領域
光のない暗闇を意識だけが漂っていた。
ここが死後の世界なのか、それは分からない。
致命的な状況に陥ったことは間違いない。
だが、ファミリアの根源には深く刻み込んである──インクブスを駆逐せよ、と。
群れや巣という一単位ではない。
この世からインクブスを残らず駆逐するまで活動し続ける。
主を必要としないスタンドアロン兵器として。
《おいおい……》
そして、被食者を絶滅させた時、役目を終えた捕食者は自然に消滅する。
シルバーロータスの痕跡は何も残らない。
唯一の心残りがあるとすれば、父と芙花に──
《どういうことだよっ》
喧しい。
ひどく狼狽えた様子のインクブスが喚いている。
聞きたくもない声を死後も聞かされるとは、最悪の気分だ。
自称女神の差し金なら悪趣味が過ぎるぞ。
《虫けらがぁ!?》
いや、これは違う。
インクブスの断末魔、そして骨肉の砕ける音が明瞭に聞こえた。
億劫になるほど長い時間をかけ、重い瞼を上げる。
見慣れた天井──夜空が見える廃工場の天井があった。
何度も夢で見てきた私の根源、シルバーロータスが生まれた場所だ。
酷い倦怠感に襲われ、すぐには起き上がれない。
《なぜ、動け…かひゅっ》
雑音が途絶え、周囲から聞こえる音は硬質な足音だけになる。
そして、視界の端に映り込む漆黒の外骨格。
鋭利な三本角から滴り落ちた血が頬で跳ね、生暖かい感触が流れていく。
黒い複眼に私が映る──まるで磨き上げた黒曜石みたいだ。
もちょもちょとブラシ状の口器で頬を舐められ、くすぐったい。
最近、金城に邪険な態度を取っているというアトラスオオカブトだ。
「私はクヌギじゃないぞ……」
艶やかな頭を撫でてやると、力強く擦り付けてくる。
原種は気性が荒いことで有名だが、こちらは妙に甘えん坊だ。
もう二度と会えないと思っていた。
〈東さん、目が覚めたんですね!〉
顔を少し横へ傾け、冷たいコンクリートの床面を見遣る。
そこには前脚を上げて喜びを表現する拳大のハエトリグモ。
死後の世界でもなければ、夢でもない。
「状況は?」
〈え、あの〉
「私は大丈夫だ」
まだ終わってない。
とにかく、今は状況の把握だ。
〈……東さんの読みが当たりました〉
ゆっくりと上体を起こし、全身を確認する。
シャツからスカートまで満遍なく血が散っている以外、特に異常はない。
この血痕、洗濯して落ちるといいが──もう生還した後のことを考えている。
そんな楽観的な己に苦笑しつつ、スカートの血痕を食むアトラスオオカブトの頭を叩く。
スカートの裾が伸びるからやめろ。
「ここはマジックの領域内か」
場内を見渡せば、至る所に赤黒い血痕と肉片が残されていた。
この廃工場は爆撃によって倒壊し、現在は残っていない。
読みが当たったということは──
〈はい〉
これは第三者が生み出した幻影だ。
〈対象を引き込み、精神を支配するマジックのようです〉
「やはり目的は殺戮ではなく、傀儡の量産だったか」
精神に干渉するマジックと聞いた時から妙だと思っていた。
殺戮が目的なら毒物や劇物を広域に散布するだけでも容易に達成できるはずだ。
あえてマジックを使用する──そこには別の意図がある。
傀儡となった人間をフェアリーリングに変異させ、人口密集地で自爆させる。
犠牲者が増えれば、被害が拡大していく最悪の倍々ゲーム。
だが、付け入る隙はある。
〈…増殖が正しいかもしれません〉
「増殖?」
スカートの上に飛び乗ったパートナーが前脚を上げ、廃工場の一角を指す。
そこには、鉄骨の陰で何かを齧るカマキリの細長いシルエットが見えた。
丁寧に獲物を噛み砕き、床面には残骸の翅しか落ちていない。
