第十四話  『喪失の夜』

「これ以上は無意味よ。もう諦めて死んで。ロゥリエ」


 口にした言葉が震えていた理由を、アンリエッタは内心で見て見ぬふりをしていた。

 肩を激しく上下させながら、落とした視線の先——血まみれになって沈黙したロゥリエを見やる。

 凡そ戦いとは呼べない、一方的な蹂躙だった。

 ロゥリエからの反撃はなく、彼女は攻撃を躱すか受け止めるかの消極的な反応ばかり。

 魔力の全てを攻めに割けば攻防の間もなくロゥリエが勝利して決着することを理解しているはずなのに、ロゥリエはそれを全て治癒に割いていて、決して反撃の素振りを見せることはなかった。


「じゃあ、どうして殺さないの」


 裂けた喉を修復したロゥリエの放った一言がアンリエッタの胸に、チクリと刺さった。

 訊ねられて尚、アンリエッタはロゥリエの問いに答えを返すことは出来なかった。

 思考の渦中で混合していく感情の中をいくら探せども、彼女にとどめを刺さない理由は、ひとつしかなかったから。

 ロゥリエを殺したくない。

 けれど同時に、殺してやりたいほど憎い。

 相反する感情が鍔迫り合いを起こしていて、その葛藤が苦悩する首を絞めつけていく。

 ロゥリエへの攻撃なんて、ほとんど子供の八つ当たりに等しい行為だった。

 目尻に浮かんだ大粒の涙を悟られまいと顔を伏せた。

 その時だった。


「ロゥリエ!」


 魔力の霧を破って、ひとつ人影が外界とは絶縁されたはずの空間に飛び込んできた。

 竜の鮮血に塗れたその影は、ロゥリエの傍らに居た青年と同じ気配を帯びている。

 しかし同時に、竜と同質の純然たる星の化身の気配を体を覆う白銀の竜鱗と共に纏っていた。

 飛び込んできた影は開眼している四つの眼をそれぞれ別の方向に向け、霧の内部の状況を見回し、虹色の竜眼を見開く。

 怒号を発する間もなく、影は虚空を蹴って降りかかる慣性を振り払った。

 ロゥリエに向かって真っすぐに飛び込んでくる影。

 全身の魔力循環を加速させ、アンリエッタは肉体を竜の躯体に変化させて二人の間に割って入た。

 壁に寄りかかるロゥリエを尾で弾き、飛び込んでくる影には全力の魔力を放射する。


「ぐッ!?」


 魔力の熱線が、影の肩を貫いた。

 だが影は怯むことを知らない。

 着地と同時に大地を駆け抜け、地面を転がるロゥリエの先に回り込んで、彼女の身体を受け止めた。


「ロゥリエ! 大丈夫か!?」


 尾に殴られた衝撃で頭から出血するロゥリエの意識を呼ぶ。

 朱殷の目隠しの下。ロゥリエの双眸が見開かれる気配がして、彼女の心眼が向けられる。


