第十三話 『虹瞳の竜』

 一体どれだけの時間、意識を失っていたのだろう。

 頭が重い。体が怠い。耳鳴りが響いて、吐き気さえする。

 状態は最悪だ。

 とても戦闘を続けられない。

 だがまだ、倒れることはできない。

 根拠はない。動機もない。

 それでも今ここで倒れることだけはできない。


 たったそれだけの意思を抱えて、真哉は立ち上がった。



 視線の先には、ミドゥルがいる。

 梓が交戦しているが、防戦一方なままの戦況が好転する兆しは見えない。

 棺桶を振り下ろし、時には忍ばせていた暗器を振るう梓だが、その刃はミドゥルの振り乱される髪のひと房さえ捉えられない。

 焦燥に駆られていく梓の攻撃は、重なる度に乱れて焦りを滲ませていった。

 梓の攻撃を易々と躱し、受け流すミドゥル。

 やがて回避の最中でこちらを見やって、狡猾に口角を吊り上げる。


「やっと起きたか。おらぁっ! くれてやるよ!」


 棺桶を振り下ろした梓の脇腹に、流れるように竜の脚が飛び込んだ。

 回避は適わず、梓が蹴り飛ばされる。

 地面を転がる梓は近接兵装の金属板をアスファルトに押し当て、火花を散らしながら失速した。

 ミドゥルの蹴りに肋骨を砕かれたらしく梓が苦悶に顔を歪ませる。

 駆け寄ると梓は苦笑を貼り付けながら、たった数本折れただけだと暗い冗談を口にした。

 梓は全身傷だらけになっていて、傍らに置かれた棺桶も近接兵装の金属板は度重なる衝突でひしゃげて摩耗しきっている。


 戦いぶりから彼女が本来前線での戦闘を得意としないことを見抜いていた真哉は、迫るミドゥルを一瞥してから口を開いた。


「梓さん。ここを離れてほしい」


 言うと、梓が唖然とする。

 返された視線は真哉の正気を疑っている。

 現役の屠竜師が応戦して適わなかった相手なのだ。それを三年間ろくに魔導の鍛錬を積んでこなかった真哉が相手にできるはずがない。

 犬死することを良しとしているあまりに無謀な判断だった。


「そんなこと出来るはずないじゃないですか……!」

「いいから。ここは僕に任せてほしい」


 言って、真哉は眼を伏せた。

 肺の空気を丸ごと交換するほどの長い呼吸の後で、全身に魔力を通わせていく。

 先刻から近くにいるはずのロゥリエの気配を丸で感じられなくなっていた。恐らくアンリエッタが何か細工をしているのだろう。念話さえ届かなくなっている。

 一刻も早くロゥリエの下に向かい、彼女を守らなければ。

 であれば当然、今この窮地を最短で脱する必要がある。


「かわりに頼みたいことがある」


 如何なる犠牲を払っても——。

 如何なる危険が伴おうと——。


 たとえそれが、この身体に竜の血を受け入れる結果になったとしてもだ。



 再び開かれた双眸は、虹色の竜眼を宿していた。



 その気配は、忽然とミドゥルの眼前に出現した。


 背筋が凍てつく、本能からの畏怖に駆られる圧倒的で絶対的な恐怖。

 死——否。厳密には、前回の死に際に経験したのと同じ感覚の再起。

 潜在的恐怖とも言い換えられる、魂に刻まれた敗北の記憶そのものが眼前に何の前触れもなく出現した。


「……!」


 ロゥリエの気配を感じ取って思わず飛び退ったミドゥルだが、気配の正体を知った途端にその本質を理解して肩透かしを食らう羽目になった。


 感じ取った気配の正体である人影に向かった言い放つ。


「随分と仰々しいな。所詮は人の分際。どこまで持つか、見ものだな」



「言ってろ。……すぐに後悔させてやる」



 生意気にも挑発を返してきたのは、竜眼を開眼した真哉だ。


 虹色の燐光を帯びる双眸から溢れる魔力に肉体を書き換えられながらも、己の肉体を人の領域に留めようと必死の抵抗を続けている。

 刻一刻と肉体を浸食していく竜の魔力に抗いきれず、目元の皮膚がみるみる白竜の鱗に変質する。

