第一話 『光より出でて』

 痛みに悶える者が居た。恐怖に屈する者が居た。怒りに震える者が居た。


 みな等しく、全てを奪われていた。


 避難所の空気は、酷く澱んでいた。

 生死の境を彷徨さまよい、地上の惨劇を目の当たりにして。地下の避難空間に逃れてきた人々は皆、憔悴しょうすいしきっている。

 地上から響く振動に天井吊りの照明が揺れて不安を煽る。地上から響く轟音が鼓膜を揺らし恐怖を煽る。

 薄闇のなかに浮かび上がる人々は、一様いちように世界に絶望していた。


「あ、あの——」

 

 落日のを映したような暗い赤髪と、鉛を研いで取り出した黒金色の光沢の——しかし光を宿さない双眸を、真哉は声のした方に返した。

 そこに居たのは、四十代半ばに見える細身の女性。動揺を隠せていない様子で、手は小刻みに震えている。瞳に底知れぬ絶望を浮かべながら、女性が口を開いた。


「娘を見ませんでしたか……! ここに来る途中ではぐれてしまって……! 小柄で、童顔な子なんです! 中央区の私立高校に通っていて、髪が長くて、あと……」

「えっ、いや、そんなに急に言われても……!」


 矢継ぎ早な詰問に、真哉は困惑し情報処理が追いつかない。

 女性は焦っているようで、幾ら制止の声を掛けても聞く耳を持たず。次々に娘の特徴を言葉として乱立していった。

 辺りの避難者たちも女性から同じような質問攻めに遭っただろう。無言で助けを乞う視線を送っても、皆他人事ひとごとだと目を逸らすばかりだった。


「あの子がいないと私はもう生きていけないんです……! だからどうか——」

「娘さんを探しているのなら、通信室に向かってください。はぐれていても、他の避難所でご無事かもしれませんから」


 不意に、女性に向けて声が放たれた。


 女性が視線を返した先に居たのは、朱殷の外套を纏う屠竜師の少女。

 後ろで結んだ深海色の長髪。髪と同じ色彩の双眸は鋭く、毅然きぜんと真っすぐに向けられる。

 纏う外套は、機能性を優先しているようだ。丈の短い外套の下から、すらりと長く伸びる足には、自動拳銃が仰々しく差し込まれていた。


 つい先刻。竜から真哉の身を守った屠竜師の少女はやがて、向けられ続けた女性の不安げな視線に、穏やかに笑みを浮かべて返した。


「娘さんが心配ですよね。お気持ちは分かります。……でも、どうか落ち着いてください。今は、混乱だけは避けなくてはいけませんから」


 少女の言葉に、自身が辺りに混乱を蔓延まんえんさせようとしていたことを自覚したのだろう。我に返った女性は深々と辺りの避難者に頭を下げた。他の避難所と連絡を取るため、足早に一般開放され始めた通信室へと向かって行った。

 女性が去ると、少女が真哉を見返す。


「相変わらずね、藤上君」


 ほんの少しの呆れと安堵が、ぎこちなく混じった声色。

 少女に名を呼ばれた真哉もまた、顔見知りだった彼女の名を呼びながら返答した。


「八代さん。久しぶり」

「ええ。こうして話すのは学校ぶりね」


 八代聖華やしろせいか。ほんの半年前までは、同じ学び舎で勉学に励んでいだクラスメイトだった彼女は今や、戦場で竜と対峙する勇猛な屠竜師の一人となっていた。

 再会を祝する言葉もなく、八代は地下に広大な空間をくり抜いて作られた三階層の避難所を見やった。その横顔に問いかける。


「どうしてここに」

「前線が落ち着いたから私はこっちで後方支援。もとい地下の秩序維持ね。こういう時、皆気が立って仕方がないから」


 言った八代を横目に見やって、真哉は三階層に区切られた避難所の一階を見やった。

 地上の防衛戦の衝撃が時折地下にまで響いてくる。その振動に怯える子供を両親がなだめていた。

 その姿を見た真哉は脳裏に、先刻の勇気と少年の姿を重ねていた。


「八代さん。勇気と、あの子はいま……」


 八代の奇襲によって命拾いした真哉は、彼女が引き連れていた誘導員によってこの避難所まで護衛されてきた。道中で勇気と少年は護送車に担ぎ込まれ、真哉はその後彼らがどうなったのかを知らずにいた。

