスだ。
頬を掻く指を止め、青年の目が銀髪赤目のウィッチを映す。
「あ……もしかして、律の友達かい?」
そう言って期待に目を輝かせる姿は、政木そっくりだった。
友達という言葉に頷くべきか、逡巡する。
ここに立っている私は東蓮花ではなく、シルバーロータスだ。
決して友達と呼べるものではない──
「…はい」
しかし、開いた口は全く別の言葉を紡ぐ。
本心では相応しくないと理解していても、返答を心待ちにする相手へ吐露することは憚られた。
「嬉しいな」
自己嫌悪を噛み殺す私に対し、青年は安堵した様子で微笑む。
温かみのある微笑みが彼の人柄を感じさせた。
だからこそ、罪悪感が胸中で渦巻く。
「律は人見知りだったから、疎開先でも友達ができるか心配だったんだ」
楽しげに語られる言葉の節々から妹への思い遣りが感じ取れた。
今世で長女となった私も、彼の気持ちは痛いほど分かる。
仲の良い兄妹だったのだろう。
「まさかウィッチの友達とは思わなかったけどね」
それが何を意味するか、彼は知っている。
国防陸軍の戦闘服を着ている以上、目を背けることのできない現実がある。
だからこそ、浮かべた微笑みには影があった。
「あなたは?」
左腕に着けた質素な腕時計が答えだ。
しかし、それでも礼儀として尋ねる。
「自己紹介がまだだったね」
歩み寄ってきた青年が右手を差し出す。
国防陸軍の隊員にしては細身だが、差し出された掌は大きい。
「僕の名前は政木優二、律の兄です」
ククリナイフを左手に持ち替え、右手で握り返す。
「シルバーロータス…です」
今、私は故人と握手を交わしている。
エナさえあれば大概の事象を可能とするマジックも回生だけは不可能だ。
おそらく、目の前にいる優二さんは幻影──政木の記憶が生み出した防壁なのだろう。
だが、彼の存在は一つの確信を私に与えた。
まだ政木はインクブスの傀儡になっていない、と。
「さて、律について色々と聞かせてほしいところだけど……」
苦笑を浮かべる優二さんは一歩下がり、左肩から下げたライフルを両手で保持する。
そして、鋭い視線を周囲へ走らせた。
「そうもいかない」
雑木林の影より迫る無粋な足音。
ライフルの銃口が鈍く輝き、漆黒の外骨格が夕陽を反射して瞬く。
《はははっ》
《こんな抜け道があるとはねぇ!》
インクブスの嘲笑を銃声と風切り音が出迎えた。
頭部を吹き飛ばされた異形の影が雑木林に消え、薬莢の輝きが宙を舞う。
左手から飛び出してきた1体はアトラスオオカブトの胸角に腹を貫かれ、黒い体液を撒き散らす。
「時間がない。来てくれ」
ライフルの銃口を下げた優二さんは鳥居の下を潜り、真率な表情で手招きする。
時間がないのは、事実だ。
翅の生えた異形どもが続々と現れ、こちらを包囲せんとしていた。
異形はインクブス真菌の一部だが、全てを相手取っている時間はない。
「ここを死守しろ。1体も通すな」
ゆっくりと巨躯を寄せてきたアトラスオオカブトの頭に触れ、その滑らかな外骨格を撫でる。
そして、静かに私を見下ろすカマキリへ頷きを返す。
記憶から生み出された幻影だろうと関係ない。
私のファミリアはインクブスを滅ぼす矛であり盾だ。
「任せるぞ」
呼応するように異形の残骸がエナとなって舞い、ファミリアを包み込む。
銀の輝きが加速度的に増し、雑木林の薄闇を打ち払う。
そして──2体の重量級ファミリアが姿を現す。
3本の長い角に加え、短い角を1本備えるアジア最大種のコーカサスオオカブト。
湾曲した長大な体躯から
この空間でしか顕現できない燃費を度外視した2体だ。
《行かせるわけないだろ!》
《たかが2匹で足止め──》
遅れて爆発音が轟き、雑木林に四散する異形の四肢。
任せると言った以上、振り向かない。
鳥居の下を抜け、迷彩柄の戦闘服を追って石階を駆け上がる。
「すごいね、子どもの頃なら観戦してたかもっ」
数歩先を進む優二さんは振り向いて、朗らかに笑いかけてきた。
観戦したいと宣う人物は初めてだ。
私には見慣れた光景も他人からは忌避されてきた。
政木がファミリアに苦手意識を抱かなかった理由が少し分かった気がする。
「…この先に政木さんが?」
もはや聞くまでもないが、水先案内人に問う。
私たちを包むヒグラシの合唱にインクブスの断末魔が混じり、樹木の裂ける嫌な音が響く。
戦意旺盛なコーカサスオオカブトを止める術はない。
「うん」
それを気にも留めず、優二さんは静かに頷いた。
崩れかけた石階を飛び越えて、すぐさま後ろの私に右手を差し出す。
「律は君を待っている」
差し出された右手を掴むと力強く引かれ、軽々と石階を越える。
私を待っている──助けを待っている、ではない?
