信心
華々しく戦い、人々を救うウィッチに憧れる少女は多い。
それは現実が周知されていないゆえの憧れだ。
インクブスは悪辣な敵であり、敗北すれば凄惨な末路が待っている。
しかし、その現実は実際に少女たちを襲うまで知られることはない。
憧れが不変でなければ、いずれ人類は敗北する。
《へっへっ……ヒトの雌だ!》
下卑た声が雨音の中、少女の耳まで届く。
聞き慣れたインクブス、それもゴブリンの声であると判別できた。
しかし、雨に打たれる制服姿の少女は無視して歩き続ける。
少女は──ウィッチだった。
パートナーも連れず旧首都郊外にある河川敷を歩く。
行先はない。
《若い雌だ!》
雑多な足音が近づいてくる。
戦わなければならない。
変質した本能は無意識に反応するが、少女の闘志は潰えていた。
《このエナは…こいつ、ウィッチだっ》
ナンバーズに近いウィッチと噂される実力者は、期待に応えるように数多のインクブスを屠った。
姉を、親友を、同期を失っても。
しかし、インクブスとの戦いに終わりはなかった。
──少女に追いつく矮躯の影たち。
《1人で何してんだぁ?》
《知るかよ、とっとと押さえろ》
無言のまま引き倒された少女の瞳は、ただ濁った空を無為に映す。
ある日、無力感と絶望が許容を超えた。
かつて見た憧れの後ろ姿は、虚構であると理解した。
《泣き叫ばねぇし、つまらねぇな》
《ならば、泣かせてやろうか?》
ゴブリンの背より現れる影に一瞬、目を見開く。
筋骨隆々の巨躯を誇るインクブス──オーガである。
それに嬲られたウィッチの末路は輪をかけて悲惨とされる。
体は強張るが、手足を押さえられた少女は何もかも諦めていた。
《へっへっ……旦那がやったら一発で壊れちまうぜ》
《ふん、冗談だ。弱い雌に興味などない》
安堵するゴブリンたちは気を取り直し、少女の肢体へ手を伸ばす。
ウィッチの最期とは、野鳥のように確認されることは滅多にない。
嬲られた少女たちは異界へ連れ去られ、そこで苗床となって一生を終える。
《さぁ、まずは俺からだぁ!》
絶望に心折れた少女も──そうなるはずだった。
空より雨と共に降ってきた影。
その場にいた者は、落下物の質量が跳ね飛ばした飛沫を全身に浴びる。
《なんだ!?》
突然の襲撃に浮足立つインクブス。
その中で、最も冷静であったオーガが落下物の正体を看破する。
《ギレスっ!》
それは──あらぬ方向に胴体の折れ曲がった同族の骸。
その腹部は大きく陥没し、脊椎までを砕いていると一目で分かった。
ゴブリンは抜け殻の少女にナイフを突きつけ、オーガは得物を握り直して周囲を見回す。
《ウィッチか!》
《どこから来るっ》
視力の優れたインクブスとて雨天では視野が狭まる。
雨音に増水した川の流れる音も加わって、周囲の音は輪郭がぼやける。
しかし、確実に接近してくる足音。
無意識のうちに方角を推し量ってしまう少女。
《後ろか!》
雨の生み出す灰色の闇から現れた巨大な影へオーガは得物を振り抜いた。
戦車の装甲すら破壊する必殺の一撃が雨粒を散らして迫る。
オーガは勝利を確信した。
だが──相手の一撃は雨粒を蒸発させる速度で放たれる。
衝撃波が雨粒を吹き飛ばす。
そして、破壊に耐えかねた鉄塊は金切り声を上げて破断する。
《なんだと!?》
インクブスたちは驚愕する。
馬鹿な、信じられない、と。
自慢の鉄塊が宙を舞って、墓標のように河川敷へ突き立つ。
それは1体のゴブリンを巻き込み、血の混じった泥水が少女を汚す。
《こいつ──》
ウィッチのように鮮やかな玉虫色の襲撃者は、巨体に見合わぬ速度でオーガに肉薄する。
そして、腹部に格納された捕脚を解き放つ。
本能的にオーガは両腕をクロスさせ、それを正面から受けた。
受けてしまった。
《ぐがぁっ!?》
両腕の骨が粉々に粉砕される異音が雨音に吸い込まれていく。
だが、
腹部へ戻された捕脚は再び力を蓄え、オーガの胸部に向かって解放された。
鈍い破裂音、そして──オーガは雨空を舞った。
