第十二話 『黒い慟哭』

 空から注いだ黒い雨。

 その正体は、竜雲から飛び出した無数の竜の軍勢だった。


 降り注ぐ竜の軍勢が地上に降り立ち翼を広げて、街に残された僅かな人間の命を食らい尽くしていく。凄惨で人の手には抗いようのない理不尽が地上を支配していく。

 けれど逃げ惑う人々とは正反対に、迫り来る竜に抗わんとする朱殷の影たち。


 竜を切り裂き、撃ち落とす竜殺しの手によって、街は血に赤く染まっていった。


 竜の大顎から放たれた火炎の熱線が、摩天楼を焼き払う。

 聳えるビルを融解した火炎は、振り回される鎌首と共に乱舞して街をその灼熱で焼き尽くしていく。

 街に伝播していく灼熱の最中。


 ひとつの人影が、火炎の猛威を振りまく竜に飛び込んだ。


 虹の残光を引き連れ、熱線の包囲の隙間を縫って懐に急接近する竜人。

 瞬きを許さぬ刹那の交錯があった次の瞬間には、竜の鎌首は呆気なく宙を舞った。


「どうして突然竜が……」


 困惑を口にしたロゥリエの顔には、似合わない焦燥が浮かんでいた。

 街の直上に何の前触れもなく竜雲が出現してからというもの、ロゥリエは街を駆け回って地上に降り注ぐ竜を狩っていた。

 くずおれた竜の躯体を一瞥しながら遅れてロゥリエの隣に並んで、真哉は彼女と共に空に聳える黒い竜雲を仰いだ。

 空を埋め尽くす漆黒。

 夜闇とは一線を画す底のない無限の暗闇が、天上に鎮座して影を落としている。街に這い広がる火の海が慟哭の光を放って、降り注ぐ竜の姿を闇の中に鮮明に浮き彫りにしていた。