 八代が答える。


「魔導局の医療班が預かってるわ。大丈夫、きっと明日にはいつも通りの生活に戻れるから」

「そっか。助かったよ」


 一抹の不安だった勇気と子供の安否を知った真哉は、視線を背後の避難所に向けた。


 皆、不測の事態に不安を抱いていた。

 我が子を抱き抱えて、うずくまる母親。互いに身を寄せ合って、安息を求める少年と少女。神に祈りを捧げ、ゆるしを乞う信者。

 皆、何かに縋っている。

 いつ訪れるかもしれない孤独に怯え、恐怖していた。


「藤上君。貴方も休みなさい」


 八代が声を向けてきた。

 見返すと、その手には野戦食が握られていた。真哉の目を盗んで、ぱくついていたのだろう。

 真哉が視界に野戦食を捉えると、背後に回して隠していた——が、それを小馬鹿にするように、ぎゅるるぅ、と彼女の胃が悲鳴を上げた。きっと前線での激しい戦闘で、身体が限界を迎えているのだろう。

 煤のついた頬を微かに赤くしながら、八代は真哉を避難所の端に追いやるように手を払った。


 大人しく彼女に従って、真哉は自身に与えられた避難スペースに向かって歩いた。


 ――


 パーテーションが迷路のように並ぶ二階の避難所を歩く真哉の視界に、ひとつ人影が映り込んだ。

 人影があるのは、真哉が避難スペースとして与えられた場所だった。人数に換算すると真哉一人分しかないはずのそこには、何故か先客が居る。

 場所を間違えてしまったのだろうか。こんな迷路のような避難スペースでは無理もないのだろうが……と思いつつも、真哉は占領された避難スペースに辿り着いた。


「あの……すみません。そこ、僕が使っていたんですけど」


 見たところ十代半ばの少女のようだ。潔白の白い衣装が目を惹き、肩下まで伸びるするりと長い銀の紗の髪が重力に従って、俯いた彼女の表情をそのベールで隠している。


「……」


 呼びかけてみても、返事はない。

 困った顔のまま真哉は暫時思考して、ここでトラブルを起こしてしまうことだけは避けねばなるまいと状況を許した。

 少女の隣に腰を下ろし、問いかける。


「君はひとり?」

「……」

「どうしてここに? 家族とか、友達は一緒じゃないのかな」

「……」


 膝を抱えたまま沈黙を続ける少女。

 きっと地上で余程凄惨な光景を目の当たりにしたのだろう。ちいさなその手が、静かに震えていた。


 勇気ならばこんな時、どんな言葉をかけるだろうか。

 この場にいない彼の思考を模倣して、考えてみる。


「大丈夫だよ。……きっと、地上にはすぐに出られるようになる」


 言うと、少女の手の震えが収まった。

 俯いたままだった顔が微かに持ち上がって——しかしその顔が見えることはなく、視線だけが感じ取れた。


「……」


 相変わらず沈黙したまま。

 少女が、震えていた手をこちらに伸ばしてきた。

 その意図を理解できぬまま真哉が小首を傾げていると、


『手、にぎって』


 少女が細く、そう呟いた。


「……うん、いいよ」


 言われるがまま、真哉はぎこちなく少女の手を握り返す。

 