「真哉、どうして……」


 瞬間に伝播する、驚嘆。そして深い後悔。

 身体のほとんどを竜として書き換えられた真哉の姿を目の当たりにして、ロゥリエは彼に竜眼を移植してしまったことを、この時初めて強く悔いた。


『私のせいだ』


 後悔は心を通じて伝わって、彼女が胸の内で零した声に真哉は返す言葉を失くした。

 違う。

 それだけは絶対に違う。

 伝えようとして言葉を口に含めども、声にする暇はない。

 竜が大地を踏み砕く轟音が迫っていた。


「邪魔をしないで!」


 アンリエッタの大顎が、眼前に迫る。

 ロゥリエを抱えたまま飛び退って、憤怒の突進を回避する。

 竜の躯体から繰り出される烈風の刃も、文明を砕く熱線の乱射も躱し、咆哮する竜から距離を置く。

 叫喚のような。嘆きのような、怒涛の攻撃の後。

 対峙するアンリエッタと真哉の間に、音のない緊張が満ちる。

 訪れた沈黙を破ったのは、真哉の腕から下ろされたロゥリエだった。


「もう止めよう。アンリエッタ」


 告げると、アンリエッタの双眸がロゥリエに向いた。

 大顎の内に秘められていた魔弾が放たれて、ロゥリエの頬を掠めていく。

 つぅ、と細く血が流れる。

 だが、ロゥリエは意図的に傷を修復することはしなかった。

 視線の先でアンリエッタが、張り裂けそうな声で叫ぶ。


「それじゃだめなのよ! ガンドを殺したのは貴方なの! 私は貴方を殺さないといけないの! ……でも——」


 苦悩にアンリエッタが悲鳴を上げる。

 竜の双眸から、一筋の涙が流れていた。


「——できないのよ……! 貴方を殺してしまえば、私は独りになる……! 独りになんてなりたくないの!」


 打ち明けられた、孤独への恐怖。

 ロゥリエを手にかけられなかったのは、一重に誰しもが内に抱えるその苦悩故のものだった。

 葛藤の果てに口にされた答えを聞いて、ロゥリエはアンリエッタに温かな眼差しを向けながら、歩み寄っていった。


「私もそうだよ。アンリエッタ。あなたを失いたくない」


 菖蒲色の竜鱗に、ロゥリエの手が添えられる。

 竜がそれに抵抗することはなかった。

 アンリエッタが空間に展開していた魔力の霧がひとつひとつ解かれていく。

 大粒の涙を零しながら、竜はロゥリエに頬を寄せた。


「私、いっぱい人を殺してきたの……!だから友達なんていなかった。ガンドだけが、私の理解者で愛せる人だったの。でも彼も死んでしまって、どうしていいかわからなかった……!貴方が彼を殺したのなら、復讐すれば気が晴れると思っていたの」


