第17話 壁の先

 ぎょうを擁する魏の東、平原と陽平の間では、汲桑きゅうそう石勒せきろく率いる軍と苟晞こうき率いる晋軍とが睨みあっていた。

既に散発的な戦闘の回数は三十回にも及んでいた。


「まったく、いつになったら決着が着くんだ。蚊がわんさかおるわ、あっついわで、もうウンザリだ……おい、てめぇ!もっと仰げよ!暑いつってんだろが!」


汲桑を巨大な扇で仰いでいるのは、鄴からむりやり連れて来られた壮年の官吏である。

官吏は扇を動かす手をおもむろに止め、そして放り投げた。


「そんなに厚着をしておいて何を言うか!暑ければ脱げ!盗賊風情が王様気取りで偉そうに、わしは鄴にこの人ありと謳われた……」


官吏が言い終わる前に、その頭は汲桑のぶん回した大刀に打ち飛ばされてしまった。


「お頭ぁ!なにをカリカリしてんのさ」


石勒は首を拾い上げると一番近くにいた兵に、埋めてやれ、と言って渡した。


「わからん。わからねぇ、俺には。俺にはな」


汲桑は頭を掻きむしって、吐き捨てるように言うのだった。


 汲桑や石勒と対峙している苟晞は、危機感を強めていた。


「汲桑とやらは凡将に過ぎぬ。しかしあの騎兵を率いる胡人は……」


やつは一回戦うごとに腕を上げていく。

このまま仕留められなければ、やがては私の能力を凌駕して致命的な事態を引き起こすだろう。

その時、伝令が駆け込んできた。


「苟晞将軍!官渡から援軍が到着いたしました」


「官渡だと?まさか、東海王陛下はそこまで来られているのか」


東海王の司馬越しばえつは官渡に進出し、弟の司馬騰の仇を打つべく、苟晞に大量の兵とそれを養い得る兵糧を送ってきたのである。


「謝礼は勝ってからとしよう、一先ずこれを…….」


苟晞は支援の全てを収攬すると、ある文をしたため使者を立てて送り出した。


 汲桑と石勒の軍は司馬越からの援軍を加えた苟晞軍の猛攻の前に遂に屈した。

一万人あまりもの死者を出して敗走する二人の前に、冀州きしゅう刺史しし丁紹ていしょうが立ち塞がった。

苟晞は逃走経路を予め読み、丁紹にそこへ布陣してもらうように使者を通じて知らせていたのである。

粉砕された汲桑軍はわずかな供回りと石勒十八騎を残して散り散りになってしまった。

運命と連動するかのように暗雲が垂れ込め、大粒の雨が降り出した。


「一旦、茌平しへいの牧場へ戻る。しばらくほとぼりをさましてから」


「駄目だ、お頭。すぐに見つかって殺される。それに、そっちからは、音が聞こえない。逃げる方角はこっちだ。こっちから角笛の音がする」


石勒はそう言って北東の方角を指差す。

汲桑は雨をかき散らすように手を振った。


「音だぁ?雨音以外なんも聞こえねぇよ!おめぇ、鄴に攻め入る時もそんなこと言ってたな。なんの話だ」


「俺はこまいときから、たまに角笛の音が聴こえる。それに向かって歩くと何かが起こる」


「何かってなんだ!いい事なのか」


「良い悪いはわからねぇ。ただ、今まではなにかしらの変化が起きたのは事実だ。今この時は変化がなけりゃあ死ぬ。俺を信じてくれ、お頭」


汲桑はふっと笑った。石勒にはその顔がなんだか寂しく見えた。


「わかった、わかったよ」


汲桑は、石勒が角笛の音が聴こえるといって指差した北東の方向を凝視する。

その先にある上党郡には何の知り合いもいない。

十八騎の間からもどよめきが起こったが、汲桑は静かにいった。


「いや、お前がそういうのなら、そうなんだろう。行こう。だが、お前と俺は別々の道で行く。どちらかが見つかっても、片方は助かるからな」


汲桑は石勒に十八騎と僅かな兵だけを渡し、自分はその他の兵を率いて進むと言う。

石勒は何か引っ掛かりを感じたが、結局は言われた通りにすることにした。

兵を分け、しばらく進むと丘陵に裂かれるように道が分かれた。


「おあつらえ向きだな。ここで、ひとまずお別れだ」


汲桑は馬上で腕を挙げると、石勒の腕に勢いよくぶつけた。


「小僧、死ぬなよ」


石勒は白い歯を見せて笑った。


「あんたこそ」


石勒と別れた汲桑はしばらく進むとしばし天を仰ぎ、そして急に踵を返して元来た道を戻り始めた。

動揺する兵達に汲桑は言った。


「俺はあの小僧の世迷言など信じない。茌平の牧場に戻って態勢を立て直す」


そういうことにしておこう。

あの小僧と出会ってから何もかもが目まぐるしく変化した。

楽しくなかったわけじゃない。

自分の元に大軍が集まったり、鄴の街を焼き払ったり、痛快だった。

なのに、俺は苛々していた。

何かが違う。

これは、俺のじゃない。

そう、俺の物語じゃあない。

真っ直ぐな目で角笛がどうこう言い始める石勒の姿を見て、やっと腑に落ちた。

何かに選ばれた凄い奴の話の中に、俺はいた。

いつのまにか、俺はあの小僧の物語に巻き込まれてしまっていたのだ。

どうりで疲れるわけだ。


「さて、ここいらで脇役は退場ってとこか」


目の前に砂塵を巻き上げて迫る軍があった。それは官渡で態勢を立て直し、復讐に燃えて追ってきた田甄でんしん率いる乞活きつかつであったが、汲桑には知る由もなかった。


ーー俺も、お頭も、その気になれば“壁”の先にいけるんだーー


熱っぽく話す石勒の姿が脳裏に蘇った。


「行けよ、小僧。壁のその先、もっと先に」



石勒が汲桑の死を知ったのは、彼が上党に辿り着いて後の事であった。

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