第十五話  『飛翔』

 闇。

 ひたすら深い闇が視界を支配している。

 時の流れは感じられない。空間としての奥行きもない。

 刻一刻と時を刻む世界の流れから乖離された狭間の中央に立たされて、堂島は独り闇の彼方から向けられる声に耳を傾けていた。


「今回の件。どう責任を取るつもりだ。堂島」


 闇の底から放たれた声は、しゃがれ声の老人のものだった。

 もう何度も弁明したはずの問答に呆れつつ、闇の底からこちらを覗くばかりの存在の言葉に苛立って、つい口から棘のついた答えが出た。


「何度も言わせるな。八代聖華の抹消と、教団への完全な不可侵。それで手打ちになったはずだろう」


 八代による殺戮の一件が耳に入ったのは、押し寄せてくる竜の大群に防衛線が下がり続け、ついに堂島が戦場へ出ようと決心した時だった。

 強制的に接続された無線の相手は、日本の魔導局全てを束ねる東京本部上層部だ。

 たった一言。「やってくれたな」と吐き捨てられ、一本のカメラ映像と共に教団からの要求が堂島に伝えられた。

 教団は要求の拒否があれば映像を外部に流すと総監部を脅し、近年竜の侵攻を許し続け世間からの信頼を失い続けていた魔導局は提示された全ての条件を飲む他になかった。


「それはあちらからの要求であって、お前個人に対する責任追及ではない。私が言っておるのは、魔導局ひいては我々元老院にお前がどう責任を取るつもりなのかだ」


 冷淡な老人の声が闇に響く。

 無機質で機械的で、情緒なぞ削り落とされた抑揚のない声で老人は続ける。


「跡目として育てていた者が禁忌に触れたのだ。最低でも支部長の席を明け渡してもらおうか。明日にはお前が席を開ける旨を上に伝えておいてやる。……良いな」

「……老害風情が。お前が言わずとも直接伝えてやる」


 返すと、老人が表情を険しくした気配が闇を走った。けれど怒りを飲み込んで、老人は闇の中から気配を消した。

 かと思えば、次は老人とは正反対の位置に何者かの気配が忽然と浮かび上がってきて、気配は老人と同様に声だけを闇の中に放った。


「こちらからの要求を存外すんなりと受け入れて頂けたようで何よりです。時間が押していますので、簡潔に話を進めましょう」


 そう言い放ったのは、成熟しきっていない少女の声。

 枯れた向日葵の虚無と孤独を感じさせる声もまた、無機質だ。

 ただただ文字の羅列をなぞるばかりの機械のように言葉を紡いだ。


「貴方が魔導局に引き戻した、藤上真哉という青年についてです」


 突然上がった名前に、息を飲む。

 それを闇の住人達が観測できることはないが、堂島もまた彼らが一体どんな意図でその名をこの場に持ち出したのか観測することは出来ない。

 不気味な緊張が走って、堂島も少女も暫く押し黙っていた。

 やがて少女が沈黙を破る。


「彼の身柄を本部に引き渡してください。今、こちらから迎えを向かわせましたので。貴方はそれまで彼の身柄を拘束していてください」

「何……?」


 眉根を寄せ、困惑を漏らす堂島。

 堂島の困惑を知る由はなく、少女は堂島に詰問する暇すら与えずに矢継ぎ早に事実だけを告げていった。


「彼が責任を持つと言っていた竜が人を殺していたのでしょう。竜が殺しの責任を彼に押し付け、魔導局を内部から破壊しようとしていた疑いがあります。彼は竜眼で洗脳の類いを受けている可能性が極めて高い。精密検査と責任追及の為、身柄は本部が預かります。命令に背けばどうなるか。……分かりますね」

「……」


 淀みなく告げられたのは、僅かばかりの事実と多大なる憶測。

 聞かされて堂島は暫時返す言葉を探していたが、闇に潜む元老院の面々の思考を読み取って納得していた。


 ——危険因子の排除か。随分とらしい発想だな。


「精密検査か。随分と回りくどい言い方をするんだな」


 口を開くと、少女が疑念を抱いたらしく沈黙が生じる。

 闇のそこここから注がれる、在るはずの無い怪訝な視線。

 向けられるなか、堂島は不敵な笑みを浮かべて言った。


「はっきり言えばいいだろう。結果を捏造し、竜と認定して殺すからつもりだとな」


 言い放つと、動揺が走った。

 図星だったのだろう。少女や老人から言葉が返ってくることはなかった。


「図星か。流石、五〇〇年もの時間を生きてきた老害どもだ。頭の固さが違う。後に浮上する殺しの責任問題も帳消しになって、世間の竜への敵意も高まる。地に墜ちるだけだった世間からの信頼を取り戻せる良い足掛かりにも使えるとでも思ったか」