 竜は少女の腕の中で、己の罪を懺悔する。

 神話の光景を目の当たりにしながら、真哉は開いていた竜の双眸を閉ざした。

 もうアンリエッタがロゥリエに牙を向けることはないだろう。

 安堵して、吐息を零しながら夜空を仰いだ。

 街を覆っていた竜雲はいつの間にか消え失せて、空には満天の星空が広がっていた。

 抱き合う二人を見やる。


「帰え——」


 言いかける。


 どすり、と。鈍い衝撃が、背中から体を貫いた。


「俺を騙し討ちしたんだ。闇討ちされる覚悟くらいはあったんだよな」


 耳元で囁かれたのは、低く荒れた女の声。

 背中から腹を手刀で貫いた女の手は、臓器を絡め取るように引き抜かれる。

 血が一斉に溢れて、臓器が月下に引きずり出された。

 視線は返さずとも、声の主の正体を悟った。


「ミドゥル……!」


 ロゥリエが叫び、魔力を纏う。

 傍らでアンリエッタも魔力を食み、殺気を込めた視線を背後のミドゥルに向けた。

 ロゥリエが地面を跳ね、ミドゥルに迫ると同時に。


「お前も。駄目だろ。ちゃんと殺せよ。予定が狂っちまう」


 不機嫌に言い放ったミドゥルが手を翳し、赤い轟雷を放った。

 その標的はロゥリエではなく、アンリエッタだ。

 地面を食い破りながら地上を駆けた電撃が、アンリエッタの鎌首に食らいつく。

 そのまま鱗を焼き切って、肉を断って、心臓を破る。

 竜による魔法の発動は、秘めたる魂の発露に他ならない。

 竜によって編まれた魔法の一撃一撃は、それらすべてが竜の魂の核心に傷を届かせる必殺の攻撃になる。

 当然それが心臓に届いた竜の命が以降続くことは在り得ない。

 アンリエッタの鎌首が、血を吹きながら宙を舞った。


「——……ぁ」


 ミドゥルに飛び掛かろうとしていたロゥリエは、ぴたり、と足を止めた。


 真哉を見やる。

 内臓が零れている。

 意識はまだ続いているが、竜ほどの強固な魂を持たない真哉の再生力は高くない。

 苦悶に顔を歪め、激痛に喘いでいる。


 アンリエッタを見やる。

 首から先が失われている。

 動脈から血が噴き出し、辺りを一面赤く染め上げる。

 悲鳴も別れの言葉もなくアンリエッタは死んだ。


 狡猾な哄笑を浮かべ、ミドゥルはアンリエッタの死体がくずおれるのを嗤っていた。


「首なし竜か。死に方までお揃いなら文句ねぇよな。なあ、お前もそう思うだろ。ロゥリ——」

「黙れッ!」


 張り付いた笑みをロゥリエに向けるミドゥル。

 その顔面に、ロゥリエの全身全霊の一撃が叩き込まれた。

 殴り飛ばされたミドゥルだが、不敵な笑みと共にロゥリエに視線を返すと言い放った。


「てめぇが始めた因果だろうが! 被害者ぶるなよ。ロゥリエ!」


 ロゥリエの脳裏に走ったいつかの夜の記憶。

 真哉を助ける、ただそれだけの為に屠った竜の最後の瞳に映っていた悲愴。

 愛する者を奪われた、友から向けられた憎悪。

 込み上げてくる記憶の数々が、次のロゥリエの行動を遅らせた。


「クハハハッ! お前ら全員、脇が甘くて助かるよ!」


 嘲笑と同時。ミドゥルが地面を蹴り返した。

 赤雷を纏ったミドゥルが懐に飛び込む。


 心眼を以てしても追えぬ接近に、ロゥリエの反応が遅れた。

 ミドゥルを一度討ち取った剣を、月光の柱から抜き放とうとするが―—それをやってはいけないと、脳裏で警鐘が鳴り響いた。


 光剣。

 それはロゥリエの起源たる『天使』と『門番』に直結している星剣のひとつだ。

 触れた魂に反応し剣が適応可変する性質を持つ、森羅万象を浄化す神々の遺産にして傑作の一振り。

 故に、現に下ろすとなると抽出に広域のマナとの接続が必要であり、それ自体に大量の魔力を費やすことになる。そしてそれに加えて、顕現し実体と質量を付与する為にも魔力を割かねばならない。


 今この瞬間、ロゥリエにはそれを実現するだけの魔力の残量がない。

 先のアンリエッタとの戦闘で、想像以上にロゥリエは魔力を削られていたのだ。


 ロゥリエ、魔力が残っていない。


 ならば、と身体は。無意識に真哉に向かって魔力の供給を要求するが、今の真哉から魔力を奪うことは彼に死を強制するのと同義だった。

 故に、ロゥリエが取った選択はひとつ。


 念話のなかで彼女の思考を直感した真哉は、彼女の覚悟を感じ取って叫んだ。


「やめろ! 僕はどうなってもいい……! せめてお前だけはにげ―—」


 ロゥリエは、自ら真哉との魔力の接続を放棄した。

 虚ろになっていく意識の中で、真哉は眼にする。



 ロゥリエが赤雷の化身に心臓を貫かれて、息を引き取る瞬間を。


 

 ミドゥルの腕のなか。

 持ち上げられたロゥリエの身体からは力が失われている。


「ロゥリエ……だめだ、起きろ」


 呼びかける。

 しかし声が彼女に届いた様子はない。

 脳裏で呼び掛ける。


 ——ロゥリエ、起きろ!