 まるで温度を持っていなかったその手に、自らの温度を分け与えるように、真哉は少女の手を強く握った。


 そうして名前も知らぬ少女の手を握ったまま座り込んだ真哉の脳に、やがて緩やかな睡魔が忍び寄った。


 ——


 真哉の避難スペースのある区画を通りかかった八代は、外套のポケットの中に忍ばせていた野戦食を取り出しながら、彼の避難スペースを見やった。


 疲労と睡魔に負け、座り込んだまま寝入ってしまったらしい。一人用の避難スペースの端に座り込んだまま、寝息を立てている。


「……もう」


 呆れとともに歩み寄って、だらんと垂れていた腕を折り畳む。

 その中に二人分の野戦食と、勇気が明日この避難所に移動してくるむねを記したメモを忍ばせ、落ちていた寝袋を膝の上に掛けてから、八代は踵を返した。


 ――


 ぐわん、と。

 地面を撫でるような振動を感じて、真哉は意識の覚醒を余儀なくされた。


「地震……?」


 天井を仰ぐと、宙づりの照明が独りでに揺れていた。体を起こすと懐から二つ野戦食が落ちる。

 落ちた野戦食を拾い上げる手の中を見て、真哉は眼を剥いた。


「あの子は……!?」


 隣にいたはずの少女が居ない。

 激しい振動にどよめく避難者の中に少女の姿を探すが、見当たらない。思わず避難スペースを飛び出し、吹き抜けになっている避難所の二階から一階の広場を見下ろした。

 そこにも、少女の姿は見当たらない。

 上下左右に暴れ回る照明の狂乱に、真下ましたに居た人々は場を離れて様子を見守っている。

 不意に人混みの中から、一人の男の声が響いた。


「ああ! 届いたのですね! 私の祈りが! 私は此処ここです! 私は此処にございます! 神の子ファブニールの末裔よ! 我が魂は此処にございます! どうか、この醜き肉の檻から我が魂を解放し、楽園へ導く救済を……!」


 人混みを掻き分け、揺れる照明の直下に飛び出したのは、白い外套の男。

 男が何を言っているのかを、真に理解を示せる者など、当然いない。

 男を物陰に引き戻そうとする者、男を気味悪がって遠巻きに蔑む者が居る中でなお、男は天に向かって救済を求め続けた。


「東の門を満たす祝福をこの地に……!」


 言葉の真意をその場に居合わせた皆が察するより早く。



 地下空間の天井に、大穴が開いた。



 鈍重な衝撃は、落雷が大地を叩き割ったと錯覚を起こすほどだった。

 瓦礫の雨が止むと、舞い上がった土煙も晴れていく。

 やがて状況を理解出来ていなかった人々の前に、避難空間の天井を突き破った張本人の姿が現れた。


 天井——つまりは地上を貫いて、地下空間に顔を覗かせていたのは、巨大な竜の頭。


 全長五十メートルは優に超えているであろう大型個体。

 鋭い竜の眼球が、ぐるりと地下空間の人影を見回す。やがて視線は、崩落の被害を免れ、奇跡的に無事だった眼下の白い外套の男に注がれた。


「おお……! 神の子よ! 我が魂を——」


 ばくり。

 男の頭が、啄まれた。


 皆が沈黙する。誰もかれもが絶句する。呆然と立ち尽くす。

 身動きひとつ取れず、硬直したまま。竜を見つめているばかりだった。


 逃げないと。


 そう、誰かが零した途端。

 人々の意識は、地下からの脱出ただそれだけに絞られた。


「早く逃げろ!」「子供がいるの!先に行かせて!」「お母さん! お母さん……!」「やめて! 子供が下敷きに……!」「俺が先だ! どけ!」「どうしてこんな……! ああ、どうか……どうか! 命だけは……!」


 男が走る。女が逃げる。子供が泣き、老人が命を乞う。

 逃げ惑う人々を見下ろしながら、竜は地下空間をぐるりと見回す。

 やがて喉の奥に魔力が収束していく。

 竜の内で肥大化していく魔力が、赤く熱を帯び始める。魔法の燐光を纏い始める。


「やめ——」


「グオオオッ!!」


 咆哮が地下を震わせて、収束した魔力が虚空に物質を生成しながら放たれた。

 指向性を持たない魔力の拡散は、大岩の破裂へと様変わりして、我先にと出口を目指す人々の背中を射貫いつらぬきき、砕き、擦り潰す。


 瞬く間に血潮が吹き荒れ、臓物が転がる。


「藤上君! 無事!?」


 呆然と傍観していた真哉の背中に、怒号にも似た八代の声が向けられた。背後には数人の屠竜師が避難者たちを守りながら離脱していて、通路はあっという間に人の子で溢れ返った。