「藤上さん!」


 頭上からの呼び声。

 向けられた声に応じて視線を返すと、棺桶のような大型の魔具を背負った梓が雑居ビルの屋上からこちらを見下ろしていた。

 やがて何か探すように梓は首を振り、視線を右往左往する。

 だが探していた者の姿はここにはなかったのだろう。表情は陰って、顔は伏せられる。

 憂色を濃くして梓は、地上の二人に向けて声を放った。


「聖華先輩とずっと連絡が取れないんです。何か知りませんか?」


 予想だにしない問い。

 投げかけられた不安げな声に、昨夜の去り際の八代の背中が脳裏に想起する。

 真哉に成す術なく敗北し、その劣等感に苛まれていた八代。彼女の胸中は想像に難くないものではあった。


 けれど声をかけなかったのは、一重にロゥリエに向けられた凶刃が真哉の心に八代に対する深い不信感を植え付けていたから。


 梓の不安を払拭し得る答えを真哉は持ち合せていない。

 首を横に振って返すと、事態の不穏さを察した梓の表情は険しさを増した。


「まさか……何かあったんじゃ……」


 絞りだされた声は動揺を隠しきれていない。

 梓は教会に向かって以降、まるで連絡のつかなくなった八代の身を案じていた。

 その脳裏に、考え得る限りで最悪の可能性が浮かんだ。

 悪夢は止まることを知らず、思考は不安と焦燥で溺死寸前に追い込まれていく。

 いても立ってもいられなくなって、梓は地上の真哉とロゥリエに声を放った。


「私、聖華先輩を探してきます!」


 言い放って、梓はその場を立ち去ろうとする。

 踵を返し、八代の消息が途絶えた教会に向かおうとした瞬間だった。



「やっと会えたな。ロゥリエ」



 低く歓喜する哄笑に、身の毛がよだつ。


 三人の意識を力づくで惹き付ける荒々しく強情な声が背後から突然響いた。

 居合わせた全員が一斉に視線を向けた先。


 そこには、小麦色の長髪を吹き荒ぶビル風に靡かせる少女がいる。

 容姿に見覚えなどはない。あるはずがないのだ。

 だのに、真哉は一目で確信した。


「どうしてお前が生きてるんだ……ミドゥル」


 姿を変え、声を変え、体を巡る魔力の気配を変えようとも決して隠蔽できない邪悪な存在感。

 そこに在るというだけで強大な力の渦を生み出し、マナの流れを穢す竜人。

 真哉に真名を言い当てられて、ミドゥルはほくそ笑む。

 空気が張り詰める。対峙の只中、次に口にする言葉を違えればそれが戦いの火蓋を切って落とさんと確信させられる極度の緊迫。


 ぽつり、と。針に糸を通すかのようにミドゥルが言った。


「来たか。……遅せぇよ。もう始めちまうところだったぜ」


 ミドゥルが見やった先。


 戦火と鮮血に染まっていく街の惨状のなかに、一輪の百合の衣装に身を包んだ少女が佇んでいた。


 伏せられた顔とは裏腹に優美に揺れる菖蒲色の髪。俯いていた顔の頬を一筋の赤い涙が流れていることに、真哉達は気づけない。

 周囲の音さえ魅了して掻き消し、自らの呼吸音すら殺して少女はその場から動かない。

 再会を喜ぶでもなく、アンリエッタはひたすら沈黙を貫き通していた。


 それはまるで、内なる激憤を暗器のようにひた隠すよう。


「アンリエッタ……!よかった!無事だ——」


 無二の友人の無事に安堵したロゥリエが、彼女に駆け寄ろうとする。

 応じてアンリエッタの面が上がる。

 双眸は、かつてない嚇怒に染め上げられていた。



「殺してやるッ!」



 生まれ持った優雅さも。培われてきた気品も。育まれていた友愛も。

 すべて。

 全て、業火に焼き尽くされていた。

 アンリエッタの双眸に睨まれたロゥリエは瞬間、歩み寄ろうとしていた足を止めた——否。彼女の体を構成する細胞の一切が、向けられた竜眼に魅入られて、ロゥリエの脳から流れる信号を弾いたのだ。


「ぇ——」


 怒号と共にアンリエッタが地面を蹴る。

 蹴り返された地面は隆起し、アンリエッタの躯体が宙を躍動する。

 身動きが取れなくなったロゥリエに向かって一切の躊躇もなく襲い掛かる光景は、まさに睨んだ蛙を狩る蛇のそれ。

 接近の最中でアンリエッタは人の肉体を捨て去って竜の巨体を得る。

 大顎を開いてロゥリエの眼前に迫る。

 剥き出しの牙が、状況を処理しきれず硬直したロゥリエの喉に嚙みつかんとしたその時だった。


「ロゥリエ!」


 アンリエッタの竜眼の影響を免れていた真哉が間に飛び込んで、ロゥリエを突き飛ばした。

 突き飛ばされたロゥリエがやっと肉体の感覚を取り戻してから目にしたのは、とても受け入れられない白昼夢のような光景。


 最愛の真哉の肩に、友人だった竜の牙が深く食いついていた。


 肩に牙を突き立てたままアンリエッタは真哉を引き摺っていく。

 純血の竜であるアンリエッタの竜態の膂力から、真哉が腕一本程度の力で脱せられるはずがない。

 鞭のようにしなった鎌首に弄ばれて、真哉は硝子張りのビルの向かって無造作に投げ捨てられた。


 明かりひとつないビルの闇の中。

 投げ捨てられて尚、真哉は立ち上がっている。肩からはとめどなく血が流れ、靭帯を損傷した腕は脱力している。投げられた衝撃で頭から血を流しているが、それでも真哉は立ち上がっていた。


「ロゥリエェェェ!」


 アンリエッタの双眸が向けられる。

 もはや穏やかで可憐な乙女だった彼女など微塵も見る影のない、憎悪と怨念だけがそこにはあった。

 対話の余地など有りはしない。

 問答無用で長い尾の一振りがロゥリエの脇腹に叩き込まれて、ロゥリエも容赦なく吹き飛ばされた。


 状況に思考を停止され無防備だったロゥリエに、躊躇いなく一撃を叩き込んだアンリエッタ。やがてミドゥルが肩を並べた。

 全神経を戦闘に向け調整していくミドゥルが捉えているのは、たった一度の先制の一撃で死に体になっている真哉だ。

 全身の出血など知らぬ修羅の形相で構える真哉に向け嘲笑を浮かべると、腹の底から込み上げてくる瘴気を吐き出すアンリエッタに言った。


「餓鬼は俺が相手してやる。お前はロゥリエを殺れ」

「黙っていて。今はすごく気分が悪いの」


 会話とは言い難いやり取りを交わして、ミドゥルとアンリエッタはそれぞれの標的を視界に捉える。


 ミドゥルは、血塗れの死に体となった真哉を。

 アンリエッタは、脳震盪を起こし立ち上がれないロゥリエを。


 その命を刈り取るべき、障害として見据えていた。


「起きなさい。ロゥリエ」


 言い放たれたロゥリエは未だに状況を理解しておらず、混乱の渦中から抜け出せずにいる。アンリエッタとミドゥルが言葉を交わしているのを目の当たりにして、顔面蒼白としている。


