1の3 御髪下ろし様方への挨拶回り

 翌日から早速、葵は挨拶回りを行った。30位様の部屋は最上階4階の奥の部屋だった。4階まで上がると流石に足取りが重くなる、葵は息を上げた。


 御髪下ろし様の部屋を訪れるのは初めてだった。心臓が高鳴る。


「田上葵です。ご挨拶にまいりました」と部屋の外で控えている女官に、取り次ぎをお願いした。


 女官はいったん部屋の中に入り、30位の許可を取ると、「どうぞ」と言って、葵を部屋に通した。


 葵は下座に座ると、頭を下げた。


「まあそうかしこまらず」


 30位様は優しい口調でそう仰られると、一段上になっている上座から下座へと降りてこられた。薄桃色の唐衣を着た穏やかそうな方だ。


「30位様!」


「よいのです。田上殿はこれから私よりも上位の方。初めての御髪下ろしは不安も多いでしょうが、何かあれば頼ってくださいませ。私は29位になります。部屋もお隣です」と30位様は言った。


「長きに渡り御髪下ろし様を務められている30位様がいらっしゃることほど心強いものはありません。私はほんの少しの期間でございましょう。次の試験後は髪結に戻る身となりましょうが、どうかしばしの間とはいえご指南いただけると大変嬉しく思います」


「それはあまり仰らないほうがいいです」と30位様はぴしゃりとおっしゃって、扇を畳んだ。「皆、同じ不安を抱えておりますから。中宮様も、華の会会長様であられても、同じことです」


「申し訳ございませぬ」


「いえ、これは、あなたとは良き友になれそうゆえ、申していることです」


「ありがとうございます。その、一つ気になったのですが、華の会とは?」と葵。


「あらご存知ないの?」と30位様。


「3位様を会長とする、要は仲良し集団です」と30位様は扇で口元を覆うと、声をひそめていった。


「3位藤本様、6位中園様を初め、髪結にもその勢力のものがおります。中宮様のおんためであれば、手段を問わず何でもする集団です。それゆえに、おかしなことですが、中宮様でさえ気を遣っておられるのです。藤本様はああ見えて、人をお使いになり、あの手この手で首を絞めて来る様な方です。目をつけられないよう、息を潜めるのが1番です。3位様は関白様、6位様は左大臣様のご寵愛を受けておいでのため、誰も手出しできないのです」


「ご忠告恐れ入ります」と葵は言った。


 そろそろ今日も右大臣様の御渡りにございますからご準備を、と控えの女官が言った。


 葵は一礼をすると下がっていった。

 

 挨拶回りは順調に進んだ。皆笑顔で接してくれ、何かあったら何でも聞いてくださいね、と言った。お話しする前は、高貴な方々とはとっつきづらいものと思い込んでいた。張り詰めていた糸が緩んでいくようだ。


 ただ、どうしても緊張したのは6位様だった。6位様は華の会の中でも3位様に次いで権勢を誇っていると、30位様が仰っていた。そして、何より葵は6位様と幼少期からの知り合いだった。


「まあそうかしこまらず。顔を上げよ。大学寮からの仲ではないか」


 西丘に入るための試験を突破するための大学寮がいくつか存在した。葵は幼少期、地元から牛車で2時間かけ、わざわざ西丘近くの大学寮まで通っていた。西丘で仕えることを夢見てのことだ。


 あの頃は中園より葵の方が賢かった。皆、葵は将来の中宮などと噂していた。


 西丘に入ってから大変だった。慣れない宮仕えなうえに、皆高貴な家の出のものばかり。片田舎でのんびりと過ごしてきた葵は、いじめられることはなくとも、なかなか馴染むことができなかった。


 そうこうしているうちに葵の序列は落ちていった。当時、自分よりずっと下で、やっとのことで西丘に入った中園は、気がつくと手が届かない地位にまで上り詰めている。話しかけることすらできなかった。


 葵の大学寮時代の序列を知るものは少ない。しかし葵の醸し出す真面目そうな雰囲気は能力以上に賢そうに見える。御髪下ろしになると思っていたのか、髪結に甘んじている葵を見て態度をころりと変えた者は普通にいた。


 顔を上がると、中園は一段高いところに座っていた。御簾こそ下げられてはいないものの、直視できないほどに輝いていた。田舎者の葵がどれだけ努力しようと手に入らない美しい髪と美しい肌。彼女が持つのは学力だけではない。美貌が武器なのだ。その美貌を作り出すだけ財力が実家にはあることがこれだけでわかる。これが、東野に住む左大臣様を虜にするのだろう。


「私も左大臣の殿も、帝や中宮様はもちろんのこと、関白様や惇子様と親しくさせていただいておる。先日も、惇子様のご実家のお屋敷へと呼んでいただき、中宮様を支えましょうと藤本家の皆様とお話しした。私がついておるゆえ、そなたは何も心配することはない。仲良くいたしましょうぞ」と中園はにこりと笑うと、扇で口元を隠しつつ、その目はしっかりと葵を凝視していた。


 これは勝てない、と葵は思った。そう、もはやどこにも勝ち目がない。全てにおいて。洗練された所作、高級な絹、醸し出す雰囲気。これが家柄の格の違いというものか。


「畏れ多いことでございます」と葵は頭を下げると、その場から下がった。


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 序列30位以上の御髪下ろし様方は優しい。皆、笑顔で話しかけてくださる。


 でもその優しさの奥に、何かと戦っているような恐ろしさがある。何と戦っているのか実態はわからない。序列か、寵愛か。美しさなのか、権力なのか。実態とないものと戦うのは怖い。ここは伏魔殿だ。


 3位様の部屋は一階の正殿近くにあった。中宮様のお部屋や大広間のすぐ近くである。権力を持つのも当然だ。やり取りが容易だからだ。


 3位様の部屋は他の部屋と比べて重い空気を纏っているかのようだった。どこか世と隔絶した世界だ。心臓が持たないような恐ろしさを感じる。

 

 葵が部屋の中へと入ると、3位藤本様は御簾を下げられていた。御簾から僅かに見える唐衣は、金色の糸で菊をあしらわれた漆黒色だった。3位様は御簾の向こうで、大きな扇で顔を隠していた。髪結には姿を見せられぬという意思表示だ。


「こちらにおられるは、3位藤本惇子様である」と3位様づきの第一女官が言った。


 葵は少々驚いた。


「不束者ではございますが、なにとぞご指導のほどよろしくお願い申し上げます」と葵。

 

 それでも3位様は一言も話さなかった。葵は居心地の悪さを感じた。そういえば、御簾の奥であえて扇を開くのだろう。もう十分顔など見えないというのに。そういうしきたりでもあるのだろうか。


 ちらりと控えの女官を見た。何かを話そうとしない。まるで早く帰れとでも言っているかのようだ。


「失礼いたします」


 あれでは何を考えているかも、どのような人物かもわからない。できるだけ関わらないようにしようと、葵は誓った。



 

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