〈他者のエナを利用し、体内で増殖する……菌類に近い生態ですね〉
インクブスは女性を苗床にして繁殖する、それが常識だった。
しかし、連中にも多様な生態があるらしい。
フェアリーリングの自爆は胞子の拡散が目的で、マジックは発芽の補助。
インクブス菌──というより、インクブス真菌か。
それをカマキリは黙々と齧っているわけだが。
「捕食して問題ないのか?」
〈この場にいるファミリアは、東さんの記憶からミンストレルが生成した防壁の一種です〉
食事を終えて前脚を掃除するカマキリも、私の指先を舐めるアトラスオオカブトも見知ったファミリアだが、テレパシーを発していない。
私が認識できるテレパシーは、高速で演算を続けるミンストレルだけだ。
〈あれは白血球の殺菌を視覚化したものと思っていただければ〉
「ふむ……」
ひとまず、状況は理解した。
ミンストレルと接続したことで最悪の事態は回避できたらしい。
物理的な攻撃であれば、ウィッチに変身していない私は死亡していた可能性が高い。
だが、非物理的な攻撃──エナを介した精神干渉なら対抗手段がある。
それは、ファミリアの大脳を司るミンストレルだ。
金城もといゴルトブルーム曰く膨大な記憶を蓄積、処理する能力はエナの制御にも応用できるという。
ならば、彼女のように他者のマジックに介入できるのではないかと考えたのだ。
「現状は侵食の阻止か」
〈いえ、領域の掌握も並行で進めています〉
コンクリートの床面に散らばる肉片が塵となって月光の下で舞い上がった。
塵は銀の輝きを放つ粒子へ変わり、静寂に満ちた場内を廻る。
既にパートナーは反撃を試みていたらしい。
〈初めての試みなので手間取っていますが……〉
定位置の左肩へ登ってきたパートナーは苦々しい声色だった。
銀の輝きが渦となって龍の如き長大な身体を形作り、翡翠色の外骨格と20対の脚が月下に現れる。
インクブスのエナを変換し、生み出したリュウジンオオムカデ──そのサイズは通常の半分にも満たない。
掌握が不完全といえば、そうなのだろう。
だが、その状態で戦うことを強いているのは私だ。
「いや、よくやった」
本来の目的とは違う運用に加え、今回は試行できる時間も少なかった。
それでも侵食を阻止し、逆にインクブスの領域を掌握するミンストレルは予想以上の働きを見せている。
「分の悪い賭けだった」
インクブスが使用するマジックに介入できるか、それは賭けだった。
様々な作戦を行ってきたファミリアの多様性にも限界はある。
〈一時は駄目かと思いました……〉
重い身体を引き摺るように立ち上がり、近寄ってきたリュウジンオオムカデの頭部に触れる。
もし私が傀儡となった場合、即座に殺害するようファミリアには厳命してあった。
パートナーには最後まで反対されたが、そこだけは譲れなかった。
〈でも、東さんが目覚めた今、反撃に移れます!〉
「ああ」
左肩へ手を寄せ、パートナーの前脚に軽く触れた。
この身体が動く限り、思考が続く限り、インクブスを屠る。
私を仕留め損ねたことを後悔させてやる。
「外部とテレパシーを繋ぐことは可能か?」
〈ミンストレルのリソースを割けば可能かと〉
「ラーズグリーズとナンバーズに現状を伝達、それ以降は領域の掌握に全力を注ぐ」
〈分かりました〉
ミンストレルの別群体を増援に呼ぶことも考えたが、通常運用中の群体を引き抜くべきではない。
単純に数が増えて解決する問題なら私のパートナーは実行しているだろう。
今はノウハウが蓄積されるまで無用な混乱は避ける。
「領域内に巻き込まれた一般人は──」
そこまで口走って、私は気が付く。
一瞬で体の芯まで冷え、奥底から静かに怒りが湧いてくる。
なぜ、今まで気が付かなかった?