「……堂島聡哉。前言を撤回なさい」


 少女が噛みつく。

 声を上げることはないが辺りの闇に潜む者たちも皆、怒気を露わにしている。

 耳に届くことはないが、罵詈雑言を浴びせられていることを自覚しながら、堂島は鼻を鳴らして言った。


「断る。藤上の身柄は渡さない。部下を失っているんだ。これ以上好きにされてたまるか」


 堂島の言葉に闇は一斉に言葉を噤んだ。

 それは堂島の放つ殺意にか。あるいは堂島の言葉を一言一句聞き逃さぬ為にか。

 答えを知る者はない。


 沈黙のなか。

 堂島の放った一言が、狭間とのやり取りに終止符を打った。


「——それでも藤上の身柄が欲しいというのなら、精鋭を束ねてかかって来い。全員、死よりも深い苦痛でもてなしてやるさ」


 ―——


 魔導局内。長い廊下を朱殷の外套の人物たちが行き交っている。迫る一般市民の完全非難に向けて、先の戦闘を終えた屠竜師たちは休む間もなく魔導局を次々に発っていた。

 彼らの後ろ姿を見送る真哉は独り、堂島が会合を終えるのを待っていた。会合の内容には凡そ合点がいっていた。


「藤上君。傷の調子はどう?」


 言いながらシエラが長椅子の隣に腰かけてきた。

 抱えている書類の束の中には、アンリエッタの写真が留められていた。

 彼女の起こした一件は既に真哉にも知らされている。きっと堂島の会合は、竜人に易々と気を許した自身への責任追及の為に行われているのだろう。


「……」


 シエラの問いには答えず、顔を伏せた。

 誰とも言葉を交したくなかったからだ。いまは独りになりたかった。

 だが、シエラが思わぬ言葉を口にして自暴自棄になりつつあった思考を現実に引き戻した。


「旭勇気君、友達なんだよね。一階に来てるよ。話がしたいんだってさ」



 吹き抜けのエントランスを見下ろすと、溢れかえる朱殷色の中、ひと際目立つ学生服姿の勇気が居た。いつか負った深い傷も完治しているようだった。

 辺りを頻りに見回している。こちらの姿を探しているのだろう。

 二階から声を掛けると、真夜中の室内には似つかわしくない溌剌な青年の声が響き渡った。


「無事だったんだな!真哉!」

「声が大きい。……そっちこそ、元気そうでよかったよ」


 言うと勇気が口を塞いで辺りを見回す。戦闘で疲弊しきっていた屠竜師たちにとって彼の声は仮眠すら妨げるものだったらしく、寝ぼけ眼の巨漢の屠竜師が猛獣の如き視線を向けてきた。

 勇気が苦笑と共に頭を下げるのを見やって、真哉は勇気を連れて場所を変えることにした。


 訪れたのは局からはすこし離れた雑居ビルの屋上。

 屋上からは度重なる竜の襲来によって破壊し尽くされた街並みが伺えた。隣町に向かって続く乗用車の長蛇の列を見やって、本当にこの街が終わってしまうのだと真哉は自覚した。


「話って?」


 勇気に問いかける。

 呼ばれて振り向いた勇気は、真っすぐに視線を返してきた。


「確認しておきたいことがあってさ」


 勇気が見やったのは、真哉が身に纏う朱殷の外套。

 竜の血に染まる覚悟を持ち、戦場にて命を燃やし尽くす決意を示す竜殺したちの血の死装束しにしょうぞく

 

「屠竜師


 冷たい声。どくり、と。心臓が跳ねる音がする。

 軽蔑を共に向けられている気がして、勇気の目を見返した。

 あの日、勇気と共に少年を救おうとしなかったことを責めれている気がした。

 屠竜師になったのは数日前だ。あの時は正式に屠竜師だったわけではない。

 そんな咄嗟の言い訳が喉の奥に浮かんできた。

 だが、勇気の視線は真っすぐに向けられたまま。こちらの深層心理まで掴んでいるようで。


「……そうだよ。ずっと前に、屠竜師になる為の教育を受けてた時期がある。僕は、自分の責任から今までずっと逃げてきた」


 真実を口にする他なかった。


「そうか。……だろうと思ってたよ。竜を見た時、お前は驚いてなかったもんな。俺は、びびって漏らしかけたのに」


 吐き捨てるような声音。

 勇気が数歩にじり寄って来る。その手には、固く拳が握られている。

 殴られるだろうか。……いや、その方が良い。迷いが晴れるから。

 八代の言うように、己の責任から逃げ続けてきた人間にはそれが似合いの因果だろう。勇気と共に少年を助けに走れば、彼があんな傷を負うことは在り得なかったのだから。


「噛み締めろよ」


 眼を瞑って、拳が叩き込まれるのを待った。

 