 ロゥリエを睨みながら、アンリエッタは脳裏に葬られた最愛の竜の姿を思い浮かべた。彼がどんな想いで死んでいったのか。想像するだけで、目の前の竜人の首を跳ねてやりたくなる。

 最愛の人の血に塗れた手を差し伸べてきた外道。

 地獄を見せてやらねば、死んでも死にきれない。


「地獄に叩き落としてやるわ」


 ——


 受け身を取る間もなく振り抜かれた一撃に軽々と吹き飛ばされ、ロゥリエは真哉と梓から完全に分断されてしまっていた。

 頭から流れる鮮血がアスファルトを赤く染め、折れた肋骨が呼吸の度に顔面を歪ませた。

 下がっていた顔を上げ、菖蒲色の躯体の竜を見やる。

 重たい足音を鳴らしながら竜は迫り、やがてこちらの表情から何か読み取ると、表情を彩る筋肉に乏しいはずの竜の顔面に底知れない憤怒を刻み込んだ。


「まだ死ぬには早いわよ」


 忠告は決して友人に向けられていいものではなかった。

 深い軽蔑と嫌悪が込められた声音。

 友であることを誓ったあの時とはまるで別人の冷酷な声に、ロゥリエは知らず固唾を飲んだ。

 迫る足を止めた竜に、問いかける。


「どうして」


 弱々しい、零れるような声。

 絞り出された悲鳴を聞いて、竜は顔面を怒り一色に染め上げると腹の底から湧き出る瘴気の正体を怒号と共に言い放った。


「騙したのはお前だろ! 被害者ぶるな! 私の心を、あの人の死を弄んだ悪魔め! 自分の罪から逃れようとしたくせに!」


 糾弾は容赦なく牙を剥く。

 金切り声は、喉笛に食らいつく蛇の毒牙のように僅か一手で心を抉った。


「ちが——」

「言い訳しないで!」


 弁明の余地などない。

 否定を遮って、アンリエッタが地面を蹴った。

 翼が大気を叩きつけ、竜の体を躍動させる。

 瞬く間に眼前に迫ったアンリエッタの鉤爪が振り翳される。


 視線がかち合う。


 瞬間交わされた彼女の瞳には、悲痛に泣き喚く少女の涙と、復讐に燃える未亡人の怒りが混在していた。


 ―――


 肩を深く抉られて尚、真哉は意識を保ったままにじり寄って来るミドゥルを睨んでいた。

 反撃に転じることなくアンリエッタの攻撃をいなし、防戦一方な戦闘を強いられ続けているロゥリエを見て、ミドゥルは肩を竦めた。


「泣かせてくれるよな。友情ってやつは」


 それが何たるかをミドゥルは知らない。

 作った表情と絞り出した雀の涙を浮かべて、アンリエッタとロゥリエの苦痛を邪悪な笑みと共に嘲けていた。

 邪悪な笑みで友情の崩壊を見守る悪魔の足下に、不意にひとつ影が落ちる。


 近接兵装を展開した棺桶の魔具を手に、梓が頭上を取っていた。


 ミドゥルが視線を梓に寄越す。

 梓の棺桶の一撃は、合金をも凌ぐ剛性を持つ竜の頭蓋をいとも容易く粉砕する。それを人間と同じ人体構造を持った竜人が防げる道理はない。

 だというのに、ミドゥルは余裕の笑みを浮かべ、あろうことか振り下ろされる棺桶を受け入れるように腕を伸ばした。


 次の瞬間。真哉は目撃する。


 鉄槌を受け止める腕が、


 大地をかち割る威力の一撃は、伸ばされた片腕によって受け止められていた。

 一撃を受け止められた梓が状況を理解する暇はなく、ミドゥルの竜そのものの膂力を振るう剛腕が棺桶ごと梓の体を投げ飛ばす。

 投げられた梓は受け身を取って、真哉の傍らに停止する。

 真哉の肩の傷を見やって目を見開くが、身を案じる間もなくミドゥルが二人の前に現れた。


 四肢は竜のそれに変貌を遂げ、服を突き破った長い尾が地面を叩く。

 半竜半人。

 そう呼ぶにふさわしい未曾有の存在へと変身を果たしたミドゥルの顔面には、人も竜も隔てなく見下す傲慢が宿っていた。


「その姿はなんだ。お前は死んだはずだろ。なんで生きてる。答えろ」


 疼く傷の苦痛に堪えながら問いかける。

 出血の影響でか視界が微かに揺れ始めるが、いまここで倒れることは許されない。


 ——早く、ロゥリエを助けないと。


 脳裏にちらつくのは、アンリエッタとの攻防の中で確実に魔力も体力も消耗していっているロゥリエのことだ。

 一刻も早く彼女を助けなければ、手遅れになる。

 流れ込んでくる思考の中のロゥリエは、反撃に出ることを心の底から拒んでいる。