巻き込まれた友人が、すぐ傍にいただろうが。
「政木は、どうした?」
今更になって問う薄情な己を縊り殺したくなる。
左肩で縮こまるパートナーは、すぐ答えなかった。
もう予想はできている。
廃工場の奥に広がる闇を睨み、口を強く引き結ぶ。
口内に広がる苦味は無視し、ただ感情の起伏を抑え込む。
〈…分かりません〉
絞り出した短い返答には不甲斐ない己への憤り、そして後悔の感情が渦巻いていた。
責めるつもりなど毛頭ない。
自己嫌悪も今は必要ない。
〈少なくとも掌握できた領域では……確認していません〉
政木はウィッチナンバー9のベニヒメだ。
指折りの実力者である彼女なら抵抗できているかもしれない──
「インクブスの本体は捕捉しているな」
そんな希望的観測を抱けるほど私は楽天家じゃない。
この世界は、どこまでも悪辣だ。
〈エナの気配から方角は割り出せていますが……〉
「本体を直接叩く」
何を為すべきか、考えるまでもない。
〈危険です!〉
百も承知だ。
私の前に立ち塞がるアトラスオオカブトの角に触れ、左肩のパートナーを見遣る。
「こちらを堕とせない以上、インクブスは確実に標的を変える」
言葉にせずとも私たちは共通の解に辿り着いている。
幾度と対峙してきた悪辣な怪物どもは決して愚かではなかった。
孤立したウィッチから狙うのは連中の十八番だ。
「リソースを分散している今、仕掛ける」
〈罠の可能性があります…!〉
この状況で罠を仕掛けないインクブスなど存在しないだろう。
それを加味しても打って出るつもりだ。
「ベニヒメが支配下に置かれた場合、対抗できるか?」
〈そ、それは……〉
パートナーは鋏角を擦り合わせて言い淀む。
想定される最悪の事態は、ベニヒメがインクブスの傀儡となることだ。
ウィッチナンバーの上位者とは一騎当千の実力者。
能力を十全に発揮できない傀儡であっても現状の戦力では勝負にならない。
「守りに入れば、インクブスに時間を与える」
領域を完全に掌握するまで動かない消極的選択もある。
だが、それで事態は好転しない。
攻め続けること──今までと変わらない。
次の手を打ち続け、待ちの手札を切るのはアンブッシュの瞬間だけ。
それが私たちだ。
「罠は正面から潰し、ベニヒメを救出する」
彼女の手を掴むことも、共に逃げることもしなかった私に、友人を名乗る資格はない。
私はインクブスを駆逐する者として、協力者であるウィッチを救う。
〈…救出が間に合わない可能性も、あります〉
絞り出すように告げられた言葉が、月下の廃工場を反響する。
ウィッチになった日から今日まで幾度と目の当たりにしてきた地獄。
常に最悪を想定しても何かを取り零す。
「それは諦める理由になるか?」
努めて平静に、感情を殺し、パートナーへ問う。
沈黙するハエトリグモの無機質な眼が私を映す。
いつもと変わらぬ仏頂面が映っている。
東蓮花ではなく、シルバーロータスとして振舞えている──はずだ。
感情的になったところでファミリアの能率が上がるわけではない。
あくまで冷静に、インクブスを屠れ。
〈……分かりました〉
助言する、諫めもする、相談にも乗る。
しかし、最終的な判断は主人に委ねるのが、ウィッチのパートナーだった。
拒否権を与えられていない相手に、私は何を言わせているのか。
「すまん」
〈いえ、こちらこそ申し訳ありません〉
私の横顔を見つめるパートナーは逆に頭を下げ、それから言葉を続ける。
〈…本当は、諦めたくなかったんです〉
知っているとも。
誰かを見捨てることを是とするはずがない。
しかし、私を危険に晒すこともできなかった。
〈不確定要素に怯えていたら何も救えません〉
どれだけ策を講じても絶対などない。
ならば一歩も踏み出さないのか?
答えは否である。
〈政木さんを助けに行きましょう!〉
義務感から言い出せなかった言葉を、パートナーは力強く紡いだ。
「ああ」
その言葉に頷きを返せば、アトラスオオカブトが後退って道を空ける。
そして、月光の射し込む天井から6体のミツバチ──ミンストレルが降り立つ。
くるくると私の周囲を歩き回り、翅を小刻みに震わせる。
するとシャツやスカートに散った血痕が銀の輝きとなって剥離し、舞い上がる。
それは私の全身を覆い、見慣れたシルバーロータスの装束を形作っていく。
「これは…?」
着慣れた鼠色のコートが無かった。
白いポンチョやロングスカートには見慣れぬ装飾が施され、ロングブーツのヒールは若干高い。
まるで魔法少女のような──ウィッチではあるが、私が着飾る必要はない。
ファミリアに少しでもエナの比率を傾けるべきだ。
目を楽しませる刺繍やフリルは何の役にも立たない。
〈仰りたいことは分かります……しかし、身を護るために必要と判断しました〉
パートナーの判断は正しい。
敵地へ乗り込む以上、生存性を高めるために自衛手段は必要だろう。
