第2話 隣の席
昨晩、ライブの余韻のせいか浅い眠りにしかつくことができず、寝不足の状態で翌朝を迎えた。今でも昨日の余韻、ドキドキが胸の中に在り続けていることがわかる。これまでの日々はただ大学に行き、課題をして、バイトをして、寝るだけの何にも満たされることのない生活を送っていたものが一気に色づきはじめた感覚があった。
昨日の余韻があるとはいえ大学に行くのは憂鬱であるのは確かだった。幸いにも1限からではなく、2限から授業があった。高校生のときは毎日1限の時間に起きて学校に通っていたが、大学生になると何故か1限の時間に起きることができなくなり、絶望感に苛まれる。この現象に名前があるのであれば、知りたい限りだ。
そんなしょうもないことを考えながら大学に向かい、いつもの定位置、後方の窓側を確保した。大学では基本凛斗しか友達を呼べる人はおらず、最初の授業あたりでSNSを交換した数人はよっ友と化し、今ではほとんど関わりがない。おそらく大学で知り合う人なんてほんとんどがこういうものなのであろう。凛斗はその中でも特に波長が合い、大学で初めて知り合ったとは思えないほど、仲良くなり、今に至る。
「みなさん、おはようございます」
と中年ぐらいと思われる教授が入ってきた。
「先生、そろそろ席替えしませんか?」
といかにも陽のグループに属されるだろう男が先生に尋ねた。
席替えって、小学生かよ。と内心思ったことは秘密です。
この授業は所謂必修と呼ばれる言語の授業で、一般的に想像される大きな教室で行われる講義ではなく、高校の教室ぐらいの広さで少人数の授業である。唯一の友人の凛斗は違う言語なためクラスは必然と異なる。
「そうですねえ、気分転換にもなりますし、しますか。席替え」
と教授は席替えという少し懐かしいイベントを始めようと、タブレットを操作し始めた。
「はい、それでは前のスクリーンにランダムに決められた席を表示しますので、その通りに座ってください」
「僕の席は、、8番」
まあ悪くはない。1番後ろのドアのすぐ横だ。
「あ、初めまして!お隣ですね!」
とおそらく隣の席になった女子が律儀にも挨拶をしてきた。
「あ、どうも、、え??」
と思考が一時停止。私服だったためかパッと見ただけでは分からなかったが、見間違うわけがなかった。
「ん?え、え?!ちょっと待って」
彼女も僕に見覚えがあったのか、困惑の表情をしている。
「そこの後ろ、席替えで浮かれるのはいいが、私語はなるべく控えるようにしてくださいね」
と教授に釘を刺されてしまい、お互い混乱しつつも授業は始まった。
「ねえ、昨日来てくれた人だよね?」
と彼女、夏目兎和は僕に囁いた。
「うん、、」
僕は頷くことしかできなかった。昨日出会った夏目兎和という僕の推しが今、僕の隣で授業を受けている。もちろん僕はこの状況を全く理解できないまま、半分放心状態で授業を受ける。
放心状態の半分は緊張だ。昨日あれほど魅了されているのであるから、ドキドキするのは至極当たり前のことだろう。
「この後って授業ある?」
と彼女は頭の整理がついたのか、授業開始10分ほどでノートの隅に可愛らしい字で書き、僕に見せてきた。
「4限まであります」
僕も同じようにノートの空いてる部分に小さく書いた。
「わかった、じゃあ17時に正門にいるね」
ん?正門にいる?どういうことだ。なぜこうなった。
「わかった」
と僕はこう書くことしかできなかった。
教授に釘を刺されたこともあり、私語はできず、ノートにいちいち書くのも非効率なため何も聞くことができなかった。
ここまでの出来事をまとめると、言語の授業で席替えが始まり、隣の席が昨日特典会で話した推しということだ。僕はクラスでも特に周囲を気にしたことがなく、ただ正面を向いて授業を受けていただけだっため、彼女の存在にこれまで気づいてなかったのだ。