 怒号が飛び交う。悲鳴が飛び交う。

 混乱が地下を掌握している。


 最悪の事態の中で戸惑いながらも真哉は頷いて、八代の後に続いて走り出そうとした。

 だが、思考の奥底に、あの白い少女の姿が過る。

 あの震えていた小さい手が。


「八代さん待って! 僕、女の子と一緒に居たんだ! あの子も一緒に……!」


 言い放つと、八代が真哉を見返した。目は疑念と困惑に染まっている。


「何言ってるの。貴方は最初から一人だったじゃない」


 冷徹に放たれた八代の言葉に、真哉は返す言葉を無くした。

 そんなはずがない。

 手まで握っていた。確かに少女はあの場に居たのだ。


「そんなはずないだろ……! 探してくる!」


 言って、踵を返し、避難所の最奥に向かって走り出そうとした。

 瞬間、竜の眼がこちらを向く。

 見開かれていた竜眼が、真哉の魂に牙を剝いた。


「——」


 蛇に睨まれた蛙とは、このこと。

 竜眼を直視した真哉の体から、一切の自由が奪われた。

 立ち尽くした真哉に向かって、竜が顎の中に秘めた魔力を放出する。

 魔力が世界を蝕んで、巨大な岩石が生成される。大質量の砲撃が、矮小な人の子を擦り潰さんと空を切った。


「ばかッ!」


 舌打ちと同時に、八代は強く地面を蹴った。

 跳躍は、たったひと蹴りで真哉との間にあった差を無くし、二歩目には硬直した真哉を抱えて岩石の着弾点を逃れていた。

 着地と同時に地下空間から離脱を開始する八代の肩の中で、真哉は彼女に怒号を放った。


「何してるんだよ! 中にまだあの子が居たかもしれないのに!」

「ばか言わないで! 貴方はここに来た時から、ずっと一人だったじゃない! 今は逃げるわよ!」


 八代の腕から逃れようと真哉は足掻くが、魔力によって強化された彼女の怪力に制されて、身動き一つ取れなかった。

 みるみる遠ざかっていく地下への入り口。

 ついにそこが、竜が八代を追って放った岩石によって塞がれてしまった。


 ――


 地下と直接繋がっていた地上の中央図書館の中庭に飛び出すと、そこは地下から脱出してきた人々で埋め尽くされて、場は酷い混乱の中にあった。

 真哉を投げるように肩から下ろし、八代は一気に地上までを駆け抜けた疲労に呼吸を整えた。


「どうしてっ……!?」


 魔力を回して腕力を強化していたはずだ。

 並みの人間に力負けすることなど在り得ない。

 そのはずなのに真哉を担いでいた腕は、あろうことかほんの数秒で痙攣を起こすほどの筋疲労を起こしていた。

 筋肉を急ぎ修復する為に魔力を腕に集中させながら、焦燥と混乱を同時に双眸に湛える八代の背に、真哉の声が放たれた。


「どうして……! なんで見殺しにしたんだよ! まだ中にはあの子が!」

「……っ、貴方に死なれると寝覚めが悪いの! 知り合いが死ぬ姿なんて私は——」


『愚かなる人の子よ。楽園を追われた罪人の末裔よ。汝らの身に、祝福を与えよう』


 不意の『声』が、頭上より注がれた。

 弾かれるように人々の視線が、声の発生源へと向けられる。

 そこに居たのは、地下に顔を覗かせていたあの巨竜。三階建ての背の高い図書館の屋根を上って、頂上から中庭に逃れてきた人々を見下ろしている。


『我が名はガンド。『大地の化身』の末裔にして、ファブニールの血族だ。痛みはない。眠るように、逝くと良い』


 竜の声。口は動いていない。

 人間の魂そのものに呼び掛ける声が、しかして竜の魂から発露されているのだ。


「まさか……っ!」


 竜の死告を聞くのと同時に、八代の背中を悪寒が撫でた。

 次いで、遥か天高い頭上に膨大な魔力の収束を八代は気取った。

 最悪の想定が的中してしまったことに歯軋りして、呆然と竜を見上げる避難者たちに一斉に呼びかけた。