今、纏っている装束は普段よりもエナの使用量が多く、防御力は高いはずだ。
しかし、装飾を増やす必要は──いや、問答の時間も惜しい。
現実へ帰還する際に戻せば問題あるまい。
腰のシースからククリナイフを抜き、軽く振るって重心を確認。
「行くぞ」
〈はい!〉
ヒールで若干高くなった視界に戸惑いつつ、足下のミンストレルにアイコンタクトで道案内を促す。
ふわりと飛び上がる6体のミンストレル。
その群れを追って、廃工場の奥に広がる闇へ踏み込む。
廃工場から外へ出たことはない──ここからは未知の世界だ。
周囲へ注意を払いつつミンストレルの羽音を追う。
私の背後からはコンクリートを叩く無数の足音が続く。
〈領域に侵入します〉
瞬きの後には暗闇は消え失せ、沈む夕陽が世界を赤く染める。
地面はコンクリートから土と砂利へ変わり、雑草の生えた畦道となっていた。
周囲を見渡せば、草原のように稲の緑が揺れている。
虫たちの合唱が響く夕刻の田園──私の知らない世界。
廃工場とは打って変わって開放感のある風景だった。
視界を遮るものといえば、道端に突き立つ案山子くらいだ。
「ここは、政木の心象風景か」
確証はない。
だが、廃工場の再現から推測するに、インクブスは対象の記憶から領域を構築している。
誰かの記憶から構築した世界であることは間違いない。
〈エナの痕跡から、おそらくは……〉
畦道に降り立ったミンストレルが、触角を動かして手掛かりを探す。
その間にリュウジンオオムカデを道端の農業用水路へ飛び込ませておく。
原種と同様に半水棲の重量級ファミリアは、薄暗い水路の陰へと消えた。
「政木の位置は分かるか?」
廃工場に比べて牧歌的ではあるが、誰もいない田園は物寂しい。
〈…インクブスの本体と同じ方角へ続いています〉
情報の収集を終えたミンストレルが8の字を描くように歩き回っている。
これはミツバチのコミュニケーションの一つだ。
太陽の位置を基準とし、そこからの角度で方角を、腹部を揺らす回数で距離を示す。
ほぼ道形、距離は2km未満か。
「この領域の掌握は?」
〈既に始めています〉
「よし」
そう言って一歩踏み出した瞬間、道端の案山子が不意に震え出す。
露骨に怪しかった長身の案山子が二つに裂け──
《あはははっ》
黒化した肌が現れ、背から翅が飛び出す。
フェアリーリングの筋肉を削ぎ落したような人型だが、頭部には口があった。
醜悪な笑みを受かべる異形は、人でも蟲でもない。
《のこのこ入ってきぃ──》
水飛沫を散らし、農業用水路から躍り出た翡翠色の長大な体躯。
リュウジンオオムカデの顎肢が異形の黒い脚を易々と貫く。
《また、虫けらっかょ……》
現実とは勝手が違う世界でも、神経毒を注入された獲物は沈黙する。
そのまま畦道へ引き倒し、リュウジンオオムカデは躊躇なく獲物を大顎で噛み砕く。
意味もなく半水棲のファミリアを農業用水路へ入れるわけがないだろう。
〈まだ対処法を確立されてませんね〉
おそらく、インクブス真菌は領域を奪われ、反撃される事態を想定していない。
常に奪う側であった連中は、いつも防御が脆弱だ。
このままリソースを消耗させ続け、少しでも政木への侵食を弱める。
「確立される前に潰すぞ」
〈はい!〉
8の字ダンスを終えたミンストレルが飛び立つ。
夕陽を反射して瞬く翅の輝きを追い、止まっていた足を踏み出す。
虫たちの歌声に、風に揺れる稲の音──雑草を分ける足音だけが異物のように思われた。
騎士の如く随行するアトラスオオカブトとカマキリを連れて、無人の畦道を進む。
この物寂しい田園風景は、政木の故郷なのだろうか?
〈エナの放射量が増加……近いです〉
不意に、風景が一変する。
鬱蒼とした雑木林が現れ、温かな夕陽の光を隠す。
まるで初めからあったような雑木林の中、ヒグラシの鳴き声が耳を撫でる。
目の前には、見上げるほど立派な鳥居と──
「今日は来客が多い日だね」
迷彩柄の戦闘服を身に纏う青年が1人佇んでいた。
傍らに控えるファミリアは触角を揺らすだけで動かない。
それでもククリナイフの柄を握り直し、刃を隠すように左半身を前にする。
「君は、ウィッチかな…?」
その動きを目で追い、青年は眉を下げて困ったように笑う。
初対面のはずだが、既視感のある笑み。
似ている──政木律に。
そして、理解する。
国防陸軍の隊員であり、おそらくは政木律に関連する人物となれば、嫌でも理解できる。
「……どう見る」
ゆっくりと肺から空気を吐き出し、青年を観察する。
武装は、肩から下げた国防陸軍が採用しているライフルのみ。
肌が黒化している様子もなく、ごく普通の人間に見えた。
〈彼は…インクブスではありません〉
微かに驚愕を滲ませた声でパートナーは告げる。
眼前の故人が何者であるか。
〈政木さんのエナで構成されています…!〉
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