第16話 司馬騰の最期

 馮嵩ふうこうを破った汲桑きゅうそうと石勒の軍が、長躯してぎょうに攻め込むまで、そう長くはかからなかった。

司馬騰はこの飢えた蝗の群れのような軍勢を侮り、迎撃の兵を小出しにして対応にあたったが、それが誤りだったと気づく頃には、鄴はすっぽりと囲まれていた。

その誤りを正す方法が今やないと気づく頃には、賊軍は急拵えの不恰好な梯子でわらわらと城壁を登り始めた。

梯子を焼いたり、登ってくる敵を戟で突いたりといった防衛側の対応の速度を攻撃側のごり押しが上回ったとき、三国時代の奸雄曹操が発展させたこの美しい城邑の命運は決まった。

許褚きょちょが錦の戦袍せんぽうを追いかけた美しい庭園は燃え盛る炎に包まれ、曹植そうしょくが賦に詠んだ華やかな銅雀台は紅く照らされた。


乞活きつかつ、何とかせい!受けた恩を返さんか」


唾を飛ばして、司馬騰が命令するのは乞活と呼ばれる武装集団の頭目の一人、田甄でんしんだった。

乞活というのは、元は飢えた流民の集まりである。

文字通り司馬騰に命乞いをして食糧を分け与えられたことから、乞活と号している。

田甄でんしん達は、司馬騰の言わば私兵であった。


「事ここに至っては逃げるほかありますまい。御子息らも準備を!」


街のあちこちから、膾斬りにされる兵士の断末魔、暗がりで乱暴される女性の悲鳴などが響いている。

司馬騰はそれらを無視してーーそれらが無事であった時も無視しているも同然であったがーー鄴からの脱出を図った。

乞活に守られながら、妻子とともに軽騎で城門を脱ける司馬騰を、城壁の上から眺めている男がいた。

その編み込んだ長い髪は魚龍のようにうねり、四筋にわかれて街を焼き尽くす熱風にそよいでいた。

石勒の脳裏には自分を鞭打った奴隷狩り達の姿が蘇っていた。


ーーこれ以上商品に傷をつけたら司馬騰様のカンに触るかもしれませんよーー

ーー司馬騰様のカンに触るーー

ーー司馬騰ーー


「一度聞いた名前は忘れないタチでねぇ……。そんなに急いでどこへいく。お礼がまだすんでないぜ」


石勒は弓に矢を番えると強く引き絞った。

司馬騰の乗った馬は鄴の周囲に流れるいく筋かの小川にさしかかり、その速度を緩めた。


「奴隷にしてくれて、どうもありがとよ!」


放たれた矢は、馬上の司馬騰の首を貫いた。

落馬した司馬騰は虫の息で首の矢を抑え、混乱しながらそれを引き抜こうとした。

地面に転がって、塩を浴びた蛞蝓なめくじのように悶え苦しむ司馬騰。

長男の司馬虞しばぐから降りて助け起こそうとしたその時、土煙を挙げて騎影が迫ってきた。


「こ、公師藩こうしはん様の仇!死ねぇ!」


騎影の正体は、公師藩の腹心であった李豊りほうであった。

孔豚の求めに応じ、復仇のため軍に加わっていたのである。

李豊が戟を振りかぶると、司馬騰は口から血の泡を吹きながら言った。


「び、見逃じでくれるなだば、将どじで取り立でで……」


振り下ろされた戟が司馬騰の頭を断ち割り、血の煙が舞った。

司馬虞は父の死体を抱えて暫し呆然としていたが、やがて絶叫して李豊の馬の足に飛びかかった。

馬がいなないて暴れ出すと、李豊は小川に投げ出された。

馬に踏まれて肋骨の折れたらしい司馬虞は這いながら、小川でもがく李豊に飛びつき沈めようとする。

李豊もまた司馬虞の襟を掴み沈めようとし、そうして揉み合っている内に二人共が小川にしずんでいった。

残った司馬騰の妻子が混乱して司馬騰や司馬虞の遺体を回収しようと引き返すのを見て、田甄は舌打ちして配下の乞活とともにその場を離れた。

やがて、李豊の部下が至ると司馬騰の残る妻子も殺害された。

混乱の最中、鄴にいた諸々の名家らもまた尽く殺害された。

汲桑と石勒は食糧と財宝、婦女を奪い尽くすと鄴を捨てて侵攻を続けた。

二人の軍は延津から渡河し、南に進んで兗州に攻め込んだ。


苟晞が鄴を奪還した時、夏の盛りであったので、人々の死体は腐敗して半ば溶けており、司馬騰の骸を判別することは出来なかった。

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