この状況を打破できる者は、おそらくミンストレルだけだ。
だから、私を待っているという表現に間違いはない。
「私を?」
だが、彼の言葉からは、それ以外の意図を感じた。
ウィッチという記号ではなく、私という個人を見ている。
「そんな気がするんだ」
婉曲な返答だったが、私を見据える瞳は確信しているようだった。
その確信を抱かせるものは一体何なのか?
喉元まで上がってきた疑問を飲み込み、石階を一歩上る。
今は政木の救出が最優先だ。
視界の端で青が瞬く──モールス信号のように。
木々の切れ間に青白い世界が見えた。
インクブス真菌の干渉を疑ったが、どうにも違う。
青が次第に薄れていき、白に黒が混じって小さな人影となる。
「律の時間は、あの日から止まったままだ」
何もない殺風景な場所で、1人の少女が2つの黒い袋の前に座り込んでいる。
俯く顔は見えないが、長い三つ編みには見覚えがある。
そして、中身の入っていない黒い袋は遺体収納袋──
「ご両親ですか」
ありふれた悲劇。
寒々しい遺体安置所で母を探して回った日、嫌というほど目にした光景。
言い知れぬ感情が腹の底に重く滞留する。
「……5年前の京都侵攻でね」
小さな妹の姿を寂しげに眺める兄は足を止めない。
インクブスは日本各地の都市を強襲し、数多の人命を奪い去っていった。
当時、被害者じゃない人間などいなかった。
そして、今も。
「あの日、律は両親を喪った」
座り込んだ政木は俯いたまま動かない。
彼女の周囲を輪郭の不確かな人影が何度も通り過ぎるが、優二さんの姿だけはなかった。
「静華ちゃんや菖ちゃんは、きっと寄り添ってくれる」
政木が顔を上げ、背に手を添える2人の少女へ振り向く。
身長や髪の長さこそ今と違うが、金城静華と御剣菖と一目で分かる。
ただ──涙は涸れ、疲れ果てた姿は、ひどく痛々しい。
視線を落とし、苔の生えた石階を睨む。
私が覗き見ていい記憶じゃない。
「でも、前へ進むことはできない」
あまりに無慈悲で、残酷な言葉だった。
インクブスを駆逐する上で、停滞は敵だ。
だから、私は歩みを止めなかった──止まれなかった。
だが、政木は違う。
いつ歩き出すか、決めるのは彼女のはずだ。
「手を引いてくれる人がいて、踏み出せる一歩もある」
「それが私だと…?」
買い被りだ。
物理的に手を引くことはできても、心を動かすことはできない。
今の今まで他人と向き合ってこなかった私に──
「どんな時でも君は前を見ていた」
そうしなければインクブスは駆逐できない。
連中を屠る術を考え、実行し、屍の山を築く。
それしか能がなかった。
「どれだけ傷ついても君は誰も見捨てなかった」
感謝の言葉はなく、向けられる視線には恐怖が満ちていた。
だが、それは他人を見捨てる理由にはならない。
当たり前のことだ。
「だから、君にしかできないんだ」
そう言って天を仰ぐ優二さんは両手を強く握り締める。
その左腕には腕時計が見当たらなかった。
「僕にはできない」
政木に最も近しいはずの人物は、断言する。
心の底から不本意であると感情を滲ませながら。
「肝心な時に居てやれなかった……今だってそうだ」
絞り出すように言葉を紡ぐ。
インクブスの跋扈する悪辣な世界に、妹を一人残して逝ってしまう。
悔やんでも悔やみ切れないはずだ。
その全てを飲み込んで、優二さんは静かに息を吐き出す。
「だめな兄だよ、本当に」
苦悶に満ちた彼の横顔は、他人に思えなかった。
きっと慰めなど求めていない。
分かっているとも。
どれだけ言葉を尽くそうと結末が変わることはない。
「ここを護っていたのは、他の誰でもない」
