第1章 下級女官葵、高貴な身分となる

第1巻 欠けたることも〜見上げた月は〜

「美しい望月ですこと」


 葵の同僚、浅見が総務の仕事部屋の御簾を少しばかり開けて、夜空に浮かぶ月を見上げた。


「ほんと美しい月ですね。にしても、もうこんな刻ですか」と葵は御簾からちらりと外を見た。薄暗い空にほんのりと明るい月が浮かんでいる。


 浅見はちらりと葵を見た。


「いつからですの?」と浅見。


「いつからとは?」と葵。


「その、何と申しますか、裳をおつけなのは」と浅見は無表情のまま言った。


「まぁ、浅見様なんてこと」と女官の1人は言った。


「裳着の儀のことでございますか?」と葵。「さぁ、いつのことでしたでしょう。幼かったですので」


「そうですか。牛車はいつからお使いで?」と浅見。


「牛車?さて、物心ついた頃にはすでに……」


「物心がついたころ」と浅見は確認するように言った。そうですか、と浅見は言って外を見た。


 多くの牛車が車寄せに立ち並んでいた。そこから殿方がいそいそと降りている。


「田上様、もう夜も遅いですし、そろそろお仕事を切り上げられては?東野の皆様方を見たくはございませんでしょう」と浅見。


 東野に住む殿方は、夜になると西丘に住む御髪下ろし様方の元へと通いにきていた。


 田上葵は70位の髪結。帝の住む東野との連絡役である表使いという仕事を与えられ、大部屋で総務として働いていた。東野の殿方が訪れることはないことをいいことに、いつも夜更けまで働くこともしばしばだった。


「あら逢瀬を見たくはないですって?あなたがお顔を見られたくないのでは?浅見様はいち早くおあがりになりたいのでしょう。東野の下人の足をお揉みにでもまいりますの?」くすっと近くにいた女官が言った。


 浅見は一瞬眉間に皺を寄せた。


「田上殿!」


 廊下から怒鳴り声が聞こえた。中宮様付きの第一女官31位浦安様の声だ。葵は急いで廊下へと出ていった。


「浦安様。なんでございましょうか」


「それで、東野からのお返事は?」と浦安様は言った。


「今待っているところでございます」と葵。


「待っている?私がお願いをしてからもう3日も経つではありませんか。催促なさられよ!」と浦安はものすごい剣幕で凄んだ。


「申し訳ございませぬ」


「申し訳ない、ではなく、やるのです。今すぐに」


「はい」


 浦安は怒りを抑えきれぬ様子で帰っていった。


「どうなさられたのです?」と浅見が廊下に出てきて言った。


 他の総務の女官たちもわらわらと集まってきた。


「中宮様の元へ、帝の御渡りがないのです。お風邪でも召しておられるのではないかと、中宮様がご心配なされないか不安だと。それゆえ帝のご体調を調べよと浦安様が」


「まぁ浦安様とも思えぬご判断ですこと。御渡りがないのはお風邪ではありますまい。中宮様が……」と女官。


「しっ、聞こえます」と浅見が言った。


「浦安様のお声は中宮様のお声と同義です。本当は中宮様が調べよと仰っているのでしょう」と葵。


「それにしてもなぜ御渡りがないの?」


「他に女子がいるのでは?」


「あら、帝は東野からほとんど出ないとのお噂よ。女子に興味がないのよ」


「あら16というお年頃なのに?」


 女官たちが囃し立てた。


「控えよ」


 その太い声で一斉に髪結たちが怯える様に頭を下げた。目の前にいたのは、紺の上着を着た御髪下ろし6位中園様だった。


「6位様」と髪結の女官たちは一斉に口にした。


「中宮様のお噂を立てている様に見受けられたが」と中園。


「その様なことはございませぬ!」と女官の1人が言った。


「ほぉ。そんなことはないか。しかし私は全て聞いておったぞ。御渡りがないことを噂するとは、なんたる不敬なことか!」


「あいすみませぬ」


「関わるものは処分せねばなるまい。1人ずつ名を申せ」


「やめよ」といったのであろうか。小さな声が遠くから聞こえてきた。


 中園が振り返った先にいたのは、3位藤本様だった。


「惇子様!しかしながらこのものらは……」と中園。


「愚痴の一つや二つくらいで。それにあなたの愚痴ではない」と藤本。小さくも美しく声だった。


 惇子様!と後ろから3位様付きの女官たちが走って駆けてきた。惇子様はご病気ですから、さぁお部屋へ帰りましょうと皆口走り、女官たちは3位様を半ば強引に、階段の下へと引きずっていった。


「惇子様がお優しい方で助かったな」と中園は鋭い視線を投げかけると、その場を去っていった。


 中園は、私のことを覚えているだろうか、とふと葵は思った。


 かつて中園と葵は大学寮で同じで、西丘に入るために切磋琢磨しあった仲だった。あの時、葵は1番の秀才であったが、今ではずいぶん差をあけられている。


 悔しくない、と言えば嘘になる。今ではもはやお顔も簡単に拝せない。大学寮の頃は、いつかは中宮になると励んでいたというのに。


「階段……?」と浅見は藤本が連れて行かれた先を凝視しながらつぶやいた。


「何か?」と葵。


「いえ、なんでもありません」と浅見。


「3位様はご病気なの?」と女官の1人がつぶやいた。


「関白様は今宵も3位様の元へお通いと聞いているけれど」と別の女官が言った。


「まぁ、助かったのだし、よかったではないの」と浅見が言った。


 それにしても藤本も中園も、まるで月の光の様に美しかった。噂する女官たちとはまるで、色が違っていた。

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