2-4 退屈な日々
髪結として働いていた葵からすると、御髪下ろしとしての生活は心穏やかといえど面白味のない毎日だった。
朝は美しい黒の漆器に載せられた質素な朝食が運ばれてきた。漬物、白米、お味噌汁。それに綺麗に小骨の取られた焼き魚。それが終わると、髪を梳いてもらい、長袴に小袿に着替えた。お昼を過ぎれば3階にある中庭で花を愛でた。
「ほら、右大臣様がいらっしゃいました」と浅見が中庭から階下の正門を見て、葵に言った。
「また新しい女のところに行かれるのね」
「なぜ浅見はそうもわかるのか?」と葵。
「長らくここから眺めているとわかるものです」と浅見。
「長らく?」
「よく、ここで油を売って……時間を潰しておりました」と浅見はにこりと笑った。
葵は扇を開くとクスリと笑った。
「実は物語を書いているのです。こうして人を観察して、感情を推測って。ほら、あちらは関白様」と浅見。「3位様のところへ行かれるのですね。3位様はこの間、やっと関白様をお受け入れになられたそうですよ」
「それはよかった」と葵は言った。「記憶は戻られたのか?」
「いえ、そういうわけではないそうで、また一つずつ思い出を作っていかれるご予定だそうです。ただ関白様をお受け入れになられて、華の会はまずは一安心といったところでしょう。中園様がたいそう安堵されて、お祝いを持っていかれたとか」
「帝は相変わらずなのか?」
「と、申しますと?」
「中宮様のもとへのお渡りは?」
「まるでないとのことでございます。ご興味がおありでないのならいたしかたないことです」
「でも、二位尼様のもとへは頻繁にうかがわれていると」
「ご挨拶にございましょう。無下にはできぬ理由でもおありなのでしょう」
「しかし、こともあろうに帝のような方が、中宮様をお悲しみあそばされるようなことをするであろうか」
「さあ、人の心など、推し量れるものではございませぬ」
夕方には部屋で和歌を読んだ。
「浅見殿、和歌の練習をなさった方が良いのでは?これから葵様の手前、下手では困りましょう」と赤間。
「下手、でしょうか?」と浅見は言った。
「ええ、ほらここ、満月の、って。どう言う意味ですか」と赤間。
葵は気が臥せってくると、一階にある蔵書がまとめられた部屋で本を読んで過ごした。人はこれを風流と呼ぶのかもしれないが、葵に取っては退屈な日々だった。こうなってくると、誰か東野の人が部屋に訪れてくれないか、と葵は思うようになった。ずっと暇つぶしになる。男のことで悩んだり、やきもちを焼いたりする時間は、有意義だ。
お風呂に浸かることができるのは、1月に1度であった。お風呂は離れにあり、新館と離れを廊下がつないでいた。この廊下は吹き通しになっており、正門前の庭に直接出ることができる。廊下の真向かいには中宮様のお部屋がある。時折女官が出入りするくらいで、人の気配がしない。中宮様という方が、本当にいらっしゃるのかさえわからない。高貴なお方は窮屈そうでおかわいそうだ。それにしても、あの金山が、大切な御方を放って二位尼様の元へ通うほど非情だろうか。人は変わるのだろうか。
打って変わって隣の3位様の部屋には中園様はじめ、よく人がくる。様子を見ていれば誰が華の会なのかわかる。色んな理由で集まっているようだが、要は情報収集と勢力の見せつけだろう。華の会は今何のために動いているのだろうか。
こういうことを考えていると、幾分気が紛れる。浅見の言うとおり、物語の一つや二つ、確かに書けそうだ。
28位となって一か月がした後、初めての御髪下ろし様方が一斉集う会合が行われた。この会議は女官を伴ってはいけない決まりとなっており、葵は重い十二単を着て1人で、会場へと向かった。
会場は、一階の車寄せ近くの広間であった。3位様のお部屋のすぐ隣だ。
3位様は羨ましい。これだけ車寄せから近ければ、殿方の足があるのも当然のことだろう。
広間は30人ほどが入れる大きさだった。葵は入室すると、下座の29位様の隣に着座した。集まった人々は世間話をしていた。
「3位様のご様子は?」
「関白様がたいそうご心配されていると右大臣様が仰られておいででした。この頃になり、やっとお受入れになられ、先日は華の会で快気祝いを行いました」と10位様は下座まで聞こえる声で言った。
「病で記憶の節々が飛んでいるとの噂でしたけれど、あれはまことですか?」
「ええ、でもそちらもご回復の兆しがおありです。右大臣様はたいそうお喜びになって、この間二人でお祝いをいたしましたの。そうしたら右大臣様、気をよくしたのか私にもこの新しい唐衣をくださったのよ」と10位様。
10位様はお美しい。良い着物はそれを輪にかける。華の会の人たちは美しいものたちばかりだ。男を呼びやすくなるのだろう。
「まぁ、お優しいこと」というと、下座側へとちらりと目をやった。
6位中園様が入られると、一転、しんと静まりかえった。中園様は前会った時よりも美しさに磨きがかかっていた。唐衣も新しい緑色だ。
広間の上段は、御簾がかかっていた。
「3位様がおなりです」
全員がその場に平伏した。3位様は御簾の奥へと着座された。
「表をあげよ」と3位様。
藤本様は、中園様を超える美しさだった。月光さえも反射するかのような黒髪に、透き通る白い肌、そして整った目鼻立ち。知力だけではなく、見た目さえも叶わない。そもそも、全身にまとう余裕ゆえの威勢がある。それは御髪下ろしになっても埋まらない差なのだ。序列とかではない。自分とは違う世界に生きる人なのだ。
「あらたに髪下ろしとなるは、28位、田上葵。挨拶せよ」と藤本様は鋭い声で言った。葵はどきりとした。
「28位田上葵と申します。初めての髪下ろしなれば至らぬことも多くありましょうが、なにとぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」と葵は震える声で言った。
「中宮様が再任されたこと、これ以上の誉はない。これからも皆一層、中宮様の御ために十二分に尽くすように」
それだけいうと3位様は退室された。葵はあまりにも早い退場にきょとんとしていた。
「ご指導と申しておりましたけれど」と中園が言った。
「28位さん、あなたのことです」と中園。
「そうですね」と10位様が続けて言った。
「では、その指導の一環として、この部屋の清掃でもお願いいたしましょうか。願った者に与えないのはよくありませぬゆえ」と中園。
「え……」と葵は戸惑った。中園は睨みつけた。
「はい……」と葵。
そういうと中園はじめ御髪下ろしが退室した。
「新参者が通らなくてはいけない道なのよ」と29位様は耳打ちして部屋を出て行った。
その言葉で新人いじめのための会議だったのだとやっと葵は理解した。
でもこの衣服のまま?
なるほど、こうなることをわかった上で、29位は初日に西陣織をくれたのだ、と葵は唐突に理解した。
退屈な日々などない。ここでは毎日が戦場だ。
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