第3話

 「あの……、すみません……」

 蚊の鳴くような小さい声は、下手をすれば聞こえなかっただろう。美沙が振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。年のころは三十路前後か。スリムというより痩せぎすというような体つき。色白を通り越して青白いほどの肌。長い髪は後ろで一つに束ね、白いブラウスと濃紺のロングスカートという質素な装いだ。まだ若いのに化粧っ気のない地味な女性に、見覚えはない。

 「あ、はい。何か……?」

 「その……今お持ちの手提げバッグとナプキンなんですが……どこでお求めになったのか、教えていただけますか?」

 おずおずといった感じで聞いてきた女性に、美沙は詳細を説明する。

 「ああ、これですか? 実は手作り市っていうイベントがあって、そこに出店したクラフト作家さんの作品なんですよ」

 五月下旬の土曜の午後。今日は仕事が休みだったので娘と二人で地元の公園に弁当持参でやってきたところだった。ここは市の管理下の公園で、春の連休を過ぎた頃になると藤が咲き始め、下旬には見頃となる。桜の時期は娘の新入学もあって忙しく、花見もできなかった。軽い気持ちで「公園の藤を見に行かない?」と聞いたところ、いとも素直に「行く~!」という返事が返ってきた。せっかくなら、と海苔巻きと稲荷寿司を作り、水筒に茶を入れて、ちょっとしたピクニック気分を演出した。普段の弁当箱よりは大きめの容器になったが、例のナプキンとバッグにはちゃんと収まったようだ。

 「手作り市、ですか……」

 女性の表情はいまひとつ冴えない。と、美弥が女性の手提げ袋を指さして驚いたような声を出した。

 「あれ、お姉さんのも同じ?」

 見れば、かなり色あせてはいるが同じようなデザインの刺繍が施された大きめの手提げ袋を手にしている。

 女性は、小さい声で、しかしはっきりと言い切った。

 「……それ、私が作ったものなんです」


 「なにそれ! ひどい!」

 女性の話に激怒したのは美弥だった。

 「人に作らせておいて、さも自分が作りましたーって顔して売っていたんでしょ? しかも本人には何も言わないで! 転売ヤーと変わんないじゃん!」

 女性は工藤明日香と名乗った。東北地方の田舎の出身だという。結婚後、夫の転勤に伴ってこの地に越してきたそうだ。

 慣れぬ土地での暮らしだったが、子どもも生まれ、いわゆる数人のママ友もできた。今、明日香の娘は幼稚園に通っているらしい。その際、娘に持たせた手製の手提げ袋が、そもそもの発端だったようだ。

 「よくある話ですが、手提げ袋は手作りで、と園から指示がありまして。私はもともと手芸が好きなので、むしろ作るのは楽しかったのですが……」

 「苦手な方もいますからね。代わりに作ってほしいと頼まれたのでしょう?」

 美沙の問いに、明日香は黙ってうなずいた。美沙自身、美弥が幼稚園に行くときは確かにいろいろ作らされたものだ。どちらかというと苦手だったので、実家の母に泣きついて手伝ってもらった思い出もある。

 「手前味噌かもしれませんが、それなりに良いものを作ったとは思っています。そのおかげか、他の方からも頼まれたりして……」

 気が付けば、かなりの数を頼まれて作っていたという。

 「もちろん材料費などは頂いていますけど」

 「どうせ、はした金なんでしょ!」

 「これ、美弥!」

 怒りのあまりとはいえ、品のない言い草に思わずたしなめた。だが、実際に美沙が例の手作り市で支払った金額と、明日香がもらった材料費には大きな差があったようだ。

 「じゃあ、その差額はその人が自分のものにしているんでしょ? ずるいじゃん! 明日香さん、ちゃんと言った方がいいですよ。ねぇ、ママ。その手作り市に来ていた偽者の人の名前とか分かるんでしょ?」

 「そうね、事務所に行けば申込書の控えがあるわ。ただ、面倒なんだけど今は個人情報保護もあるから、今すぐその人のことをここで明日香さんに教えるわけにはいかないのよ。その前にまず、センター長に報告しなくちゃならないし……」

 「そんなぁ~! 悪いのはそっちなのに!」

 「あの……いいんです」

 怒り狂う美弥を、明日香は申し訳なさそうに遮った。

 「よくないですよ、正直者が馬鹿を見るなんて!」

 「美弥さん、ありがとう。こんな私のためにそこまで怒ってくださるなんて。その気持ちで十分です」

 「だってぇ……。明日香さんのバッグとナプキン、毎日使っているんです。すごいいいものだって、私もママも――、母もすごい気に入っていて……」

 美弥が悔しそうにつぶやき、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。

 美沙も同じ気持ちだった。このひと月あまり、美弥は毎日の弁当を喜んで食べてくれるし、以前よりも母娘の関係が良くなった気がするのだ。

 「明日香さん、私も常々思っていました。あなたの作ったこのバッグとナプキンは、とても良いものですし、私たち親子はこれのおかげで仲良く過ごせるようになったような気がするんです。もちろん、あなたが作ったとは知らなかったけど。でもね、いつか作った人にお礼を言いたいと思っていたんです」

 明日香はそれを聞き、にっこりと微笑んで小さい声で囁いた。

 「それは、私のおまじないなんですよ」

 

 

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