第1巻 欠けたることも
「美しい望月ですこと」
同僚の浅見が夜空に浮かぶ月を見て言った。
「もうこんな刻ですか」
葵は驚いて言った。田上葵は70位の髪結ではあったが、誰か付きの女官というわけではなかった。表使いという仕事を与えられ、大部屋で総務として働いている。
「田上殿!」
廊下からひどい剣幕で叫ぶのは中宮様付きの第一女官31位浦安様であった。浦安に呼ばれ、葵は急いで廊下へと出ていった。
廊下に出ると、遠くに黒い唐衣を着た3位様の後ろ姿を見かけた。3位様を見るのは久しぶりのことだった。
「どこを見ているのです田上殿」
「もっ、申し訳ございません」
「それで、東野に連絡はされたのですか」と浦安は冷たい声で言った。
「今返事を待っているところでございます」
「帝がお風邪をひかれたのではと、中宮様はたいそうご心配あそばされているのです。催促されよ!
そういうと浦安はまるで十二単を着ているとは思えぬ素早さで、去っていった。
大部屋に戻ると浅見が田上に同情を寄せた。
「さっき3位様をお見かけしました」と葵は話を変えるように浅見に言った。
「あら3位様はよく見かけますよ。最近、関白様が頻繁に3位様の元においでとのこと。これで3位様とお元気なられるとよろしいのですが。一方で、こよところ見かけないのは中宮様です。あれだけお部屋で伏せっておいででは、帝が御幸なさることもございますまいに」浅見は小声で言った。
そこへ、赤石まあやが現れた。
「あら赤石殿」と葵。
「田上殿、青山様が呼んでおります」
青山は総務長だった。まじめで仕事に厳しく、少しのミスも許さない人だ。田上は不安な気持ちで、総務長室へと向かった。
総務長室は、大部屋の一角に個室として与えられていた。上座に座る青山が田上に差し出したのは、白い小さな折りたたまれた紙だった。
「これは」と葵。
「試験の結果です」と青山は言った。
葵がおそるおそる開けると、そこには28という数字が書かれていた。
「28位?」
「そうです。あなたは御髪下ろし様となられるのです。きたる来週、部屋入りの儀を行います。それまでに各御方へのご挨拶を済まされること」
魔の廊下をわたり、寝間へと下がる頃には噂はすでに回っていた。
「おめでとうございます!」と浅見は笑顔で言った。
「ありがとうございます。女官を2人選べるそうです。よければぜひ」
「良いのですか!」と浅見。
「ええ、心強いです。それに、もしよければ、赤石殿も」
「はい」と赤石は言った。
寝間は大部屋で15人が雑魚寝をしているような環境だった。ここよりももっと大きく200人全員を収容できそうな部屋はあったが、全く使われていなかった。髪結たちの住む旧館の校舎は古く、夜になると肌寒い。寒がりの葵は冬には風邪をひくのが毎度のことであった。
次の日から葵は挨拶回りを行った。30位様の部屋は最上階4階の奥の部屋だった。簡単に行く方法はあったが、そこに行く階段は、帝と中宮とその従者しか使用を許可されていない。そのため、迂回して部屋へと向かった。
葵は、部屋の外で控えている女官に、取り次ぎをお願いした。女官はいったん部屋の中に入り、30位の許可を取ると、「どうぞ」と言って、葵を部屋に通した。
葵は下座に座ると、三つ指をついた。
「まあそうかしこまらず」
そういうと30位様は一段上になっている上座から下座へと降りてこられた。薄桃色の唐衣を着たお優しいそうな方だ。
「これからは私よりも上位の方。初めての御髪下ろしは不安も多いでしょうが、何かあれば頼ってくださいませ。私は29位になります。部屋もお隣です」と30位様は言った。
「何か、心がけておくべきことはあるでしょうか」と葵。
「そうですね、御髪下ろしになったということは、髪結に落ちたものがいるということ。それと、華の会にはお気をつけを」
「華の会?」
「3位様による仲良し集団です」と30位様は声をひそめていった。
「3位藤本様、6位中園様を初め、髪結にもその勢力のものがいると言われています。中の宮様でさえ、気を遣っておられるのです。目をつけられないよう、息を潜めるのが1番です」
「ご忠告恐れ入ります」
挨拶回りを順調に進んだ。緊張したのは6位様だった。6位様は華の会の中でも3位様に次いで権勢を誇っていると、30位様が仰っていた。そして、何より葵は6位様と幼少期からの知り合いだった。
「まあそうかしこまらずに、寺子屋からの仲ではありませんか!」
西丘の試験を突破するための寺子屋がいくつか存在した。葵は幼少期、地元から牛車で2時間かけ、わざわざ西丘近くの寺子屋まで通っていた。6位様はその同じ寺子屋の出身だったのだ。あの頃は葵の方が賢かったため、少々気まずく感じた。
余談だが、この西丘に住むために、試験を突破しない方法はないわけではない。部屋の前で控え取り次ぎを行うもの、調理を行うもの、掃除を行う者は、外部から雇っている。
「仲良くいたしましょう」6位様はにこりと笑った。
3位様の時はさらに緊張をした。3位藤本様は御簾を下げられていた。御簾から僅かに見える唐衣は、金色の糸で菊をあしらわれた黒だった。3位様は御簾の向こうで、大きな扇で顔を隠していた。髪結には姿を見せられぬということだ。
