第二話 『大罪の産声』

 暗い空間に居た。


 手足には錠がされている。

 床から天井まで伸びる柱から赤黒い鎖が伸び、手錠と足枷と繋がれている。腰掛けた椅子にも鎖は結ばれていて、大きく身動きすることすらままならない。


 かつかつ、と。遠くから靴音が聞こえる。

 少しずつ大きくなる靴音で、近づいてくる人間の人数は自然に把握出来た。

 二人の男女。男は歩幅が大きく、女はそれに追いつくために少し足早に歩いているらしい。


 金属製の重い扉が開かれる。

 ぎぃぃぃ、と。まるで腹の黒い悪魔の呻き声のような音を立てながら扉が開く。

 この空間まで続く通路には灯りがあったようで、人工灯の無機質な白い光が扉の隙間から差し込んだ。


 部屋に入ってきたのは、長身の男。

 男の特徴は、長身と真っ黒い中分けの髪。眼鏡を掛ける男の眼は、深い血色を帯びていた。細身な男だが、長い手脚が視線を吸い込む。こめかみから後頭部に伸びる長い傷跡が、男が戦場に長い時間身を投じていることを認識させた。

 目を凝らして見ると全身から異質な魔力を放つ男は、人間的な感情が欠如しているようにさえ思えた。


 男からそう感じたのは、隣に立つ少女の表情故だ。

 彼女は心の奥に潜む恐怖と嫌悪を必死に堪えている。顔には出さないように抗っているが、それでも滲み出る負の感情が彼女の双眸を濁していた。

 甘栗色のボブヘアが目立つ、あどけなさの残ったまるっとした輪郭の童顔の少女。翡翠の色彩を宿した丸い双眸は、しかし今は本能によって濁りが生じている。


 二人を観察していると男が、口を開いた。

 機械仕掛けの死神を思わせる、無機質で無感情な声色で淡々と言葉が並べられる。


「単刀直入に言う。貴様が人類に害をなさないことを証明しろ」


 でなければ、と男。しかしそれ以上は語らない。

 背負う鞘に納められた長剣が、続く言葉を無音のまま物語る。

 少女も男の言葉には同意する部分があったらしく、視線には根深い嫌悪と拒絶があった。

 彼らの恐怖は想像に難くない。

 こんな状況下で全ての発言を信じて貰えると思い上がる傲慢さは、彼らの恐怖を煽るばかりだ。

 彼らに視線を向け、一言だけ言った。


「私の眼を見て」


 緊張が走った。

 男も、少女も。二人は目を合わせてはくれない。

 互いに目配せして、決して眼を見てはならないと心の内で互いの意思を確認し合っている。

 やはり信用して貰えない。


「……だったら、ひとつだけお願い」


 俯き、瞼を閉じる。

 意識を地上に集中すると、磁石が引き寄せられるように。意識はとある一点に向かって吸い寄せられる。

 はるか地上で眠っている、の瞼を持ち上げさせた。


「彼を連れてきて。そうしたらきっと、分かってもらえるはず」


 ――


 その声ははじめ、快晴の朝日のなかで歌う小鳥の囀りのように聞こえた。


『目を覚まして』

 

 誰かに呼ばれていた。

 声の主は分からない。けれど、それが自分の知る誰かの声であることだけは、不思議と確信を持てた。

 楽園の福音のように澄んだ声の響き。一音一音の発声は細かく丁寧で、綺麗な澄んだ音階を奏でている。

 生まれてはじめて、人の声を綺麗だと感じた。

 優しい声に誘われ、閉じていた瞼を持ち上げようとする——が、それは適わない。


 