「物陰に隠れて! 早く!」


 叫びと同時に。



 夜天が、赤く爆ぜた。



 赤く染まった漆黒の夜空を仰ぎ、八代は目の当たりにする。


 地上に迫る、無数の隕石の雨を。


「……っ! 藤上君! 逃げるわよ!」


 言って、八代は背後に居た真哉の腕を掴んだ。彼を抱え上げ、図書館から離脱しようとする。

 彼を抱え上げる最中、八代は自らの薄情さを呪った。

 他にも避難者は大勢いる。救わねばならない命は大勢ある。

 その命の重さには差異なんてないはずなのに、気が付いた時には真哉一人を連れてこの場を離脱する選択を取ってしまっていた。

 顔見知りというただそれだけの理由で。

 八代の命の天秤は、真哉の命を他の避難者のそれよりも重く扱っていた。

 だが——、


「八代さん!? 離してくれ!」


 言い放って、真哉が八代の腕から逃れた。

 石畳の上に打ち付けられ、真哉は逃げ惑う人々とは真逆の方向を見やっている。


「あの子が居たんだ! 足を怪我してる!」

「何を言って……!」


 八代は、彼が一体何を言っているのかを理解できなかった。

 緩んだ手から、真哉が飛び出して人の流れに逆らって駆けだしていった。



 



 人混みを抜け出した真哉の眼には、あの白い衣装を纏った少女の姿が見えていた。

 地下からの脱出で、他の避難者に揉まれたのだろう。足を引きずりながら歩いている。数歩地上の土を踏みしめ、赤く染る夜空を仰いで、冷たい微笑を浮かべていた。


「君! 早くこっちに……!」


 頭上が鮮烈な赤に染まる。

 質量の雨が重力に従って、空を切り裂く音が響く。

 

「ばか! 何やって——」


 真哉に向けて伸ばした八代の手は、虚しく空を切った。



 次の瞬間、赤い流星群が地上に降り注いだ。



 それから先、何が起こったのか。意識が途切れた八代には分からなかった。


 振り払えない痛みに苦悶を浮かべながら、身体を起こして、八代は立ち上がる。

 幸いにも意識を失っていたのは数秒間だけだったらしい。

 だが、眼を持ち上げ辺りを見やって。その数秒の意味合いは、大きく揺らいだ。


 地表から何もかもが、消失していた。


 避難所と繋がっていた図書館を中心に、辺り一帯が焼け野原になっていた。

 何もない。建物ひとつ存在していない。

 僅かに生き残った避難者もいるが、ほとんどが放心しているか、正気を失くして笑っていた。


 ——離れないと。


 脚を無理やり動かし身体を鼓舞する。

 しかし背後から、それを引き止める声が聞こえた。


「八代さん? いま何が起きるんだ。何も、見えないんだ。真っ暗で、何も……」

「藤上君……!」


 振り返った。

 八代は巨竜の魔法の直撃を浴びなかったため、比較的軽傷だ。


 だが、真哉の声がした場所は巨竜が落とした隕石に抉られて、地面が裏返しになってしまっている。

 真哉が生きていること自体が不思議でならないほど凄絶な破壊が地上に刻まれていた。

 そして八代の目に、真哉の身に起きている異常が飛び込んだ。


 真哉は、両眼が潰れてしまっていた。


 彼はそれを知る術がない。

 顔面以外にも手脚が奇妙に折れ曲がったりしているが、視覚を失った今の彼にそれを感じることは出来ないらしい。

 言葉を失った。だが、それは彼の傷の深さばかりが原因ではない。


 むくり、と。

 何食わぬ顔で瓦礫の中から真哉は這って出たのだ。

 痛みも、恐れも何ひとつないかのような。平然とした表情で。


「あの子を助けないと」


 衝撃から目を覚ました真哉の思考にあったのは、それだけ。

 理性が壊れたかのように。何かに取り憑かれたかのように。

 

