第一章 エピソード1 〜日常の崩壊〜

一日目。

私はいつものように執筆の仕事がひと段落したため、幼稚園へ子供を迎えに出向いた際、事が起きたーーーー。



俺は五十海 佑弥いかるみ ゆうや35歳。

十年ほど前から小説家として活動している。かと言って別に裕福な方ではない。大切な一人娘、莉咲りさと二人で埼玉県の小さな町で暮らしている。自然の少ない、東京よりの埼玉だ。仕事柄わざわざ出社しなくてもいいので、本当はもっと緑あふれる郊外に家を買うつもりだった。だけど、莉咲や妻(五十海 はな)いかるみ はなとの思い出が沢山詰まっているこの土地で腰を据えることにした。


俺はノートPCから目を離し、その傍らに置いてある煙草の箱に手を伸ばした。中から一本手に取り、フィルターの面をデスクに向けた。トントンと軽くノックした後、煙草を口に咥える。即座に灰皿の側のマッチに火を点け、煙草に移し初煙を愉しむ



すぅー…。ふぅー…。



口鼻腔に広がった煙草の香りを口から吐く。

マッチで点けた煙草の最初の一吸いだけが俺の心を落ち着けてくれる。煙を肺には入れない。肺に入れるのは早死にを招くだけだ。煙草は香りを愉しむものであって寿命を削るなんて愚の骨頂だ。


妻は五年前、莉咲が生まれた時に死んでしまった。出産で弱ったところに新型のウィルス疾患に感染してしまい、そのまま衰弱して死んだ。


俺に妻の死を嘆く時間なんて無かった。幼い娘のために妻の死を誰よりも早く乗り越えた。乗り越えるしかなかった。その代わり煙草の本数は以前よりも増えた気がする。


え?煙草は娘の教育に良くないだって?

それに関しては心配ない。煙草を吸うのは執筆の時だけだ。それに、仕事部屋に娘を入れることはしない。娘が帰ってくる前に換気し、ハブリーズで消臭も完璧。風呂に入ってしまえば痕跡は残らない。

…それより、人の教育事情に口出しする前に、いっぺん大事な人を失ってから意見しろやクソが。


誰に言うわけでもなく、ショートコントの様な自問自答をする。きっと俺はまだ妻の死を乗り越えられてないのかもしれない。「まだ」五年しか経っていないのだから…。


ノートPCの横にある妻の写真に目を向ける。そこには、向日葵のような笑顔で笑う妻と、ぎこちなくニヤけてる俺が写っている。この時は、今の幸せがずっと続くものだと思っていた。だが、別れはあまりにも突然だった。



「また会いてぇなぁ…。はな…。」

ギリギリ自分でも聴こえるかどうか、溜め息のような声で呟き、そっとノートPCに向き直す。


俺はいわゆる、サスペンス・ミステリー作家だ。殺人現場に残された手がかりで学者である主人公や彼の協力者達がなんやかんや犯人を見つけて捕まえる系のジャンル。今は植物学者が活躍する推理ものを書いている。十年ほど前から続いている学者シリーズである。


当時売れてなかった俺に、まだ「彼女」だった妻がくれた小さなアドバイスをきっかけに〇〇学者シリーズが生まれた。緻密なトリックを専門分野の知識や現象、道具などを駆使しながら謎解いていくこの爽快感が大衆にウケたのか、大ブレークした。


俺は、題材になる学者のところに何度も何度も取材に通い(多分相当ウザがられていたに違いない)、年に一、二本ほどのペースでシリーズを出した。今作が十五作目で、ちょうど先週植物学者への取材を終えて執筆に至っている。

話は少し変わるが、今シリーズの凶器はチョウセンアサガオかスズランもしくは少しマイナーなニチニチソウにしようかと思う。


煙草を一吸いし、ふと時計に目をやる。


「やば。15時過ぎてるやん。」


えせ関西弁を吐き捨て煙草の火を消した。換気扇を回して、煙草の後処理を慣れた手つきで行う。玄関に用意してある外出用のリュックを背負って自宅を後にする。


しばらくママチャリを走らせていると、楽しそうにはしゃぐ子供たちの声が聞こえた。莉咲の通っている三つ葉幼稚園だ。ここの幼稚園は自宅からさほど離れていない為、自転車で送り迎えをしている。(こうでもしないと運動をしないので自分で追い込んでいくスタイル)

