春のコーヒー
空空
ブラック無糖170ml(あたたかい)
今年の冬はずっと続いてくれるものかと期待していたのに、日差しは徐々に主張を強め空気を温めつつあった。
今日などはあからさまに春の空気だった。生き物の緊張を解く湿り気とぬるさ。鼻の入り口を凍えさせて肺まで冷えさす冬の空気は和らいでしまった。
春は、否応なく何かが変わってゆく季節とすり込まれている。学生時代のクラス替え、社会人になってからは入職や退職や配置転換。
そうでなくとも、これまで眠っていた虫が地面から這い出てくるのだから、生態系レベルの変化だ。肌で感じているのは変わる予感ではなく、現実に刻一刻と変わりつつあるのだという事実である。
『難しい顔をしているね、後輩くん』
頭の上に乗せられた缶コーヒー。170mlホットのおそらくは無糖だ。事務所の真横にある喫茶室でよく買う銘柄が頭をよぎった。
「先輩、おれの頭はサイドデスクではないんですが」
『そうだねえ、うむ、サイドデスクにしては些か高いものな、きみの身長は』
「高さの話ではなく」
『机にも我々にも立派な脚があるじゃないか、逆に机と人間の違いはなんだね?』
「人間は机じゃないっていう点が最大の違いっすかね」
なるほど、と大袈裟な感嘆詞を跳ねさせて先輩は背後から目の前に現れる。やわらかなサーモンピンクのカーディガン、よく着込まれている少ししわのついた白いシャツ、目を細めて微笑む麗人は目を引く美人だが、アルトより更に低い落ち着いた声音と古風な語り口が相手の素性を不明にしている。
『そうやって物事のややこしさを斬り捨てられるのはきみの美徳だな、さすが期待の新人くん』
「ところでこのコーヒーは貰っていいんですよね? 置いただけとか言わないでくださいよ」
頭上に手を伸ばし掴んだそれの栓を開けようとすると、先輩は底意地の悪い笑みを浮かべた。
『もちろんだとも、ただし、わたしの飲みかけで宜しければね』
固まる。
なにも宜しくないだろそれは。
しかし指先が触れたのはまだ寝たままのプルタブだった。未開栓。
「……先輩、おれ、実は転職を考えてるんすけど」
『いやいや、待ちたまえ、時期尚早にもほどがある。我が課にやってきてまだ一週間じゃないか、考え直して欲しい。デートでもなんでもしてあげるから』
「飯代をそっちが持ってくれるならいいっすよ。ナンのおかわりがお高めだけど美味い、駅前のカレー屋でお願いします」
『よし、きみが白い服を着てる日にしよう』
今度こそコーヒーを飲む。思ったよりもぬるい。まるで今朝、通勤中にかいだ早春の空気である。
こちらがコーヒーを飲むのを、さながら懐かぬ野良猫に餌をやりおおせた顔で見守る先輩と向き合い続けるのが気まずかったので、なんとなしに視線を事務所の奥へやった。鎮座しているひときわ大きなデスクはこの課の長である上司のものだ。
そういえばまだ今朝は姿を見ていない。そう思い至るのと、部屋のドアが開くのはほとんど同時だった。
(やあ、おはよう二人とも。今日はなんだか春みたいに暖かいね)
頭の中へ直接響くような声。振り返る。呑気な俺の背中に、先輩の驚愕した悲鳴が突き刺さった。
『課長! なぜそのお姿で』
その、お姿。
一瞥の途端に、脳味噌が熱を持った。旧式の機械に最新の情報を呑ませようとすると、処理が追いつかず、エラーさえ吐き出せないままショートするのと、おそらく似ている。
視認した情報を処理しきれない。
言うなれば、高次元の情報をこれでもかと凝縮したような姿だった。普段は児童向け番組に登場する無害なきぐるみのように簡単な姿だったはずなのに。
なだらかな曲線と鋭利な直角が同居している。曲線の後に直角があるのではない。曲線と直角が同時に存在している。
存在しているという言い方すら適当ではない。不在である。それと同時に確固として存在している。
叙情的でありながら冷徹に無機質で、温かみにあふれているのに、なにも感じられないくらい冷たく、絵画でありながら数式で、なんと完璧な不完全なのだろうか。
『ルーキーくん、しっかりしたまえ、認識阻害は間に合わないし、記憶改変には時間がかかるし……おい、目も閉じられないのか? それより課長、いつものアバターはどうなさったんです!』
(だって正気管理課の子が、今日はアバターのスイッチを切って仕事してくださいって言ったんだもの。駄目だった?)
『申し訳ない、課長。取り乱しました。お許し願いたい。もちろん、我らの課長に非はありませんとも。管理課にはあとで問い合わせます。それより、
コーヒーを飲む。
麗らかな春の日差しに息をついた。
傍らでしがみつくようにしていた先輩の矮躯を見下ろす。
「先輩、おれはなんともないっすよ」
『は? いやいや。なにか異変が起きている人が言う台詞だ、それは』
「おれより余程、先輩のが落ち着くべきじゃないすか。コーヒー飲んだほうがいいですよ。買ってきましょうか」
数秒の沈黙。
確かに課長の姿は一言で言うなら宇宙そのものだったが、どうということはない。宇宙の延長線上にある空を毎日見上げて暮らしているし、そもそも類似のなにかを見つけられる時点で、真に不理解な存在ではないと、おれの大雑把な理性は鎮まった。
囁くような感嘆符が課長か先輩か、どちらからともなく漏れた。
(さすが期待の新人くん。なんのプロテクトもかけてないんでしょう? ものすごく稀有で、有用な図太さだね。防御力の高さが光るなあ)
『本当になんともないのかね? そうだとしても、午前のうちに医務室へ行っておきたまえ。少なからず脳への負荷はあったはずだから』
(そうだね。ぼくはいつものアバターを再設定してくるよ。午前は自由行動でいいからね、騒がせちゃってごめんよ)
するり。有り得てはならぬ存在は楚々とその場をあとにした。先輩は丁重に課長を見送ったあと、管理課へ直談判してくると肩を怒らせ去っていった。
ひとり残された部屋の窓を開ける。
鼻先を掠めた春風。缶コーヒーはとうに冷たくなっていた。
春のコーヒー 空空 @karasora99
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