「こちらにおられるは、3位藤本ゆうひ様である」と言ったのは、3位様づきの第一女官だった。
「不束者ではございますが、なにとぞご指導のほどよろしくお願い申し上げます」と葵。
3位様は一言も話さなかった。葵は居心地の悪さを感じ、そのまま退散した。あれでは何を考えているかも、どのような人物かもわからない。できれば関わらない方が良いということは十二分に理解することができた。
御髪下ろし様方も、身分が上がると、試験を受けてもあまり順位が変動しない。皆、地位を守るために必死に勉強をしているのだ。
さて、2位様は尼様だった。そのため、みな、二位尼様と呼んでいた。二位尼様は試験を受けられることはない。しかし、なぜか西丘への居住が許されていた。つまり、3位様というのは実質2位の成績を残していることになる。
二位尼様の居室は地下にあった。行ける階段はただ一つ。この階段は1から4階までは前述の通り、帝と中宮、その従者しか仕えない。しかし、1階から地下1階までは使うことができた。
二位尼様の居室は大変大きかった。二位尼様付きの女官も他の人に比べて多い。
二位尼様はその大部屋の奥の上段に座布団を敷き、座っていた。そしてもちろんのこと、御簾を下げられていた。
「昨夜の月は見られましたか」二位尼様は雑談から入った。
「ええ、きれいな望月でございました」
「葵さんは70位から28位まで上がられたそうですね。よく精進なされたのでしょう」と尼様は優しい口調で言った。
「恐れ多いことでございます」
「私は世を捨てた身、うつせのことなど関わりのないこと。ただあなたが苦労をしないかだけが心配なのです。何かあればいつでもご相談を」
葵は深々と頭を下げた。もちろん、葵だけでなく、誰にでも言っていることなど容易に想像できた。優しいが、物理的距離も精神的距離も遠く感じた。二位尼様はお部屋を出ることが少なく、またお付きの者も多くを語らないため、葵は今回初めて二位尼様が確かに存在していることを確認することができた。
さて、いよいよ中宮様となった。中宮様の居室は正門に一番近いところにあった。大部屋だった尼様とは違い、中宮様としては狭すぎる居室に住まわれていた。
葵が中宮様に面会を求めると、お付きなものは、部屋の中に入って、出てこなかった。葵は居室の前で何時間も待った。そしてやっと面会が許されたかと思えば、御簾の中に几帳があった。おそらく、さらにその奥に中宮様がおられるのであろう。几帳からはわずかながら、長い黒髪と、紫色の唐ころもの先が見えた。
下段では、御簾の前で浦安が怖い顔をして控えていた。中宮様も藤本様同様、葵の挨拶に対して一言も発することはなかった。
葵は一週間、御髪下ろしとしての作法や、東野の宮中行事について習った。そしていよいよ部屋入りの儀当日となった。
慣例として中宮様がくだされた、赤の唐ころもの十二単を着て、金色の大きな扇を開いて顔を隠した。葵は、緊張の面持ちで魔の廊下を渡ったのだった。
28位の部屋は4階の奥にあり、正門からはほど遠かった。部屋には下段と上段があり、葵は上段へと座った。
上段には御簾がつけられていた。座布団の奥には几帳が置かれ、そのさらに奥が寝所となっていた。
下段には、浅見と赤石が控えた。
早速、29位様(挨拶周り時30位)が挨拶に来た。面会したときと同じ、淡い桃色の唐ころもだった。
「無事のお部屋入りおめでとうございます」
29位様は下段で挨拶の言葉を述べた。
「わざわざのご挨拶、恐れ入ります」
29位様がこれを、というと、お付きの女官に何かを運ばせた。赤色の西陣織だった。
「このような高価なもの」
「お納めくださいませ」
そういうと29位様は部屋へと戻っていった。
夜になると、東野にて金山悠生の再即位を祝う宴が開かれた。金山は大変優秀で、帝の地位を守り続けている。その権勢はとびぬけており、東野の者たちはもはやあきらめの境地にまで達していた。
葵も御髪下ろしの1人として宴に参加した。28位のため、かなり下座だった。葵は宮中行事は初めてで緊張したが、隣には29位様がいたため安心することができた。
御簾を挟み、中庭には舞台が設置されている。そのさらに向こうには、東野の貴族たちが一同に介していた。東野の貴族たちを見ては、御髪下ろし様方は容姿や性格を噂しあっていった。
西丘の御髪下ろしで来られていないのは二位尼様だけであった。二位尼様以外は参加を義務付けられている。欠席すれば、謀反を疑われかねない行事だ。
舞台の正面の上座に、帝と中宮様がおられた。しかし、上座はあまりにも遠い上に御簾で隔てられており、葵はその様子を伺い知ることはできなかった。
特段面白くもない神楽を見て、葵は昔のことを思い返していた。思えば葵は寺子屋で一番の成績を収めていた。しかし、今となってはやっとのことでこの地位だ。西丘には理屈で説明できない天才で溢れている。そして、東野にも。
帝の金山悠生を葵は知っていた。寺子屋の時、いつも葵に継ぐ成績を取っていた人だ。今はその表情さえも伺えないが、葵はその幼少期の顔をしっかりと覚えていた。
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