 消耗が続けばアンリエッタが有利に戦況を運ぶことは真哉にも容易に理解できた。


 やがて顔面に張り付いた歪んだ哄笑で。聞いた者の潜在的な恐怖を煽る野性的な声で、ミドゥルが答えた。


「率直に言えば、死んでない」


 理解の及ばないミドゥルの言葉に、思考は停滞せざるを得なかった。

 ロゥリエの剣は『竜殺し』の加護を受けている。

 剣に切り裂かれた竜は、己を構成する魂を真っ先に破壊される。


 竜は魂にこそ、その生命の真髄を秘めているのだ。

 核心を砕かれた竜は、魂も肉体も丸ごと崩壊を起こして死に至る。

 魂ごと破壊され消滅したミドゥルが死を免れたというのは到底有り得ない。

 問い返すよりも早く、こちらの胸中を察したのだろう。ミドゥルが続けた。


「竜の自己修復の原理、知ってるか?」


 知っているに決まっている。

 竜の持つ魂は、星に記録されたあらゆる事象の集積物だ。

 ひと欠片砕けたとしても、魂が完全に消え去ることはない。

 それを個体ごとに保持している竜が強力な自己修復能力を持つのも、彼らの魂が人間のそれよりも高位に位置しているからに他ならない。

 こんな基礎知識が彼女の復活と何の関係を持つのだろうか。

 考えていると、ミドゥル。


「魂の一部を人間に移植したまま、大部分の魂を持つ竜が死ぬとどうなると思う?」

「まさか……」


 脳裏に強く最悪の想像が過る。

 最低の手段。一人の人間の人生を破滅させる極悪非道極まる所業。

 それが事実なのだとしたら、いま目の前にいる竜は万死に値する醜悪そのものだ。

 嫌悪感を禁じ得ない醜悪さで生にしがみついていた邪竜が、人間の体を竜の鱗で浸食していきながら言った。


「残された魂の欠片に引き寄せられて、竜は新しい肉体に自分の魂の情報を上書きできる。……御託はもういいよな」


 吐息と共に、高揚が言葉にされる。

 官能的で煽情的な声とは裏腹に、辺りの空気が殺気に飲まれ——。



 赤雷が走った。


 アスファルトを隆起させる超跳躍。

 電光石火の勢いで迫った足が振り上げられて、梓が間一髪で受け止める。

 続けざまに身体を捻って振り下ろされた拳を捌き、梓は数歩退きつつ棺桶を大きく振り抜いた。

 渾身の一撃だが、ミドゥルは容易くそれを躱している。


 振り抜かれた棺桶の下に真哉は潜り込み、手に固く拳を握った。

 死角からの一撃。ミドゥルには見えていない。


 全霊の魔力を込めた拳をミドゥルの胴に叩き込もうと、床を砕く勢いで踏み込む。


「甘く見られたもんだな。俺も」


 言ったミドゥルと、棺桶の影から飛び出した途端に視線がかち合った。

 不意に視界が、一段落ちる。

 ミドゥルの尾に足を払われていたのだ。

 拳がミドゥルに届くことはなく、代わりに眼前に竜の脚が迫る。

 防御が間に合うはずなく、顔面に重い一撃が叩き込まれた。


 ——


 アンリエッタの放った魔力の砲弾が、ロゥリエの背後の摩天楼に無数の風穴を開けた。


 雑居ビルの屋上を駆け抜け、路地裏の渓谷に飛び込む。

 アンリエッタが待ち構えるのとは反対側の道路に出ようと建物の壁を蹴り返し、外に飛び出す。

 同時に、視界に映る街並みが異質な赤い燐光を弾いていることにロゥリエは遅れて気づいた。


 天上を仰ぐ。

 空から無数の魔弾の雨が注いでいた。

 放っているのは、アンリエッタとロゥリエの戦闘に先刻までは目もくれなかった無数の雑兵の竜達だ。

 いまやその全てがアンリエッタの竜眼に精神を犯され彼女の従順な手駒となっている。


「……ッ! 手を貸して!」


 地上の光に呼び掛け、注ぐ破壊の雨を光の触手で焼き切っていく。

 一発の威力も出力も、ロゥリエが操る光の腕に軍配が上がることは間違いない。

 しかしあまりに多すぎる手数を前にして、光の腕を操るロゥリエの意識は分散する。

 数発取りこぼした魔弾が、眼前に着弾して土煙を広げた。

 元より目隠しをしていたロゥリエが物理的に視界が奪われることはない。

 けれど爆ぜた分厚い魔力の霧が、対象の魔力の気配と揺らぎから疑似的な視覚を得ているロゥリエの心眼を潰した。


 視界に、ジャミングが走る。


 ——何も見えない……!?