肉弾戦を得意とするインクブスの中ではトップクラスのオーガ。
その巨躯は無惨に河川敷の緑へ叩きつけられ、沈黙した。
《化け物だぁ!》
《に、逃げろ!!》
泡を食って逃げ出すゴブリンを、水晶のような眼が睥睨するも追撃はない。
その堂々とした佇まいは、間違いなく上位者であった。
ただただ、その姿に少女は圧倒され、鮮やかな触角鱗片の輝きに魅入られる。
《ぎゃぁあぁ!!》
断末魔、続いて骨肉を噛み砕く咀嚼音が河川敷に響く。
少女が振り向いた先では、逃げ出したゴブリンたちが貪られていた。
人間大カマドウマの一群に。
緑色の矮躯が斑模様の影に覆い隠され、長い触角が揺れる。
「すごい…」
少女の声に嫌悪感は微塵もない。
人類の敵であるインクブスを獲物と認識し捕食する姿は、まさに絶対強者。
マジックを駆使し、撃滅を第一とするウィッチでは到達し得ない。
雨に打たれながら座り込む少女は、その光景を眺めていた。
「無事か」
「え…?」
背後から投げかけられた声は幼く、しかし無邪気さの欠片もないものだった。
この人外魔境に人がいるものか、と振り向けば幽鬼のような人影。
目深に被ったフードの奥で紅い目が瞬き、ようやく人と気づく。
「あなたは……」
エナの塊のような極彩色の
聞くまでもない。
だが、それでも問うてしまった。
「ウィッチだ」
言うが早いか、羽織っていた鼠色のオーバーコートを外す。
その下より現れたウィッチの風姿に、少女は思わず息を吞む。
花──そうとしか形容できない。
纏った白磁のポンチョ、ロングスカートは控えめな刺繍しか施されていない。
しかし、それが大輪の花びらを思わせる。
堅牢な作りのロングブーツは茎、ククリナイフを収める新緑のシースは葉のよう。
「被っていろ」
「え、あ…ありがとうございます……」
見惚れていた少女にコートを被せたウィッチは、瞬く間に雨で濡れていく。
雨水を受けてなお、静かな生命力を感じさせる装束。
その首元にかかる銀髪から顔を覗かせる小さなハエトリグモ。
エナの気配からウィッチのパートナーであると少女は直感的に理解した。
〈新手のオーガです……数は5体〉
「大盤振る舞いだな」
淡々とした会話は、まるで世間話のように聞こえる。
しかし、少女の体は無意識のうちに強張り、与えられたコートを握り締めていた。
序列の高いウィッチでも死闘は免れない相手が5体。
普通であれば逃げなくてはならない。
いかに強力なファミリアがいようと数は力だ──勝機はない。
〈どうしますか?〉
「やるぞ」
パートナーの問いへ当然のように答えるウィッチ。
耳を疑う言葉に思わず顔を上げる少女。
銀髪より覗く横顔は焦燥も悲観もなく、研ぎ澄まされた鋭利な刃のように美しい。
〈やれますか〉
「やるとも」
静粛に満ちていながら雨音には吸い込まれない声。
それに応え、濁流となった川より姿を現す玉虫色のファミリア。
数にして4体。
河川敷へ上陸を果たし、主の背後へ控える姿は王を守護する近衛のよう。
それが当然とばかりに小柄なウィッチは振り向かない。
「どうして、ですか?」
少女には、理解できなかった。
ウィッチが内包するエナは微弱、もうファミリアを召喚する余力はない。
しかし、まるで臆した様子がない。
オーガが5体だけで行動するはずがないというのに。
「どうして戦えるんですか?」
ゴブリンを片付けたカマドウマが跳躍して、灰色の闇へと消える。
紅い瞳は闇の果てまで見通しているかのように、その姿を見送った。
そして、やはり当然のようにウィッチは答える。
「インクブスどもがいるからだ」
「どれだけ……どれだけ倒しても終わらないのに?」
目の前にいる脅威を退けたところでインクブスは再び現れる。
今以上の数を引き連れて。
いつかは敗北し、惨たらしい最期を迎えるに違いない。
「理由にならない」
そんな悲観的な未来予想を斬り捨てる言葉。
その切れ味に少女は耐えられず、腹の奥底から言葉を絞り出した。
「十分な理由じゃないですか!」
