第二章 葵、帝の寵愛を得る
第3巻 身の浮きほどぞ〜再会〜
中園に命じられた清掃の終わる時はすでに夜を回っていた。朦朧とした頭とふらつく足で廊下を歩いていると、突然誰かとぶつかった。
「失礼……」
ふと顔を上げた瞬間、葵は青ざめた。血の気が一瞬で引いた。葵は急いでその場にひれふした。
金山だ。金山悠生だ。何もあの頃と顔が変わっていやしない。帝だ。
「控えよ!」
帝の従者の鋭い声が静かな廊下に響き渡った。
「名をもうせ!」と帝の従者が言った。
「髪下ろし28位田上葵でございます」と葵は震える声で早口で答えた。
「田上?」と帝は言った。
「お上はこのような謀反者とお話をなさってはなりませぬ」と従者は言った。
「田上、おもてをあげよ」と帝。
葵はおそるおそる顔をあげた。
「ああやはり」と帝は言った。
「病のようゆえ許してやれ」と帝は言うと、正門へと向かった。
「帝への御恩を忘れるでないぞ」と従者は言うと、帝の後へとついていった。
部屋に戻ると、浅見と赤石が自室に下がることなく待っていた。
葵は二人の顔を見ると、泣き崩れた。
「いかがなさいました?」と二人は近づいた。
「休ませておくれ」と葵は言った。
「十二単を新調せねば」と浅見は一目見て言った。
「29位様にいただいたものをつくろいましょう」赤石は冷静に言った。
翌日、葵は生きた心地がせず、食事が全く喉を通らなかった。いつ誰が何を言ってくるかわからず、ただ部屋で怯えながら過ごすことしかできなかった。それは浅見と赤石も同じようで、2人ともそわそわして何も手がつかないようだった。
「些細はわかりました」と赤石。「ただ、お相手が帝です。中宮様や華の会の連中が何を言ってくるか。帝がお優しく、謀反と言われなかっただけどましとはいえ、どうなるか」
「そのようなこと申されますな」と赤石。
「でも、もしもの場合を考え、策を練りませんと。華の会は、これを機に一気に潰してくるやも知れませぬ」
「潰す価値があるほどのご器量を、葵様はお持ちではございませぬ。はっ、失礼いたしました」
葵は御簾を下げると奥の寝所で横になった。
昼を過ぎても便り一つ来なかった。お叱りの言葉もお見舞いの言葉もない。周囲でどのように噂されているのか、あるいはどのような処分が待っているのか、きがきでない。
「葵様」と浅見が声をかけた。「表使いがまいっております。通さぬわけにはまいりませぬ」
「通せ」
時刻はすでに夕方を回っていた。
表使いは平伏した。葵は意を決した。どのような処分も受け入れよう。それだけのことをした。
「帝が今宵、28位様の元へお渡りになられたいとのことです」と表使い。
「……え?」
葵、浅見、赤石、そして葵の3人はその言葉に目を丸くした。葵は浅見にうなずいた。
「かしこまりました」と浅見はたどたどしく答えた。
表使いが帰ると、準備をしにまいります、と赤間は言って下がっていった。
「帝が夜にお渡り?」と浅見は首をかしげた。葵は何も言うことができなかった。
浅見は終始考え込んでいるようだった。
噂を聞きつけたのか、29位様が葵の部屋に早速訪れてきた。
「もう、昨夜のことを聞いてから、私も生きた心地がせず、食事が喉も通らなかったのです。やはり田上様のお美しさあってこそですね」と29位様は泣きながら言った。
葵は、きれいだとか、美しいだとか、そういう言葉を言われたのは初めてだった。浅見もうなずいていたが、どうもその、美しい、という言葉を信用することができず、ただ呆然とするしかなかった。
-なせだ。なぜ帝が
「中宮様に申し訳がありません」と葵は言った。
中宮様のところに帝の足が向いていないことを葵は重々承知していた。髪結の頃に、浦安にせがまれ、何度も東野に問い合わせたが、『帝は中宮様のところへ御幸せぬ』と答えるばかりでどうしようもなかったのだ。帝と中宮の仲に隙間風が吹いていることは十二分に理解していた。
「何を申されるのです。帝のご希望ですから、断ることなどできはすまい」と29位様は言った。「ただ女というのは恐ろしい生き物ですから、慎重にならねばなりませんね」
葵は頭を抱えるしかなかった。
「皆噂しておりますよ。私も廊下でぶつかりたいと」と29位様。
「直接、罰をお下しになられるのかも」と葵。
「そのようなわけがごさまいませぬ。もっと自信をお持ちくださいませ」
「葵様、御渡りの準備がございます」と赤石が言った。
「失礼いたします」と言って29位様は下がっていった。
「まるで手のひら返しね」と赤石はつぶやいた。
夕食後、葵は体を丁寧に洗われた。髪を綺麗に梳くと、良い香りのする油をつけ、寝着にも香を炊いた。
生きた心地がしない。
なぜだろう。光栄なことなのに。浅見も赤石も喜んでいるのに。どこか気が晴れない。
葵は寝所に入ると、帝の来訪をひたすら待った。
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