だから、これは私の自己満足だ。
「あなたです」
エナで構成された幻影に何を語ったところで意味などない。
それでも記憶の中で生きる彼を否定したくなかった。
「胸を張ってください」
政木律の防人に、それだけは告げる。
あなたが残していった記憶の足跡が妹を護ったのだと。
「……ありがとう」
毒にも薬にもならない言葉を聞き、優二さんは困ったように──少しだけ嬉しそうに笑った。
「僕は、ここまでみたいだ」
そして、その足が縫い付けられたように止まる。
もう石階の終わりは見えていた。
「君と話せて良かった」
彼は水先案内人であり、それ以上進むことはない。
足下の影が消え、爪先から徐々にエナの輝きへ還っていく。
「律を頼みます」
その言葉を受けるに相応しいか、まだ分からない。
だが、故人への返答は決まっている。
「分かりました」
優二さんは安らかな表情を浮かべ、ゆっくりと頷いた。
そのまま全身がエナへと還り、後には何も残らなかった。
彼は責務を全うした──私も為すべきことを為す。
ミンストレルの小さな羽音が頭上を通り過ぎていく。
崩れかけた石階を上った先に、小さな社が姿を見せる。
「この先か」
ヒグラシの鳴き声が響く境内に人影はなく、物寂しいものだった。
砂利を敷き均した参道を進み、倒れた灯籠の残骸を跨ぐ。
〈間違いありません〉
長らく沈黙を守っていたパートナーが応じる。
手水舎の水は枯れ果てて、屋根を苔の緑が覆っていた。
随分と長い間、放置されていた場所らしい。
「領域の掌握はどうなってる?」
年季の入った社を見上げ、それから左肩のパートナーを見遣る。
〈少々、手を焼いていますが……〉
パートナーが見上げた茜色の空より小さな影が次々と降り立つ。
ミンストレルの群体は苔むした社の屋根に集まり、小刻みに翅を振動させる。
まるで分蜂するミツバチのようだった。
〈間に合わせます〉
「任せる」
私はファミリアを信じ、ただ己の為すべきことに集中する。
それだけだ。
いつでもククリナイフを振り抜けるよう左半身を前に構え、社の階段に足を掛ける。
踏板の軋む音を聞き流し、観音開きの扉の前に立つ。
「行くぞ」
押し開けた扉の先には、雨音が満ちていた。
屋内なのに雨──空間の歪みなど今更だが、視界が悪い。
靄のように灰色の闇が広がり、奥行きが分からない。
一歩踏み込めば、雨に濡れた砂利が音を立てて私の存在を刻む。
そして、背後の扉は初めから無かったように消失する。
「……墓地か」
何も刻まれていない墓石が整然と並び、雨に打たれている。
この気の滅入りそうな世界に、政木律はいるのだ。
生物の気配が一切しない無人の墓地を慎重に進む。
〈近づいています〉
パートナーの報告に耳を傾けつつ、周囲の物陰に注意を払う。
墓石が果てなく並び、砂利を踏む音が虚しく響く。
鉛色の水溜まりに映り込む私は仄かに白く光り、まるで幽世の亡霊のようだった。
気配を感じ、視線を戻す──光を吸い込む黒き影を正面に捉える。
インクブスではない。
政木家の文字が刻まれた墓石の前に佇む人影は、微弱なエナを放っていた。
「誰…?」
その頭上にある耳が天を衝く。
喪服のような黒一色の和装を雨中に翻し、下駄が水溜まりを散らす。
〈ベニヒメさん…!〉
呼び声を聞いた瞬間、九つの尻尾が微かに震える。
そして、青白い狐火が雨を溶かして揺蕩う。
政木律──否、ベニヒメが私の姿を捉える。
狐火に照らされた目には、底なし沼のような虚無が満ちていた。
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