 新生しようとする肉体に同調して周囲のマナもまた、彼の存在を竜として認識していた。


 人でありながら、竜に成ろうという傲慢。


 教団の上層部がこの光景を見れば遺憾だと騒ぎ立てるだろうが、ミドゥルは眼前で歪んでいく世界の在り方に、人知れず予期していなかった高鳴りを感じていた。



 ひとつ呼吸する度、大気が焦げる。

 ひとつ足を前に運ぶ度、世界の尺度が小さくなる。

 ひとつ鼓動が鳴る度、全能感に満たされる。

 ひとつ思考を重ねる度、万象の真理を理解する。

 ひとつ竜であることを受け入れていく度、芽生えた竜の魂が自我を食い荒らし、侵食していく。


 ——……ごめん。ロゥリエ。


 内心でロゥリエに深謝するが、それが彼女に届くことはない。

 竜の血に侵されて変貌していく指先を虚ろに眺め、背後の梓を一瞥する。

 無音の合図を受け取った梓は強く頷き、棺桶を背負ってその場を去っていった。


「何のつもりだよ」


 当然、それをミドゥルが見過ごすはずがない。

 手を翳し、赤雷を放つ。

 ほんの僅かな動作と共に空気が震動し、放たれた電撃が街並みを駆け抜けて在るものすべてを焼き切っていく。

 刃が梓の背中に襲い掛かる、間際。

 電撃は虚空に消え去る。


「なっ……」


 ミドゥルの開いた口は塞がらない。電撃を幾度放とうが、それが梓の身を引き裂くことはない。

 梓はそのまま棺桶を背負って逃げ果せる。

 ミドゥルは元凶を理解すると共に激しく舌打ちして、見開いた竜眼から血を流す真哉を見やった。


「空間掌握。……いや、そんな大層なもんじゃないな。魔力で相殺したのか。随分な魔力量だな」


 感心は半ば、その身を竜に書き換えられていく真哉への皮肉だ。


 真哉がミドゥルと言葉を交わすことはない。沈黙したまま鱗を纏った両手を構える。


 伏せていた双眸を持ち上げ、ふっ、と短く吐息を零した。


 一秒にも満たない急接近。

 開いていたはずの間合いなど、竜の膂力を我が物とした真哉には些事だった。

 懐に飛び込んで、拳を突き刺した。


 常人ならば四散しかねない威力の一撃を叩き込まれ、ミドゥルが直線上にあったビルの下層に放り込まれる。

 沈黙が居座る。

 ビルのなかでミドゥルは、血をぶち撒けて床に転がっている。

 その様子を肉眼で確認するべく真哉が足を運ぶと、甲高い女の哄笑が響き始めた。


「クハッ、ハハハハハッ! いいぜ、面白れぇ! てめぇがその気なら、俺も本気でやってやるよ!」


 総毛立つほどの狂気。

 瞬間に初めて、ミドゥルは真哉を己の渇きを満たすに相応しい相手として認識する。


 手加減も、遠慮も、情けもすべて無用だ。

 今はただ、眼前に立ち塞がった強者を超えたい。


 純粋な強さへの渇望が、ミドゥルの魂を根底から武者震いさせた。


「ぶち殺してやるよ、半端野郎」


 宣言したミドゥルが、四肢を躍動させ獣のように跳躍する。

 稲妻を纏った突進を真哉は受け流し、すれ違いざまに胴を蹴り上げる。

 蹴られてミドゥルは天高く打ち上がるが、地上を見返すその眼は未だ笑っている。

 腕に魔力が迸り、込められた魔力が一斉に放たれる。ミドゥルの肉体を経由して発散された魔力は赤雷となって地上に注いだ。


 赤雷の雨の隙間を縫って駆け抜ける。

 背後から迫る赤い魔の手を千切って、魔力を腕に収束する。

 大気を裂きながら迫る赤雷に振り返り、込めた全身全霊の魔力をぶつけて相殺した。

 強引に霧散した磁気の奥。ミドゥルが、高鳴る胸とは裏腹に冷静に真哉の力を推し量っている。


「やるじゃねえか! これもちゃんと受け止めろよ!」


 合図とともにミドゥルが赤雷を纏って疾走する。

 赤雷を身に纏ったミドゥルの疾走は、雷神の猛進そのものだ。

 瞬く間に眼前に迫ったミドゥルの手が、顔面に伸ばされる。

 反応する間もなく顔面を掴まれ、電光石火の突進に巻き込まれた。

 荒れ狂う轟雷が大地を削り取っていく。