痛々しい少女の叫びが雨に吸い込まれ、急速に散らばっていく。
正面を見据えていたウィッチが、少女を真っすぐ見る。
一切の迷いがなかった紅い瞳には──複雑な色が浮かんでいた。
それから一呼吸ほど置いて、ウィッチは口を開く。
「ウィッチか」
「…はい」
どうしようもない醜態を晒しながら、救出に現れたウィッチを惨めな会話へ付き合わせている。
オーガという脅威が迫る中で。
一呼吸の時間によって、それを冷静に認識できてしまった少女は顔を俯かせる。
「私にとって、それは理由にならない」
改めてウィッチは言う。
少女の心を折ってしまった絶望は、自分にとって絶望たりえないと。
しかし、今度は続きがあった。
「インクブスどもが数を揃え、策を練ろうが正面から叩き潰す」
声色に変化はなく、どこまでも淡々とした口調。
その言葉一つ一つを少女の耳は確かに拾い上げる。
雨音など些細なものだった。
「ウィッチの1人や2人、肩代わりできる戦力で」
誇示するわけでもなく、驕るわけでもない。
今まで実行してきたのだと思わせる語り。
それを終えた小柄なウィッチは、しゃがみ込んで少女と目線を合わせる。
どこか恐る恐る、しかし意を決して──
「今まで……よく、がんばったな」
少女の頭を撫でた。
壊れ物に触れるような手つきで。
濡れた手から伝わる心地よい熱、そして口元に浮かべられた優しい笑み。
頼られるだけだった少女は──初めて、救われた。
「あとは」
無粋な足音を耳にしてウィッチは息を吐きながら立ち上がる。
口元の笑みを消し、シースからククリナイフを抜く。
やはり、その横顔は刃のように美しい。
「任せろ」
そう言って背を向けるウィッチの姿は、かつて少女の憧れたウィッチそのものだった。
◆
「こんばんは、アリスドール」
鈴を転がすような声で淑やかに挨拶する少女。
舞踏会にでも行くようなドレスを身に纏い、身の丈ほどもあるソードを片手で持つ姿は、紛うことなきウィッチ。
パートナーが見当たらない点を除けば。
「ど、どうして?」
エプロンドレス姿のメルヘンチックなウィッチ──アリスドールは震える喉から言葉を絞り出す。
その問いを聞き、口角を上げる蒼いウィッチ。
折れ曲がった街灯から見下ろす先には、蒼い焔に包まれる懐中時計があった。
「そうですね……白ウサギは遅刻してませんけど」
やがてエナが揺らぎ始め、懐中時計は砂のように崩れ出す。
パートナーだったモノが跡形も残らず消えて去っていく。
「アリスを導く仕事を果たさなかったので──」
街灯より一歩踏み出して自由落下する蒼い影は、軽やかにアリスドールの眼前へ降り立つ。
かつり、とヒールが雅な音を路地に響かせた。
「消えてもらいました」
ウィッチをウィッチたらしめる存在、それを消滅させるなど聞いたことがない。
しかし、蒼いウィッチは一切の躊躇も容赦もなく、アリスドールのパートナーを消滅させた。
ひどく手慣れているように見えた凶行。
だが、眼前のウィッチに恐怖する理由は、それだけではなかった。
「どうやって私を見つけたんですか…?」
アリスドールはマジックによる砲撃を得意とするウィッチだが、彼女の真髄はそこではない。
不思議の国へ入り込むように──あらゆる知覚より消失する。
人もインクブスも欺く能力こそがウィッチナンバー411、アリスドールの真骨頂。
それが一切通用しなかったのだ。
「私、見えるんです」
「見え…る?」
そう言って己の碧眼を指差す蒼いウィッチ。
狭まった瞳孔の奥底には、すべてを吸い込む闇が滞留しているようだった。
「エナが透過する場所は全て」
ウィッチが内包するエナの性質と量には個人差がある。
今現在も放射され続けている彼女のエナは、高い直進性と透過性を有していた。
障壁などは意味を成さない。
その目はインクブスの潜伏場所を見つけ出し、急所を的確に見抜く。
「だから、穴に逃げ込んでも見えるんですよ」
そして、マジックで形成された別次元の穴さえ見通す。
「6割くらいしか感覚は戻せてませんけど」