『……』


 返答はない。

 気配も感じない。

 彼女の存在を、この世のどこにも感じられない。

 ミドゥルはロゥリエの亡骸を抱えたまま立ち去っていく。

 立ち上がろうと力んでも、風穴の開いた体では思い通りの行動を起こせない。

 地面にくずおれ、地を這いながらミドゥルに向かって怒号を放った。


「ロゥリエを返せ!」


 振り返ることもせず、ミドゥルの身体から電撃が撃ち出される。

 電撃が街を駆け抜けたかと思うと、次の瞬間の視界には少女を咥えた竜の影が広がっている。

 竜はロゥリエを咥えたまま、惨めに地を這う人間を見下ろしながら吐き捨てた。


「せいぜいてめぇの無力に打ちひしがれてろ。お前は所詮、自分ひとりじゃ何もできないんだよ」


 ――


 広がる血潮と屍の海の只中。

 赤い——ひたすらに赤い、血を浴びた人影が佇んでいた。

 竜血に塗れた体。血を滴らせる凶刃。足下の竜の屍から臓物を引きずり出し、鮮血で身を清める様は、血に飢えた鬼のようだった。

 人影のその正体を、梓は何故か一目見ただけで直感できた。


「先輩……なんですか」


 視線の先。

 噴き出す竜の鮮血に赤く染め上げられていく街のなかに佇むそれを、竜は死神と畏怖したのだろう。

 僅かにその場に生き残っていた竜は飛び退ろうと翼を広げるが、その翼を死神が振るった大鎌が容赦なく斬り落とした。

 次いで首が跳ねられ、再び竜の血の噴水が天に舞った。

 血を頭から浴びつつ、呼ばれた人影はおもむろに梓の姿を一瞥する。

 冷たくなった双眸の奥に、虚ろな感情を浮かべる人影。

 その首筋を見やって、梓は双眸の奥の虚ろな感情の正体が、後戻りを許さぬ覚悟であるのだと悟った。

 竜の血は、浴びるだけで人の肉体を不死のものへと変質させる劇毒だ。

 彼の竜殺しの英雄ジークフリートがそうであったように、一度血を浴びた部位は当人の意識に関係なく常識離れした再生力を持つようになる。

 それは血を浴びれば浴びるほどより強力な再生力を獲得していき、最後には細胞の死滅すら知らぬ不老の肉体へ至るという。

 そうあっては竜殺しを生業とする屠竜師は未来永劫死ぬことが出来なくなる。

 その為屠竜師は皆、人間のまま死を迎える為に必ず体の一部に弱点となる部位を残すことが義務付けられている。

 ある者は背を。ある者は心臓を。ある者は首を。


 だが今や、八代の首にあったはずのチョーカーは外されている。


 竜血が直に肌を滑り、彼女の胸に流れていく。

 不老不死の肉体を獲得する行為は、魔導における禁忌のひとつだ。

 八代はその禁忌に触れた。

 身柄を拘束しなければならない。

 思えども、梓はそれを行動に移すことが出来ない。

 ただただ過ぎる沈黙の中で困惑する。

 何故、と言葉が声になるより先に。

 竜殺しの血に飢えた鬼神が、悲壮の言葉を紡いだ。


「ごめんなさい。もう後戻りはできないの」


 向けられた決別の言葉。

 あるいはその言葉は、八代自身にも向けられたものなのだろうか。

 真相は分からない。


「どうして謝るんですか……! それじゃまるで……!」


 堂島から告げられた教会の一件を梓はにわかには信じられずにいた。

 否。信じたくなかったというのが正しいのだろう。

 信じたくなかった故に、件の教会へ事実確認の為に向かったのだから。

 その道中で八代に出会ってしまったのは、幸か不幸か。

 彼女の眼に浮かぶ、悲愴と憤怒。

 紡がれた言葉の全てが、教会に向かわずとも堂島の言葉が嘘偽りのない真実であると物語っていた。


 罪を認め、罰を受ける覚悟を固める最中。

 夜天を仰いだ。

 竜雲はない。

 差し込む月光はただただ美しく、地上の赤い血の海をありありと照らす。


「……」


 視界にふと、一匹の天を駆ける竜の影が飛び込んだ。

 それはいつかロゥリエが打破したはずの雷の化身。その竜態だった。

 街の天井を横断する影を眼で追って、深い呼吸をする。


 ——殺さないと。


 竜を殺すと誓ったのだ。

 竜の肩を持つ者は皆殺しにすると。

 例外なく、根絶やしにするのだと。


「——梓」


 背後。

 目尻にいっぱいの涙を湛える少女の名を呼ぶ。


「ロゥリエのこと、貴方はどう思ってるの」


 問いかけると、少女は目を丸くしている。

 暫時思考の間があってから、少女は戸惑いと共に竜への思いを口にした。


「友達です。先輩もきっと、話せば理解し合え——」


 少女の言葉が最後まで紡がれることはない。


 ごろんっ、と重たい音と共に甘栗色の物体が地面に転がった。


 ―——


 『……きて』


 心なしかその声には覚えがあった。

 澄んだ声音は讃美歌のようで、穏やかな春風に似た温もりを運ぶ。

 どこか懐かしさを感じる一方で、その声をいつ記憶したのか思い出せなかった。


『起きて』


 呼び声に応じて、意識が急激に覚醒する。


 ——この声は……!