 真哉は歩き出した。


『助けて』


 少女の声がした。

 助けなければ。

 助けを乞う人々を救わなければ。


「何言ってるの。貴方そんな傷で……っ、もう動かないで!」


 八代の声だ。

 震えている。

 腕を掴まれているような感覚があったけれど、振り解いた。

 何故、邪魔をするんだ。あの子の声は、まだ聞こえているのに。

 どうして止めるんだ。……どうして。


 ——誰かを助けられる人間になりたい。

 ——せめて自分が一度手を差し伸べた人くらい、最期まで救える人間になりたいんだ。


「無茶言わないで! もう止めて……っ! 竜が来る……ッ! 早く逃げないと!」


 引き剥がしたはずの手が、また腕を掴んだ。

 真っ暗な視界のまま振り払い、呼吸と魔力の気配だけで八代の身体を突き飛ばした。

 すると何故だか、彼女の声は遠くなる。痛みを訴える声がしたけれど、構わず歩を進めた。


 邪魔がいなくなる。


 ——竜がいるなら尚更だ。絶対に助ける。


『助けて』


 少女の声だけが指針だった。

 声のする方へ歩み寄る。

 手探りで彼女の姿を探るが、そこに人の温度と感触はない。

 あるのは重さのある瓦礫の山。……まさか。


 ——すぐに助ける。もう少し耐えて。


 瓦礫の山を掻き分ける。いつかの友のように。

 がむしゃらに続けていると、積み上がった瓦礫の感覚が突然軽くなった。

 助けを求める少女の気配が、瓦礫の奥に広がる空間から感じられる。


 真っ暗な視界の外で、何かが迫る音が大きくなっていた。激しい足音と振動を伴って近づいてくるそれが、八代の言った竜なのだと直感する。


『何をしている……! それは私が求めていたものだ!』


 竜が迫るまで時間はない。手を伸ばし、少女を喚んだ。


「早く……っ! 手を!」


 しかしながら真哉が手を伸ばした先に、

 在るのは、淡い光を放つ魔力と、渦巻く星の力マナの奔流だけ。


 だが、真哉が手を差し伸べると、確かにが彼の手を握り返した。


『そこを退けッ! これは私が―—』


 巨竜が、溢れる力の奔流ごと二人を飲み込まんと迫った。



 刹那、闇夜が虹の光に満たされた。



 光が弾けた直後。巨竜は、何者かの手によって地上から空に投げ出されている。

 己の巨体を持ち上げた相手を探って視界に飛び込んだ光景を、巨竜はしかし信じられなかった。

 それは事の顛末を間近で見ていた八代も同じ。彼女もまた己の目を疑って、愕然としていた。



 竜がいた。

 それも、真哉を腕の中に抱き抱えて。



『ならぬ』


 声。たかが発声。そのはずだ。

 だが、巨竜にはそれが、己の命を掌握し生死を定める死神の宣告に聞こえていた。


われはこの者に救われた。われはこの者に見つけられた。われの恩人は、われの生命と同義。故に、ならぬ。触れることも、愛すことも、蔑むことも、まして傷をつけることなど』