 奇妙な感覚に襲われた。

 瞼を閉じている感覚はあるのに、同時に瞼を開いている感覚もある。

 二つの矛盾している感覚が脳に同居していた。


 双眸は世界の色と輪郭を、網膜から取り込んで脳に伝達して処理する。


 視界には、見覚えのない長身の大男とその隣に並ぶ小柄な少女の姿が映っていた。しかし何故だか、二人ともこちらに警戒の姿勢を示している。


「なんだ……っ、これ」


 思わず、混乱を口にする。

 未だに残ったままの違和感は徐々に肥大化していって、脳は目を開けるように身体に起きている異常への対処信号を猛烈な勢いで発信した。


 瞼をこじ開け、今度こそ目を見開いた。


 天井が映る。

 真っ白な、清潔感を覚えさせる天井。

 眼を動かすとクリーム色のカーテンと、白いベッドシーツが目に飛び込んだ。

 壁に刻まれた魔導局の紋章が、そこが単なる医療機関ではないことを真哉に認識させる。

 ふと、視界に映り込んだ人物が居て。彼女はこちらが目覚めたのに気づくと、目を見開いて身を乗り出してきた。


「藤上君? 大丈夫……?」


 八代だ。酷く重い疲労を抱えてしまっているのだろう。ひとつ低い声を響かせ、彼女はこちらに視線を向けた。


「大丈……」


 大丈夫、と答えようとした。

 しかし、不意の頭痛と灼熱感が、頭を内側から引き裂こうと暴れ出した。脳から警鐘が鳴り響き、神経がささくれ立ち、全身に激痛が走る。

 眼球が猛烈な灼熱感に襲われて、どろどろに溶けてしまったのかと錯覚する激痛が脳の奥にまで到達した。


「ああああああッ!? なんだ、これ……っ!?」

「藤上君!? 落ち着いて!」


 ベッドの上で暴れ回る真哉を、八代が力づくで押さえつける。

 だが、避難所から真哉を運び出した時もそうだったように、真哉の膂力はやはり異常と言わざるを得ない。

 八代が真哉を押さえつけられたのはせいぜい数十秒。程なくして八代は、怪力を前に易々と振り払われてしまった。


「痛っ……!」


 それが幸いしたというべきか。

 痛みを訴える声を聞いて我に返った真哉は、病室の壁に背中から激突した彼女の方に視線を寄越した。


「ごめん……! 八代さん、大丈」


 言いさして視界に飛び込んできたのは、彼女の背後にあった壁掛けの姿見。

 そこに映った自分の姿を目の当たりにした瞬間。真哉の思考は、音もなしに停止した。

 八代を見やるおのが双眸は——、



 乱暴な極彩色が塗りたくられた、虹の竜眼に変わり果ててしまっていた。



「——ッ」


 やがて視界が二つに重なった。

 竜眼を向けられて顔面蒼白した八代が映る病室。

 真っ暗な闇の中で、屠竜師の男と少女に睨めつけられる暗闇の部屋。


 まるで自分以外の他人の視覚情報を、無理やり脳に書き込まれているかのような強烈で不快な感覚。

 どちらが本来の自分の眼が見ている光景なのか、徐々に脳が判断できなくなっていく。


「……」


 発声が出来なくなった。

 混乱も動揺も。感情として発散出来なくなる。

 思考の混濁が意識を崩壊させていく。


 停止した脳がやっと動き出したのは、凝視し続けた姿見が向けられる竜の双眸の眼力に耐えかねてひび割れた時だった。


 己の双眸の極彩色に飲み込まれていた思考の混濁がなくなる。

 重層化していた視界も収まり、割れた姿見に愕然と目を向ける八代一人だけが映る。

 割れた姿見を見やると、双眸は黒金色の人間のそれへと戻っていた。


「落ち着いた?」

「……もう大丈夫」


 落ち着きを取り戻した真哉は病室を見回して、外が未だ深い夜の中にあることを認識する。

 あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。

 思考している内に、脳裏にあの少女の影が過った。


 つい先刻目覚める時にも聞こえてきた声は、あの少女のものだ。


 今度は助けを求めるものではなく、こちらの覚醒を促すもの。

 少女を助けることが出来たのか。彼女はいまどこにいるのか。


 八代なら知っているかもしれない。


「僕はどうやってここに? 女の子が近くにいたはずなんだ。その子はいまどこに……」


 問うと、八代は顔を曇らせて僅かに目を伏せた。

 返す言葉を選ぶような深く長い沈黙の後。返ってきた言葉は淡白だった。


「事情はすぐに分かるわ」


 含みのある台詞。微かな暗い影が言霊の裏には感じられた。

 ふと、八代の無線機が通信を受け取った。そちらに意識を傾けつつ、彼女は一度病室を後にした。

 程なくして戻ってきた八代は険しい表情をしている。

 たった一言。


「色々と説明しないといけないことがあるの。移動しましょう」


 入院着だった真哉の着替えと共に、それだけ言い残して彼女は病室の扉を閉めた。

 何が起きているのか知らされぬまま。


 渡された朱殷の外套に袖を通し、真哉は八代の後を追って病室を後にした。


 ――


 魔導災害対策局。通称、魔導局。

 太平洋を中心に発生する竜に対する人類の切り札——屠竜師とりゅうしによって構成された、人類存続の要となる魔導組織。

 活動は十六世紀から今日こんにちまで続き、今や世界中あらゆる国と地域に支部を構え、竜による人類絶滅を幾度となく阻んできた竜殺しの集団だ。

 魔術という超常を掌握する技術を確立したのもこの組織で、彼らが人類の歴史に与えてきた影響は計り知れない。


 魔導局は発祥を西洋としている為、建物の外装から内装までを一貫してあちらの伝統建築で造るのが習わしだ。

 二階までの吹き抜けになっているエントランスの天井照明は全てシャンデリアが灯って豪奢で、吹き抜けの廊下の手すりは黒塗りで重厚だ。床には竜の血に染まった深紅の絨毯が敷かれ、月光を受け入れる窓には有事には建物を丸ごとを要塞化する魔導文様が刻まれている。

