1の2 序列の発表
翌日の就業間際、浅見が噂話を持って総務室へと戻ってきた。
「どうやら、3位様は、記憶喪失とのことです」と浅見は扇で口元を隠しながら言った。
「記憶喪失!?」
「しー!3位様付きの女官は伏しておられるそうですよ。どうやら関白様のことさえもお忘れとのことです。それを関白様がたいそうお嘆きになられ、夜もずっと付き添われて看病しておいでとか」
「あら看病?本当に看病なのかしら?」と女官はクスリと言った。
「いえいえ、それが本当なそうですよ。心を解きほぐすために、一から思い出を作り直そうとまで仰られたとか」
きゃー、と女官たちは歓声をあげた。葵は仕事に集中できず、頭を抱えた。
そこへ、赤石まやが訪れた。
「あら赤石殿」と葵。
「田上殿、青山様が呼んでおります」
「青山様が……?」と葵は眉を顰めた。
青山は総務長だった。まじめで仕事に厳しく、少しの誤りも許さない人だ。田上は不安な気持ちで、総務長室へと向かった。
総務長室は、大部屋の一角に個室として与えられていた。
「田上葵にございます」
「入れ」
葵は御簾を開け、中へと入った。
上座に座る青山が葵に差し出したのは、白い小さな折りたたまれた紙だった。
「これは」と葵。
「試験の結果です」と青山は言った。
「試験?」
「先月、ちょうど行われたでしょう。その結果です。序列の発表です」
一年に一度、身分を決める試験が行われる。そのため、いつなんときも、勉学に勤しまなくてはならず、油断ならなかった。身分が安泰ではないのは、帝も中宮様も同じことだった。ただ、特に帝の金山悠生は大変優秀で、右に出るものはいないと言われている。そのため金山朝は安定し、権勢をほこっていた。
いつも序列が発表される際は、作業台の上に文が届くだけである。そのため、このように、総務長に呼び出されるのは初めてだ。嫌な予感がした。
葵がおそるおそる紙を開けた。そこには28という数字が書かれていた。
「28位?」葵は状況が読み込めなかった。
「そうです」
「御髪下ろしとなる……?」
「そうです。あなたはお部屋を与えられ、御髪下ろし様となられるのです。女官ではなくなり、主人となるのです」
葵は突然のことに呆然とした。確かに手応えはあった。しかしまさか、30位よりも上になるだなんて思ってもみなかったのだ。
「きたる来週、部屋入りの儀を行います。それまでに各御方へのご挨拶を済まされること。また指南役の……」青山はしきたりや儀式に関して一通り説明していたが、何も頭に入ってこなかった。
「聞いておりますか?」と青山は厳しい口調で言った。「ですからよろしいですね?」
「は…はい?」
「もう。ですから、あなたが28位になったということは、誰かが髪結に落ちたと言うことです。そしてそれが誰なのかはすぐにわかるということです。あなたも同じなのですから、あまり驕らずに、謙虚になさること。髪結に落ちたことで精神を病んだものを、私は何度も見てまいりました」
「ご忠告感謝いたします」
大部屋に戻ると皆下がっており誰もいなかった。急に部屋が小さく感じられた。
帰り支度をして、葵は大部屋を出た。
御髪下ろし様方が住まわれる新館は、その名の通り新しく綺麗だ。歩くだけで心地のいい気分となる。
廊下では東野の殿方の下人に言い寄られ、空き部屋へと入っていく髪結の女官たちがいる。
御髪下ろし様のお部屋からは、男の声が聞こえてくる。
こういった男女の仲に葵は縁がない。興味がないからなのか、魅力がないからなのか、あるいは髪結ゆえかはわからない。こちらの新館の世界はまるで異世界のように思える。
旧館と結ぶ渡り廊下まで差し掛かった。通称魔の廊下と呼ばれる廊下だ。旧館は髪結しか入れない場だ。高貴な方は訪れることはない。毎夜、葵はこの古く暗い旧館まで下がっている。
魔の廊下へと差し掛かり、ふと振り返った。新館での暮らしはどのような世界が見えるのだろう。たった、ほんの20歩ほどの狭い渡り廊下。それでも見える世界がまるで違う。
葵が寝間へと下がると、髪結たちの間で噂はすでに回っていた。
「おめでとうございます!」と浅見は笑顔で言った。
「ありがとうございます。お側仕えの女官を2人選べるそうです。よろしければぜひ」と葵は浅見に言った。浅見は常々総務など辞めたいと言っていた。
「良ろしいのですか」と浅見。
「ええ、心強いです。それに、赤石殿も」と葵。
「はい」と赤石は笑顔で言った。
寝間は大部屋で15人が雑魚寝をしているような環境だった。200人全員を収容できそうな大きな部屋はあったが、なぜか全く使われていない。
髪結たちの住む旧館は古いつくりだった。壁は薄く、長年の劣化で傷ができており、時には雨漏りもする。隙間風も多く、寒がりの葵は冬になるとよく風邪をひいた。
寝ようとしても誰かに蹴られることはしょっちゅうだ。あるいはいびきや寝言の音でまるで眠ることができない。
その生活から次の試験までのしばしの間離れられるのはいいかもしれない、と葵は思った。
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