第46話 - 魔導研究院 水平眼

『あーあー。ざまあないねえ。ぜーんぶ、盗られちゃった。ねえ、レウ、どんな気分? やっぱり悲しい?』


 小悪魔リーリスが、レウに語り掛ける。

 脳内に棲みつく、呪いの具現。自身にしか聞こえない幻聴に近しいものだが、何故だかシャロには聞こえていた。

 その理由が、なんとなく、わかった。


 ――お前、シャロの一部だったんだな。だから、あいつにも聞こえてたんだ。


『えー、話そらしちゃうんだー。レウのいけず! ふふ、でも、そうだよー。私はあの子の、ちょっとえっちな部分の切り離し。いや、そういうのを認められない気持ちの具現かな? ま、表裏一体ということで』


 ――お前が、僕とシャロを、出会わせたのか。


『うーん。全部が全部じゃないよ。あそこであなたたちが出会ったのは、本当の偶然。でも、その時に、強烈な欲の匂いを感じたから、シャロにエロ本のほうを拾わせたのは本当。こーんなに強くなるとは思わなかったけどね』


 ――全く。そのせいで、こんなことになってるぞ。


『えー。だってしょうがないじゃーん。でもね、そんなに悪いことじゃないでしょ? 言っとくけど、私が介入したのはそのへんだけ。二人が抱いていた気持ちは、本物だから』


 抱いていた気持ち。

 白兎のような少女の手を引いて、死の街を駆け抜けた。

 共に騎士と戦った。

 命を救われた。

 口喧嘩も、和解も、くだらない冗談も、照れた顔も、短い間に色んな表情を見た。

 そうやって育んだ感情が、ハーヴィスの邪法によって、神を作る儀式とやらに持っていかれた。


『レウ。今、どんな気持ち? あなたは今、あの子のこと、別に好きでもなんでもないよね。今すぐ帰りたい? 後悔してる? 欲が満たされないなら、人間は動けないよね』


 小悪魔が囁く。空っぽの心をつついて、嘲笑う。

 レウが少女に抱いていた特別な感情を奪われたのであれば、戦う理由は何処にあるだろうか。

 単純明快で、無いはずである。ハーヴィスに許しを乞い、命だけでも助けてもらうことが望ましいだろう。

 なのに、どうしてだろうか。

 レウは、両目から、涙を流していた。


「ありがとうな。リーリス」

『レウ?』

「僕ァ、間違えてたよ」


 レウは、立ち上がった。涙をぬぐい、頭の中の小悪魔との問答を続ける。


「僕ァ、あの日から、全てが無価値なことが、水平の論理だと思っていた。だからあの日、自分だけ生き残ったことが許されると思ったんだ。でも、違うんだ。そうじゃない。それは、間違いだったんだよ、リーリス」

「……坊ちゃん。一度だけ、聞いてやる。二度は無いぞ。いいか、今すぐ、そこの扉から出て行くのであれば、俺は追わないでやる。お前のことは、買ってるんだ。大人しく、従えるか?」


 突如立ち上がり、何かをぶつぶつと唱えるレウは、はた目から見てもおかしくなってしまったようにしか見えない。

 神が今、生まれようとしている。レウは今脅威でもなんでもない。ハーヴィスは最大限の温情として、ここから逃げることを許した。

 果たして、それを受けるか否かであるが。

 レウは、ぶつぶつと独り言を続けた。


「そうじゃないんだ。真逆だったんだ。皆、同じく、特別なんだ。それぞれが、同じく、平等に、水平に、特別な価値を持つんだ。どの価値を選ぶか、というだけの話なんだ。はは、はははははははははは! そうだ、そうだよ、こんなに、簡単な話だったんだ……!」

「レウ、おかしくなったのか。いいから、ここから出て行け」

「そうだ! この世の全ては等しく特別で、だから、僕は、シャロへの恋心を失っても、彼女は特別だから――好きじゃなくなっても、どうにか幸せに生きて欲しいと、願ってるんじゃないか!」


 無価値の論理は無敵だった。だが、レウが少女に抱いた感情により、揺らいでいた。

 だからそれは間違っていた。全ては逆であった。

 万物は特別である。だから、万物が水平でも、シャロのことが愛おしいという理屈が通じる。等しく特別であるが故に、水平なのである。

 失った感情を見つめることにより、抱いた境地。

 レウはこの瞬間、万物水平の悟りに至っていた。

 そして彼は剣を抜き《魔法卿》へ切っ先を向ける。


「ハーヴィス。舐めたこと言ってんじゃねえぞ。逃げる? そしたら、あんたを斬れねえじゃねえかよ」

「……そうだな。お前は、愚かな男だったよ」


 ハーヴィスは、実に残念そうに、両手をレウに向ける。

 せめてもの手向けとして、男が持つ最大の魔法で仕留めてやろうと、魔力をじっくりと回し始めた。

 ――だが、なんだか、妙であった。

 宣戦布告をしたレウは、ハーヴィスのほうではなく、中空に浮く、妖精へと変貌を始めているシャロの肢体を眺めていた。


 不気味な時間であった。気味が悪かった。少年の目は、舐めまわすように、成長したシャロの長い脚と胸に向いている。

 