 語る竜は、ひたすらに美しい。


 全身を覆い尽くすのは白い鱗は内側に仄かな虹色を秘めている。月明かりを受けると柔らかく無限の色彩を纏う竜は、美の女神に姿形を設計されたかのように思わせる美しさだ。

 翼は幾千と重なる白鳥のそれだ。純白の中に虹を孕んだ翼は、幾重にも折り重なって空気を愛撫あいぶしている。

 眼球は四つ。虹色を帯びたひと際大きい眼が頭部に。その下にも瞼があって、人の子を見下ろしていた眼は、やがて巨竜を舐めるようにめた。

 竜の象徴たる角は、こめかみから後頭部に弧を描いて伸びている。後頭部に達すると捻れ、丸みを帯びて冠のように複角を生やしている様は、さながら天使の光輪のようだった。


『貴様……、何者だ。名は』


 巨竜は視線の先に佇む竜に問いかける。

 竜は腕の中で気を失った真哉を一瞥し、彼がまだ息をしていることを確認すると口付けして魔力を流し込んだ。

 本来、竜の魔力など神代かみよから永い時の経った今の人間にとっては、触れるだけで細胞が膨張し破裂死しかねない劇毒だ。人間の肉体が耐えられるような代物ではない。

 だが、虹の竜から魔力の補充を受けた真哉は、人の形を保ったまま竜の腕で静かに眠った。


『先に名乗る筋を通さなかったことは見逃そう。私は、ロゥリエ』

『……私はガンド。ロゥリエ、貴様に問う。何故人間を守った。人は愚かで、醜く、そして恐ろしい。私は同胞を多く殺された』


 ロゥリエと名乗った竜はガンドの発言に耳を傾けているはいるが、その実、心では彼の言葉など聞いていなかった。


 今はただ、腕の中にいる人間が愛おしい。


 故に、彼を傷つけようとした者を。

 これから彼を傷つける全てを赦すつもりは毛頭ない。


 無視されていると気づいたガンドが、込み上げた怒りを魔法にする。

 巨躯の周りに瓦礫が浮かばせ、投擲射出の指令を送る。


『聞いているのか。答え——』

『聞く気は無い。答える義理も。失せろ』


 たった一言、ロゥリエが吐き捨てる。


 やがて極彩色の閃光が、虚空で弾けた。


 赤、青、黄、緑、橙、藍、紫——虹色の色彩を伴った魔力の炸裂は、ガンドの鎌首で炸裂し、巨竜の頭部をたった一撃で容赦なく吹き飛ばした。


 鎌首が吊られて反り返り、巨躯の質量は首が反る勢いに負けてひっくり返る。

 辺り一面の街並みを噴き出した鮮血が赤く染めあげていく。

 無くした頭を蘇生するため細胞が蠢いて新たな頭部を形成しようとすると、ガンドの胴体にロゥリエが降り立った。

 全長五メートル程度しかない華奢な竜は、両翼を広げ魔法を発動させる。

 遥か上空。

 直径二〇メートルはあろう巨大な魔法陣が空を支配する。


『       』


 無音。

 音もなく、一筋の光が魔法陣から放たれ、ガンドの胴に穿たれた。


 光の柱が消え失せたガンドの背には、一振の光剣が空から落ちて突き立っている。剣は空気に触れると泡のように虚空に溶けてなくなり、跡形もなく消え失せていった。


 自ら同胞であるはず竜を殺めながら、ロゥリエは無関心なまま翼を羽ばたかせる。


 そうして八代の目の前に、ロゥリエは降り立ち翼を畳んだ。

 腕の中。返り血で真っ赤になった真哉の顔の血を舌と手で拭い、ただ穏やかに彼の顔を見つめている。


 一方で八代は、いま目の前で起きている事態を未だに理解出来ていなかった。

 竜が現れたかと思うと、ガンドを僅か二撃で葬り去り、自分の目の前に飛んできた。

 死を覚悟したが、真哉を抱える竜の瞳に殺意はない。

 安らかで穏やかな感情は、凪のように静かだ。


「……貴方は、彼の眼を治せる?」


 突拍子の無い言葉。

 向けられた声と言葉の穏やかさに八代は驚きを隠せない。思考する間もなく、本心のまま答えを返した。


「無理よ。私に治癒はできない」

「……そう」


 肩を落としたロゥリエは真哉を地面に寝かせる。と、おもむろに自らの頭に腕を伸ばした。手が伸ばされた先にあるのは、虹の色彩の竜眼だ。

 爪の長い指が眼に伸ばされたかと思うと、ロゥリエは


 目の前の竜が一体何をしようとしているのか、八代は到底理解できない。


 竜は、取り出した眼球を真哉へ運ぶ。


 そこでやっと、竜が何をしようとしているのかを八代は悟った。


「貴方まさか……っ!」

「これで彼が光を取り戻せるのなら、私は構わない」


 言いながら竜は、真哉の潰れた両眼に自らの眼球を埋め込んだ。竜の眼球は真哉の瞼の内側に入ると、独りでに真哉の脳と接続をはじめる。

 移植の工程が完了したことを感じ取った竜は、再び真哉を抱え上げると八代に向かって歩み寄った。


 突如、全身の鱗が音を立てて散っていく。


 頭部の鱗が、尾の鱗が、腕の鱗が。役目を終えたように剥がれ落ちていった。

 そして鱗の剥がれた隙間からは、白いが露出する。


 夜風に舞い散る翼の真ん中には、一人の人間の人影があった。


 揺れる純白の長髪は、一本一本が絹のようにきめ細かやで、微かに虹色を帯びている。髪飾りのように残った角が、彼女を正真正銘の天使に思わせる。

 双眸は宝石のように澄んだ虹の色彩で、見るもの全てを魅了する。

 鱗も翼も全てを捨てた竜の少女は、文字通り一糸まとわぬ産まれたばかりの姿をしていた。


 真哉を抱えたまま降り立った竜人の少女は、響く福音のような澄んだ声で願った。


「私はこの人に死んでほしくない。お願い。あなたの力を貸して」

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