こんなの授業なんて一切頭に入るはずがなく、この後僕はどうすればいいのか、何か口封じでもされるのではないか、人気のないところに連れて行かれるのかではないか、などなど飛躍した発想すらも脳内を埋め尽くす。
2限の言語の授業が終わった後の2つの授業も無論集中することなどできるわけがなく、パニックに近い感情を抱き、ついにその時間を迎えた。
正門に向かうとしっかり夏目兎和は正門を通るのに邪魔にならないような少し横に立っていた。
「夢じゃないよな、、」
と僕はアニメのように目を擦り、現実かどうかを確かめるもやはり本物だ。
「夏目さん?」
彼女はスマホいじっていたため自分から声をかけないと気づかないと判断し、勇気を出した。
「わ!びっくりした。ごめんね、スマホいじってたから」
「いや、全然」
「じゃあここで話すのもなんだし、どっかカフェとか入ろっか」
と彼女の提案を承諾し、近くの大学から少し歩いたところにあるカフェに向かった。
道中、お互いあの話題に触れることはなぜかできず、今日あった授業のことや大学での出来事を話しながら歩を進めた。
カフェに着くと、僕と彼女はそれぞれ飲み物を注文し、一息つく。
「えっと、改めて言うけど昨日来てくれてた人、だよね?」
と彼女から切り出してくれ、少しほっとする。
「はい、同じ大学だったなんて驚きました」
「そうだよね、私もびっくりした」
「ってか敬語じゃなくていいよ!同い年だし」
「ああ、ごめん。つい意識的に」
少しの沈黙が流れる。きっと彼女も突然の出来事で勢いで僕を誘ったに違いない。
「えっと、私のことって誰かに言ったりした?」
と沈黙を破るように一息ついた彼女が切り出した。
「いや、誰にも、、」
「そっか、ならいいんだけど」
「夏目さんはアイドルやってること隠してるの?結構友達とかいそうだから」
若干偏見っぽいが、クラスで僕に話しかけたテンションや授業後に数人と明るい表情で喋っていたのが根拠だ。
「うん、一応隠してるかな。なんか色々言われても面倒くさいし」
「あ、あと夏目兎和っていう名前はアイドルの時しか使わなくて、本名は江夏芽衣って言うの。だから大学ではこっちで呼んでほしいかな」
と彼女はおそらく懸念していたことをひと通り聞き、話すことができたためか、どこか表情から不安が消えたようだった。
まさかアイドルの本名を知ることになってしまうとは。このことを暴露するほど僕は悪人じゃない。
「わかった。じゃあ江夏さんで」
「うん!えっと、あお君だったよね。じゃあ改めてよろしくね!」
そう言って彼女は「ここは私が出すから。誘ったの私だし」とお会計を譲らず、お言葉に甘えることにした。
「じゃあまた授業?でね!」
と彼女、僕の推しは昨日のライブをフラッシュバックさせるような笑顔で背を向けて歩いて行った。
「これ本当に夢じゃないよな」
僕は今度は自分で自分の頬を強めにつねって現実かどうかを確かめたが無意味な行動に終わった。
まだ心臓の鼓動が収まらない。昨日の特典会と同じぐらいの距離で透明のパーテーションがない空間に推しと会話ができたこと、名前を覚えていてくれたこと、隣の席ということ、何もかもが嘘のような現実。
今日のこの出来事を凛斗に話すかどうか悩みに悩んだが、結論は今は言わないということにした。誰かに今日という1日の端から端まで全て話したい気持ちももちろんあったが、このことは自分だけの秘密にしておきたいという欲がそれを上回ってしまったのだ。
今までの人生の中で最も濃いと言っても過言ではない1日だったため、もちろん今日も熟睡なんてできるわけもなく、寝不足の脳を連れて明日を迎える。
隣の地下アイドルは僕の推し たなか。 @h-shironeko
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