 竜が文明の破壊者とまで呼ばれる所以を存分に示しながら街を破壊し尽くすミドゥル。

 頭を掴むミドゥルの腕を力で振り払って、姿勢を崩したミドゥルに飛び掛かる。

 固く拳を握ると同時に、マナの流れを竜眼で視認。流れに拳を乗せる。


 星の力であるマナと重ねられた鉄拳を、ミドゥルの心臓に叩き込んだ。


「ぐッ——ハハハッ! もっとだ! もっと力を込めて来いよ!」


 地面を跳ねて転がるミドゥルだが、余力を残したまま勢いを殺し、熱い吐息を零しながら肩を上下させている。

 全身の痣も出血も立ちどころに癒えていき、攻防は全て白紙に戻される。


「まだまだやれるよなぁ、藤上真哉あああ!!!」


 咆哮と同時に、真哉とミドゥルが駆け抜けた。

 対峙する二人が互いの渾身の一撃を秘め激突する、その間際。



 空を貫く音もなく、一本の矢がミドゥルの首めがけて飛び込んだ。



格納式多機能搭載魔術機構式複合弓フェイルノート真兵装開示オープン——『邪竜のファブニール』」



 真哉とミドゥルの激闘を観察するビルの屋上にて。


 傍らの棺桶に向かって梓は唱えた。


 棺桶は詠唱を承諾すると、その蓋を独りでに開放。

 直後、辺りに呼吸することさえままならぬ濃密で純粋な竜の魔力が満ち満ちる。

 棺桶から漏れ出る魔力が空間を飲み込むと、やがて満ちていた魔力の流れの一つ一つが収束し輪郭を纏っていく。

 マナの歪曲の燐光を放ちながら、全長十メートルは優に超えた幻想の巨影が夜の摩天楼の最上部に顕現した——。


 黒き邪竜ファブニール。其の竜骸むくろ


 この世すべての竜の祖先たる黒き邪竜。

 首のないその骸が、封じられていた棺桶から解放され、再び現世に君臨する。

 肋骨がビルに突き立って、翼が虚ろに広がっていく。


 竜骸が完全な顕現を終えた時、梓は骸の心臓部に佇んでいた。

 手には、骸の要塞の顕現と同時に展開された黒いおおゆみが握られている。

 矢を番え、弦を引き絞りながら。脳裏では真哉から別れ際に告げられた頼みを呼び起こしていた。

 真哉が見出していた活路。

衝いた

 虚を衝いた一撃でミドゥルを戦闘不能に追い込む。

 単調で浅はかに思える作戦だが、梓の一撃さえあればミドゥルを十分に追い込めると真哉はその竜の慧眼を以てあの僅かなやり取りの中で確信していた。


 一点に。

 ただ一点に狙いを定める。


 真哉ならば必ずそこにミドゥルを追い込むはずだ。

 信じて、梓はひたすら一点のみに狙いを定めていた。


 フェイルノートは全兵装開放時に限り、必中の矢を射ことが可能となる。

 祖竜の骸の高純度の魔力を以て空間を掌握し、発射から命中までの過程の

 省略され、淘汰された因果の果て。

 残るのは、矢を射た事実とそれが命中したという結果それだけ。

 残りの全ての無駄な因果をかなぐり捨てた一矢は、神業と呼ぶに相応しい所業。

 しかしそれは同時に、人の手には余りある力であることもまた事実だ。


「ぐっ……」


 弦を引き絞る梓が顔を歪ませた。

 世界の理から逸脱しようとしているのだ。その身に罰が下るのは、必然だった。


 周囲に満ちる祖竜の魔力が、梓の体を侵していった。

 皮膚を焦がし、血を沸かせ、肉が弾ける。

 人という矮小な器のまま魔法を行使しようとする代償が、屠竜師の持つ不死性を貫いて梓の身体を破壊していく。



 刹那。視界にミドゥルの姿を捉える。それと同時に、対峙する真哉の姿を。

 真哉との一騎打ち。全身全霊。互いの命を賭けた渾身の激突。


 ミドゥルの意識は、対峙する青年にのみ向いている。


 ——……当てられる。


 確信する。

 この一撃を自分が外すことはない。


 弦を弾く。

 瞬間に魔力とマナが混合して白羽の矢が編まれた。かと思えば、矢は虚空に消えてなくなる。

 次に矢が姿を現したのは、ミドゥルの眼前。