「ロゥリエェェェ!!!」


 土煙のなか。

 人態となったアンリエッタが躍り出る。

 視界を奪われたロゥリエには、アンリエッタの拳に収束していく魔力の奔流だけが見えている。

 不意打ちを予測していたロゥリエはすかさず全身の魔力をその一撃に対する防御に割り振った。

 だが、ロゥリエの体内の魔力が一斉に動きを見せた瞬間、アンリエッタの拳の魔力はすべて彼女の足下へ収束していった。


「なっ……!?」


 魔力につられたロゥリエの不意を突く、渾身の中段蹴り。

 がら空きだった胴に叩き込まれた一撃をもろに受け、ロゥリエの華奢な躯体は軽々と地上に落ちた。


 蹴飛ばされたロゥリエが辺りを見渡すと、真哉や梓の気配も感じられないほどの濃密で分厚い魔力の霧が立ち込めている。霧の内部はマナの存在まで薄くなっているようだ。

 満ちる魔力の全ては、アンリエッタの為に在る。

 主の傷を癒すため。主の身を護るため。主の力に変わるため。

 空間の全てが、アンリエッタの為だけにあろうと存在すべてを歪ませていた。


「これがアンリエッタの竜眼……」


 声にはせず、光に呼び掛けてみる。

 だが、応じるものはいない。

 彼らもまた、アンリエッタの従順な下僕と化している。今や淫魔の眼を持たない者の声には、微塵の関心もないようだった。


「無駄よ」


 光に無音の呼び掛けをしたのも、彼女には筒抜けらしい。

 光はすべて、如何に彼女を美しく照らすのかそれだけに存在意義を固定されてしまっているようで他のものには見向きもしない。

 見れば魔力の霧の向こうから無数の竜の眼がこちらを覗いていた。彼らもまた、アンリエッタに忠義を尽くすだけの奴隷なのだろう。呪縛めいた魅了から逃れようと抗う者すらいないようだった。

 ひたすらにじっと主が対峙しているのが一体何者であるのかを観察していた。


「どうして反撃しないの」


 不意の質問。

 僅かながらに怒気を帯びていた声は、音さえ魅了された霧の中で唯一鮮明に響いた。

 視線を返すと、アンリエッタの怪訝な視線が注がれた。同時に蔑むような冷たい感情が瞳には宿っていた。


「貴方、手を抜いているでしょう。……貴方が本気を出せば、私程度簡単に殺せてしまえるのに。それはどうしてなの」


 一見は凪のように穏やかな声音だが、その心の最も深い部分にはやはり怒りの感情が渦巻いている。

 端的で遠慮ひとつない言葉を手に取って投げられた問いに返せる答えを、ロゥリエはたったひとつしか持ち合せてはいなかった。

 言えば、アンリエッタを憤慨させるかもしれない。傷つけるかもしれない。

 けれども彼女に反撃しない理由など、ひとつを除いて他にあり得なかった。


「友達だから。たった一人のわたしの友達だから」


 答えを聞いて絶句した。

 脳裏に浮かべ並べていた罵詈雑言を吐き出す間もなく、思考は真っ白に洗われた。

 そして固く閉ざしていた扉をこじ開ける、見て見ぬふりをしてきた感情。

 たった一滴きりの僅かな感情は、しかし憎悪と復讐の黒い渦のなかに紛れると確かに思考を鈍らせる劇薬に豹変する。


 友達を傷つけたくない。


「今さらそんな綺麗ごと……! もう後戻りはできないのよ!」


 言い放ったアンリエッタの表情は悲愴に溺れかけていた。

 向けられた顔は、胸中に込み上げてくる憎悪と溢れかえる悲痛のせめぎ合いに擦り減りながら果てのない葛藤を浮かべている。

 憂いを払拭するように首を振り、アンリエッタは再び体を竜の巨体に変貌させていく。

 軋み悲鳴を上げる心を握り潰すように、竜の双眸の奥に在りし日のガンドの姿を浮かべながら、ロゥリエを睨めつけた。


「私は貴方を殺さないと……、ガンドに会わせる顔がないのよ!」


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