「ハーヴィス。あんた、バカだな。なんも分かっちゃいないよ」

「……何?」

「僕の趣味は、脚が長くて胸の豊かな女だ。そしてな――好きじゃない女のほうがなぁ――シコれるんだよぉ!」


 そしてレウは駆け出した。相手はギルド大幹部魔法卿ハーヴィス。

 あまりに愚かな特攻であると、ハーヴィスは呆れながら首を振った。


「【宙は空を塗り潰すコスモ・プロ―ジョン


 レウの周囲が激しく歪む。空間そのものが赤熱する。とてつもなく圧縮されたエネルギーが殺到し、レウを圧し潰そうとする。

 ハーヴィスの魔法。任意の範囲を圧倒的なパワーで圧し潰す、強力な魔法だ。

 捕らわれた時点で動くことすらままならない。対抗する術もない。彼が保有する、対人最強の魔法は。


 レウが鋭く剣を振るうと、魔法が容易く、粉々に砕けた。

 

 驚愕を隠せないハーヴィス。レウは驚くことすらせずに真っすぐ。

 再び両手を掲げ、とにかく発動できるあらゆる魔法を撃ち込む。

 炎、雷、風、氷、空間圧縮、重力捕縛、武器錬成。

 その全てが、レウの剣の乱舞で粉々に砕け、無に帰していく。

 ハーヴィスに迫る少年の目は、全てを水平に捉えているようであった。


「魔崩剣。いや、違う。《水平線》の至高の領域――水平眼」


 あらゆる妖精文字を見分ける。あらゆる神秘を見定める。

 何処を斬れば瓦解させられるかを完全に見極めることのできる、人の観察の極限。神秘を殺す水平の眼。万物水平の悟りの果てに宿すことのできる、極致であった。

 どんな修行をすれば、ここに至ることができるのであろうか。

 

 そしてレウはハーヴィスの目の前に迫る。

 上段に構えた剣の刃が、眩しく光る。

 

「……【黒城の絶壁ブラックルーク・スフィア】!」


 ハーヴィスは全身に暗黒の結界を張った。ダイオンの魔法に比肩する、至高の防御魔法の一つであるが。

 レウが稲妻のように斬り下した刃は、暗黒の鎧を、粉々に斬り裂いた。

 そして、その下から、鮮血が激しく吹き上がる。


 胸から大量の血を流すハーヴィスは、様々な感情が入り混じった目で、レウを見ていた。

 それを真っすぐに見つめ返し、レウは剣を肩にかけ、最後の言葉を放つ。


「ハ―ヴィス。この世に、絶対は無い。なぜなら全ては水平だから。神ですらきっと、僕らと同じように、殺せるし死ぬんだ」

「……ぐは、ぐ、ぐぁ、ははは、ははははは……ああ、くそ……あと、ちょっと、だったなぁ……!」


 そしてハーヴィスは倒れ伏す。致命を超える血を流しながら。


 レウは、中空に浮かぶシャロを、見た。

 彼女は、更に神秘的な輝きを増し、周囲の次元すら変化させているようであった。

 既に、様々な妖精との融合を果たしている。

 人が触れられる領域にいない。ただの剣では、傷付けることもできないはずだ。


 だが、それは次元が違う、という前提の話である。

 万物は水平である。次元が異なることはない。石ころも、虫けらも、人も、妖精も、等しく同じ地平におり、同じ剣で傷付けることができる。

 水平眼は、そう視る。

《水平線》の極致たる水平眼の本質が、ここにある。あまりに強烈な妄執が、対象を同じ地平に引きずりおろしてしまう。

 殺せないはずのものも、殺せるようになってしまう。

 これは魔法などではない。人がそう観測をするのだから、世界その形である、ということなのだ。思想の果てに為せる業の一つである。


 レウは剣を構える。低く、居合を抜くような体勢で――シャロを見据える。

 否。見据えるのは、シャロのその奥にいる、余計な妖精どもだ。


「そこはお前らが、いていい場所じゃねえ――!」


 そして閃光のような剣が、シャロの胸の中央を貫いた。

 悲鳴のような、爆発するような、聞いたこともないような音が聞こえる。

 全てが上下左右ぐちゃぐちゃの逆さまになり、視界が白く黒く赤く、目まぐるしく塗り替わり、全部がぐちゃぐちゃに混ぜ変わって……少年の意識は、途切れた。

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