 回避も防御も許さずに、因果を超越した鏃はミドゥルの首に食らいついた。

 ミドゥルの身体を循環する魔力と、矢に込められた魔力が触れ合った瞬間。



 力の奔流が衝突し、辺りのマナを一斉に蒸発させた。



 慢心していた。


 弾け飛んだ右半身の傷口の細胞が再生のために疼くのを感じながら、ミドゥルは内心で思った。

 戦いは始まったその時から既に決着していたのだ。

 たかだか人の子一匹逃しても問題ない。そう軽んじていた。


「言ったろ。後悔させてやるって」


 視界の端から声が届く。霞む視界に、人影が映った。

 闇から出でた人影は、人とも竜とも呼べぬ異形の姿をしていた。

 四肢の皮膚は剥がれ落ち竜の鱗に挿げ替えられている。全身の骨格の変形が進行しているようで、顔面の皮膚を突き破った竜の赫い骨が露出している。

 異形が言う。声は先刻までの青年のそれとは全く別の生物の呻きに似ていた。


「お前の相手をしている暇はないんだ。こっちは先を急いでる」


 それだけ告げると異形は踵を返し去っていった。



 真哉が立ち去るのを目で見やってから、梓は再びおおゆみに矢を番えた。

 ミドゥルはまだ息絶えてはいない。

 ここで確実に息の根を止める。


 残る矢には魔法を通さず、魔力のみを込めて打ち出す。

 いくら高い再生力と不死性を持つ竜と言えども、同じ竜の力を持ったものによって魂を傷つけられれば致命的な傷を負う。


 それを人の身のまま実現可能にしているのが魔具であり、それを更に突き詰め魂を一撃で仕留めるように精錬させたのが『竜殺し』の逸品だ。


 梓が構える弩は、命中した竜に致命傷を与える一方で一撃必殺の竜殺しの魔具ではない。

 それ故に、命中したミドゥルは半身を失っても尚肉片を蠢かせ再生を図ろうとしている。

 とどめの矢を放とうとした瞬間。無線機から、低い男の声がした。


「梓、攻撃を止めろ。そいつにそれ以上の手出しをするな」


 声の主は堂島だ。

 街の大半が戦火に飲まれようとしている正にこの瞬間まで連絡ひとつ取れず、戦場にも姿を現さなかった。

 迎撃が始まって以来、一切消息が知れていなかった堂島に、梓は安堵や悪態よりも先に、鋭い疑念を言い放った。


「どういう意味ですか。あれは敵ですよ」


 言いつつ、弦を更に引き絞る。

 狙い定めるのは、地上を這うミドゥルの頭蓋だ。

 展開された竜骸から滲む魔力によって補完された視力でミドゥルを睨めつけた。

 弦を限界まで引き絞る。

 同時に、無線機の向こうの堂島の声が一層低く冷酷さを纏った。


「最後通告だ。攻撃を止めろ。これは魔導局上層部からの直接命令だ。魔導局は今後一切、教団の活動に関与しないことを決定した。今ここでそいつを殺せば、お前も離反者として局の暗部に追われることになるぞ」


 紡がれた言葉の大半の真意を、梓は理解できなかった。

 何せ魔導局と教団は何十年にも渡って水面下での睨み合いを続けてきた犬猿の仲とも呼べる組織同士だ。

 それが何の政治的な介入もなしに突然、魔導局が膝をつく形で冷戦状態に終止符を打つことになるはずがない。

 何かきっかけがあったはずだ。

 何か大きな、二大魔導組織の力の均衡を崩してしまうような決定的な何かが。


「何があったんですか」


 勢い任せに口にした詰問。

 無線機の向こうで堂島が何かを言いかけ、ひとつ呼吸を置いたのが聞こえた。


「教えてください。私にも知っていい権利はあるはずです」


 堂島ですら言い淀むほどの重大な事案なのだろうか。

 間抜けな疑問は、堂島の躊躇いの正体を知らない。

 それが梓の心を大きく揺さぶるものになると理解した気遣いから生じたものであることを。

 堂島の声で紡がれた次の言葉が、鈍器のように重たく頭に響いた。



「八代が教団の信徒を虐殺した」


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