 とす。

 軽い衝撃が、胸に当てられた。


「え……?」


 恐る恐る瞼を持ち上げる。

 視界に映ったのは、想像とは対岸の感情を顔面に浮かべた勇気の顔だった。


「死ぬなよ。真哉」


 どんな言葉を返せばいいのか分からなかった。

 目を点にしたまま、思わず勇気に問い返した。


「なんで……怒らないんだよ」


 問い、というよりもそれは半ば懇願に近い。

 自暴自棄になりかけていた真哉にとって、最期の心のよりどころとも言えた勇気から突き放されることだけが、正真正銘の虚無に落ちる為の希望だったから。

 自責に潰れ、嫌悪に溺れ、罪悪感と絶望に打ちのめされて。

 己のことを支えてくれる何もかもから拒絶されれば、後はもう八代のように修羅にでも落ちてしまえばいい。


 そうなれば、楽になれたはずなのに。


 勇気は何故か、真哉の在り方を受け入れていた。


「なんでって……それは」


 勇気は言う。



「お前がいなかったら、俺は死んでたから」



 違う。

 そんな言葉、僕に向けられる資格なんて微塵もないのに。


「違うよ。勇気、僕がいたから人が死んだんだ。僕が無責任だったから人が死ぬんだ。僕は―—」


 彼の言葉を聞き入れてはいけない。彼の言葉に浮かれてはいけない。

 罪人は一生、罪人のまま生きていかなければいけない。己の罪と向き合い続け、それを忘れることがあってはいけない。

 自らを呪うように、口にした。


「―—僕は、何もできないんだ……!」


 言うと勇気が表情を暗くした。

 重たい溜め息をひとつ。肺の空気全てを入れ替えてしまうくらいの勢いで吐き捨てて。


「わかってねぇな。本当に……」


 呆れを言葉にした。

 次いで、その目は真っすぐにこちらを見つめた。



「お前にしかできないことがあるって言ってんだよ。お前にしか助けられない人がいる。あの時の俺と、あの子がそうだったみたいにさ。お前の目の前に居る人を助けられるのは、お前だけだろ。真哉」



 それでも、と。食い下がろうとした。


「そうだな。そこの小僧の言うとおりだ」


 不意の声が背後から放たれた。

 見返すと、そこには堂島がシエラを連れて立っている。いつから聴き耳を立てていたのは分からないが、知らぬ間に会話を盗み聞きされていたようだった。

 悪趣味だと揶揄する声を上げようとすると、堂島の声がそれを遮った。


「町全体のマナの濃度が急激に上昇している。それも奇妙なことに、一定の場所に収束しているようだが……。藤上、お前ならこの正体がわかるんじゃないか」

「何を言って……」


 堂島に言われるがまま、真哉は竜眼を勇気には見られぬように開いて辺りのマナを観測した。

 確かにマナの濃度は濃い。加えて、奇妙な流れが生じて町全体をマナが巡っている。

 まるで何かを導くように。緩やかに軌道を描くマナは、郊外のある一点に向かって収束していた。

 その方角は、ミドゥルがロゥリエを連れ去った方向と偶然にも重なっている。

 加えて、眼を凝らすと収束地点の中心には何故かロゥリエの気配が感じられた。

 

 彼女はまだ、生きている。


「ロゥリエがまだ……!」

「偶然とは思えん。ロゥリエが何か関係していることは確かだ。……それでもまだ弱音を吐くか」


 言って、堂島はシエラに目配せした。

 受け取ったシエラだが、眉を顰めて怪訝な表情を返した。


「本気?一般人の前よ?」

「構わん。俺は人を見る目がある。あいつは話の分かる人間だ。俺を信じろ」


 二人の会話の意味を理解できずに真哉と勇気が顔を見合わせていると、溜息と共にシエラが静かに瞼を閉じた。

 次の瞬間。


 見開かれた双眸は、漆黒の竜眼に変貌していた。


 やがてみるみる内にシエラのこめかみを竜の角が破って、彼女の影は巨大な竜のそれに肥大化していった。

 そうして真哉達の眼前に顕現したのは、一匹の黒竜。

 四枚の巨大な翼と、三本の長い尾が特徴的な祖竜の血統であることを示す漆黒が美しい妖艶な竜だった。


 竜が伏せ、その背中に乗りながら堂島が勇気を一瞥する。それだけで意図を悟ったらしい勇気は頷いて、真哉の背中を軽く叩いた。

 二人のやり取りを見ていた堂島が言う。


「藤上真哉。お前にはまだやることが残っている。そうだろう」


 向けられた声と共に、堂島もシエラと同じ漆黒の竜眼を見開いた。

 堂島の視線に頷いて真哉は竜の背中に乗り込んだ。

 竜が起き上がり、勇気に早急に街を出るように伝える。勇気は困惑した様子もなく応で答えると、背を向けて足早にその場を去って行った。

 その背中を真哉が呼んだ。


「勇気」

「……?なんだよ、まだ何か―—」



「ありがとう。行ってくるよ」



 勇気は顔の筋肉が強張りそうなほどの笑顔で、夜闇の中に飛翔する竜の姿を見送った。

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