まだまだです、と淑やかに笑う相手からアリスドールは恐怖で後退った。
手元にある金色のマレットを振るい、マジックで抵抗しようと無意味だ。
隔絶した実力差が両者の間にはある。
「さて……私が来た理由は分かってますよね?」
声色は変わらずともインクブスを容易く両断する刃が月光を反射する。
それだけでアリスドールは路地のアスファルトに恐怖で縫い付けられた。
「ご、ごめんなさいっ!」
反射的に飛び出した謝罪の言葉に、蒼いウィッチはただ苦笑する。
「可愛いおいたなら見逃してあげたんですけど」
「とても綺麗な、ビスクドールみたいな人だったから……で、出来心だったんですっ」
エナ不足でオークの追跡から逃れられないアリスドールを救った銀髪赤目のウィッチ。
白磁のように白い肌、風に揺らぐ長い銀髪の輝き、そして無垢で汚れなきルビーの如き目。
人形の蒐集癖があるアリスドールは、それに魅入られてしまった。
「あの方は優しいから許すでしょうね。でも、SNSで公開するなんて──」
アリスドールの必死な独白を聞き、頷き、そうかの一言で許しかねない某ウィッチ。
だが、1枚の写真でも存在が認知されることは、彼女のアドバンテージが一つ失われることを意味する。
それを理解するがゆえに、蒼いウィッチは──
「殺されても文句は言えませんよね?」
か細い喉元に鋭利な切先を突きつけ、花が咲くように微笑む。
最大限の敵意を滲ませて。
「ひゅっ」
敵意ある微笑みには、有言実行する迫力があった。
インクブスの獣欲に満ちた視線ではなく、純粋に相手の殺害を考える視線に震えるしかない。
突きつけられた切先は揺れ動かない──ただ一動作で血溜まりに沈むことになる。
呼吸すら止めて、アリスドールは沈黙に耐える。
永遠に思える沈黙があった。
「…あの方が助けたウィッチですし、目的は達したのでやりませんけど」
大いに憂を滲ませる溜息を吐き、切先は下げられた。
二度目のチャンスを与えないことは、生命の不可逆的な破壊以外でも達成できる。
そして、それは成された。
出回る写真は消せないが──その程度で足を掬われるほど脆弱な方ではない。
であるならば、反抗しない限り命を奪う必要はない。
ただインクブスを駆逐するウィッチとして機能すればいい。
そう、判断する。
「次は、ないですよ?」
それだけ告げて、軽やかに踵を返す蒼いウィッチ。
蒼い燐光を微かに残し、路地の闇へ溶け込むように消える。
遠ざかるヒールの刻む足音。
月下には、鏡の国から飛び出してきたようなウィッチが1人取り残された。
「けほっ……はぁはぁ、かひゅっ…」
アリスドールは咽せながらも押し止めていた呼吸を再開する。
体の震えは収まらないが、それもまた自身が生存している事実。
金色のマレットを抱きしめると、失われたパートナーの存在へ意識が向く。
そして、堰き止めていた涙が溢れ──
「ああ、でも」
足音が止まった。
「パートナーのいなくなったウィッチは」
まるで言い聞かせるような調子で新たな言葉が紡がれる。
可視化したエナが舞い、翻された蒼いドレスを照らす。
「調子を取り戻すまで弱いですし」
ヒールの刻む足音が戻ってくる。
かつり、かつりと速足で。
再び迫る死の恐怖を前にアリスドールは、震えるしかない。
「あいつらの苗床を増やすのは、だめですよね」
「ま、待ってっ!」
パートナー消滅の原因が、理不尽な理由を並べながら迫る。
無力なウィッチを見下ろす碧眼は人を映していなかった。
無機質で、どこまでも冷徹な、かのファミリアたちを彷彿とさせる目。
「すみません」
「い、いや…やだっ…」
アリスドールの周囲で燐光が溢れ、狂ったように踊る。
眼前に現れたソードへエナが収束していき、煌々と蒼く輝き出す。
「やっぱり死んでくれますか?」
そう一方的に宣告し、アズールノヴァを名乗るウィッチは──
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