 覚醒を急ぐ意識のなかで、声の主と出会った夜の記憶をなぞっていく。


 彼女は、助けを求めていた。

 彼女は、悲鳴を上げていた。

 彼女はきっと、誰かに見つけられるのを待ち続けていた。


 瞼を持ち上げる。

 視界を満たしたのは、満天の夜空だった。

 意識を失っていたらしく、横たわっていた体を起こすと、脇腹が内側からずきりと鋭く傷んだ。内臓を引きずり出されたはずの傷口は、もうすっかり塞がっている。

 自分が真の意味で人でなくなってしまったのを受け入れつつ、傷口に手を当てる。

 未だ痛む腹の底に痛みは無力な己への戒めに感じられて、脳裏にロゥリエの最期の姿が浮かんで、唇を嚙み締めた。


「大切な人を守れなかったんだ。……僕にはもう、君を助ける資格はない」


 零した独白。

 それに声が返ってくることはない。

 だが、静かに。

 独白と共に音もなく目尻に浮かんだ涙を拭いとるかのように。


 少女の手が伸ばされた。


 伏せていた顔を上げ、視線を返す。

 そこに居た少女の姿を、この眼が見紛うはずはない。

 あの時の白い少女——マナが、そこには居るはずだった。

 しかし視界に映っていた少女は、在り得るはずのない顔立ちをしていた。


「ロゥリエ……?」


 少女は目隠しをしていない。ロゥリエには生えたままだった角もない。

 けれど視界に飛び込んだ少女の姿は紛れもなくロゥリエそのもので、ミドゥルに殺され、連れ去られたはずの彼女の名前を無意識に口にしていた。


 ——そんなはずない。ロゥリエは殺されたんだ。

 ——在り得るはずが……。


 内心で否定を重ねていると、少女が不意に立ち上がった。

 踵を返し、肩越しに視線を注がれる。ついて来て、ともの言いたげな表情。


 視線を受け取ると少女は、ぱたぱたと軽やかに災禍の残り火が続く街を歩んでいった。


 少女に導かれて辿り着いたのは、夥しい数の竜の屍が広がる惨状だった。

 吹き抜けるビル風が血潮の匂いを鼻腔に突き刺す。

 呼吸さえ躊躇ってしまう屍の山を前にして、少女はついにその足を止めた。

 立ち止まって少女はしばらく辺りを見回すと視界に何かを捉えたようで、その視線は一点を見つめる。

 徐に白い指で、視線の先を指差すとやがて少女の姿は夜の中に溶けだしていった。


「待って……っ! 君には聞きたいことが!」

 

 言いながら呼び止めるが時はもうなく。

 少女の姿は完全に消え去って、底のない静寂が訪れた。

 思考を切り替え、少女の指さした方に視線を向けた。


 その先に在ったのは、黒金の棺桶と共に眠る少女の姿。

 首から重力に従って垂れる血が、彼女が事切れているのを自ずと脳に理解させた。


「僕のせいだ」


 思考が声になったのは、きっと何ひとつ守ることが出来なかった自分の心を折る為だ。


 立っていることすらままならなくなって、膝から崩れ落ちる。

 やがて心の淵に閉ざしていたはずの自責の念が込み上げてきた。


 とどのつまり僕は、何も出来ない傍観者に過ぎなかった。


 何かを変えられると思っていた。

 何かを救えると思っていた。

 何かを守れると思っていた。


 けれどそんなものは全て、子供が夢見た根拠のない理想だった。

 現実の自分は無力で、脆弱で。


 何かを成す為の力なんて、ひとつだって持ってはいなかった。


 所詮。僕は何一つ成せない無力な人間だった。

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