子どもたちのキャッキャという歓声が少しずつ近くなる。

幼稚園の門の前まで来たところで聞き覚えのある声が響いてきたので、門の傍で立ち止まって聞き耳を立てることにした。


「ねぇねぇー。りさちゃんちのパパって、ごほんかいてるんでしょ?」


莉咲の友達であろうか、真っ赤なほっぺでおかっぱ頭の女の子が言った。


「そーだよ!あたまのいい、(がくしゃ)っておじさんのほんだよ!」


この子が俺の愛娘の莉咲。少し色素が薄く、栗色のお下げ髪に、妻に似た整った顔立ち、目元やや垂れ目で、目の色は俺のにそっくりな濃いこげ茶色。左目の小さな涙ぼくろがチャームポイントだ。


父親が褒められたことに対して、莉咲はあたかも自分が本を書いてるかのように、えっへん!と自慢げに胸を張って答えた。しかし、お友達から帰ってきた言葉は俺の予想の斜め上だった。


「えー、へんなの。おじさんのごほんなんてつまらないよ。おはなとかユニコーンのごほんのほうが かわいいよ。」


ごもっとも。でもねマイドーターズ・フレンズ、莉咲ちゃんパパもね「おじさん」のご本なんて書きたかないのよ。出来る事なら、お花とか、お尻から虹色のうんちが出るユニコーンが狂喜乱舞するお話を書きたいさ。でもね世の中の汚ーい「おじさん」たちは、頑張る架空のおじさんのお話の方が読みたいんだってさ!

なんてことを考えていると…。


「そんなことないよ!たしかに…おじさんのおはなしだけど、おはなのせんせいなんだって!こんどパパにもってきてもらうね」


父親の仕事を否定されても不貞腐れることなく、怒る事もなく。なんなら宣伝してくれている。我が子ながら、なんてできた子なんだろうかと関心すらしてしまう。


「ええ!?おはなのせんせい!?るみも、おはなのせんせいになりたい!!」


るみちゃんって言うのか…マイドーターズ・フレンズ。その気持ちを忘れずに、ぜひ頑張ってくれ。


二人のやりとりを見ていると、莉咲の振り向き様に目が合った。


「あっ!!パパだ!!」


満遍なくの笑みでこちらに向かって走ってくる。なんと愛くるしい生き物なのだろうか。本当に我が子かどうか疑ってしまうレベルで可愛い。


「おー。莉咲、迎えに来たぞ。いい子にしてたか?」


走ってくる勢いで莉咲は俺に抱き着き、俺はくるっと回りながら抱き上げる。


「うん!いまね、るみちゃんとパパのおしごとのおはなししてたの!」


「そうなのか、お友達と楽しく遊んだようだな!パパは帰る準備をするからお友達とちゃんとお別れしてくるんだぞ!」


うん!と大きくうなずいてから、とてちてとお友達や先生のところへあいさつに行く。うちの家訓…ってほど仰々しいものではないが、挨拶…、とりわけお別れは徹底している。理由は言わずもがな分かるとは思うが、いつ今生の別れが来るか分からないからである。


荷物をまとめた俺は莉咲を抱えママチャリの荷台(チャイルドシートを取り付けた)に乗せる。


「りさちゃんバイバーイ!」


「るみちゃん!またあしたねー!」


ママチャリを漕ぎ出してもまだ、るみちゃんのバイバイが聞こえる。それに応えるように莉咲も手を振る。


途中、商店街によって夕飯の買い物を済ませた。今夜はカレーにしようと莉咲と昨日決めた。前籠の袋からはネギが顔をのぞかせている。これはお味噌汁用だ。




土手を走っていると、夕日に照らされた川の小さな波紋が光を反射させキラキラと輝いている。この何気ない日々が本当に愛おしい。他の人から見たら何でもない一日かもしれないが、なんでもない毎日が送れる事こそ本当に幸せであると、はなが命を懸けて教えてくれた。


ずーっとまっすぐな土手の道。風を全身で感じる。夕日の光。莉咲の歌声。袋が風に揺られる音。自転車のチェーンの音。川の流れる音。何処かの中学校から聞こえる吹奏楽部の合奏。前から誰も来ないのを確認して、少し目だけを閉じて深呼吸をする。環境の一部になるのを感じた。体感にして一秒程度だっただろうか。その間、自転車は前に進んでいく。ふと目を開くと…。


「…っ!?」


何が起きている。俺は白昼夢を見ているのか!?先ほどまで感じていた環境は一瞬に消滅。打って変わって暗闇が俺達を襲った。

湿った草の匂い。薄暮独特の冷たさ。木々の騒めき。複数カラスの鳴き声と羽ばたく音。薄気味がわるい。


ここはいったいどこ…、いや、どのようにここに来たのか。疑問は深まるばかり。いけない、いけない。まずは莉咲の安否確認が先だ。夢中で漕いでいた足を止め、ブレーキを握りしめた。止まったのを確認もせず、すぐさま振り向いた。


「りさ…。莉咲っ!?おい!!」


いない。チャイルドシートには誰もいない。さっきまで幸せを一緒に噛みしめていたというのに。たった一瞬で空虚に変わった。絶望に変わった。

俺の娘はどこにいる。


「りさああああああああ!!どこだあああああああ!!」


場所を変えてまた叫ぶ。


「りさああああああああ!!」


喉が痛い。いや、喉がつぶれたっていい。

俺はどうなってもいい。誰でもいい。助けてくれ…。


「りさああああああああああ!!パパはここだあああああああ!!」


目が暗闇にやっと慣れてきた。どうやらここは森の中のようだ。とても深い。空の星以外は闇。右も左も闇。自転車のライトだけでは何も照らすことはできず光が闇に呑まれていく。目的地は無いが漕ぎ続ける、莉咲を見つけるまで。莉咲を見つけ出すことが最優先事項だ。俺はリュックから小型懐中電灯と十徳ナイフを取り出し近くの木を照しにx印をつける。印が刻まれたことを確認すると、自転車を漕ぎだす。幸い自転車は電動であるため悪路でも力いらずでどんどん森の中深くに進むことができた。


「りさあああああぁぁ…。どこ…だょぉぉ…。」


その後、二時間近く探した。途中小川を発見したため少し休憩をとった。買い物袋の中からホカリ・スウェットを取り出し乾いた喉を潤す。


「…っつ。」


ホカリが喉に染みた。それもそのはず、先ほどから叫びっぱなしだ。自転車は悪路に耐え切れずパンク。自転車には申し訳ないが酷使してしまった以上、当然だ。


それからしばらくは動けずにいた。情けない。あまりの悔しさに涙を流した。夜の静けさが余計に俺の不安を煽る。なんて無力なんだ…俺は。また大切なものを奪われるなんて思っていなかった…。こんなにも不幸は重なるのか…。


「なんで…。なんで、俺から全部奪うんだよ。俺がなにしたってんだよ。」


絞り出すような声で、無に八つ当たりをする。

だが、当然のように無から返事はない。

もし…。もしもだ、本当に神がいるのなら莉咲だけでも返してくれ。俺が差し出せるもであればなんでもやるから。お願いだ…。


「グス…。お願いします…ゥゥ。ズズ…、莉咲を返して…下さい…。……かみ…さ…ま…。」


ただすがることしかできなかった、まだ見ぬ神に。いるかどうかもわからぬ神に。答えてくれる事を期待して、祈るように願った。


溢れてくる涙を抑えることはできなかった。何時間も泣いた。気が付いたらそのまま力尽きて眠っていた。



           ☻


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読んでくださりありがとうございます。

よかったら次回も、読んでみてください!




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