 八代の後を追って通り過ぎた中庭には、祖竜ファブニールを屠ったという始まりの竜殺しの英雄たるジークフリートの銅像が置かれていた。


「もうすぐよ」


 局の最奥にあった長い廻廊。

 数歩先を歩いていた八代が、長かった廻廊の終わりを告げた。言葉通り廻廊の最奥には巨大な両開きの鉄扉が闇の底から現れる。

 八代が扉に手を添え魔力を流し込む。八代の魔力に応えて、扉全体が仄かに魔力反応の燐光を帯びた。燐光が扉に馴染んで色をなくしていくと、扉は重たく腹の底に響く重音を鳴らしながら開いていった。


 開いた扉の向こうは、暗黒。ただそれだけ。

 八代が先行して闇の中に踏み入ると、闇の只中から低い男の声が届いた。


「遅い。何分待たされたと思っている」


 暗闇の中から出てきた男の目は冷たい。

 角ばった眼鏡と中分けの真っ黒な髪。湛える血色の双眸は切れ長な三白眼で。長身故の威圧感と眼光の鋭利さが相まった冷徹が、高所から真哉を見下ろしていた。

 男の顔を見上げる真哉を横目に、八代が言った。


「堂島さん。目、怖いですよ」

「……遅れてきたにも関わらず謝罪もなしか。まったく、揃いも揃って出来た部下どもだ」


 堂島は皮肉を吐き捨てると共に、ふところから煙草を取り出した。そのまま何の断りもなく火を付け、溜息と共に煙を吐き出す。

 堂島に露骨な嫌悪を向けながら八代が辺りの闇を見やった。


「堂島さん。梓は?」

「奥に置いてきた。煙草を吸うなら他所へ行けとうるさくてな。あんなクソガキの居るところでは落ち着いて煙草も吸えん」


 堂島が答える。と、彼の背後の闇から人影が浮かび上がって、


「いーまーすーけーどぉ?! あんなところに一人にしないでもらえます!?」


 ぷんすか言い放ちながら一人の少女が現れた。

 甘栗色のボブヘアが目立つ、あどけなさの残った童顔の少女。瞳は丸く大きく、翡翠の色彩を宿している。

 頬を膨らませながら堂島を睨む少女だったが。


「梓、堂島さんのことはどうでもいいから。案内してくれる?」


 八代が柔和に微笑むと、眉間に寄っていたしわは途端に消えてなくなった。


「もちろんです! 任せてください!」


 梓と呼ばれた少女が、己の丸く膨らんだ胸を打つ。

 堂島の後を追って出てきた時とは正反対に、溶け落ちそうな頬を支えながら梓は踵を返して向かった。

 八代が後を追い、真哉もそれに着いていった。


「藤上君。貴方には見てもらいたいものがあるの」


 程なくして八代が言った。

 顎で先を示すが、目的地と呼べるほど『それ』との間に距離はない。

 暗所に目が慣れていない真哉の為、今いる地下施設の照明を付けるよう八代が梓に合図する。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 古い仕様の照明が激しく明滅しながら地下施設の奥まで明かりを灯していく。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、と。

 天井まで伸びる柱の姿が闇の中から現れる度、真哉の視線は地下施設のある一点に向かって伸びる鎖に誘導されていく。

 よっつ、いつつ。鎖が収束していく。

 むっつ。椅子が現れる。そこに腰掛けた『それ』の姿が目に飛び込む。


「……」


 八代は、真哉と彼女を会わせてよいのか。内心で未だに憂いていた。

 しかしもう後戻りは出来ない。

 ここまで真哉が来てしまった以上、彼に言えるのは一言だけ。


「眼を合わせないで」


 地下施設の中央。

 床から天井に突き立つ柱には鎖が繋がれていて、空間の中央に向かって収束する。

 部屋の中央の床にはおぞましい文様が刻まれた巨大な魔術の円陣が描かれている。

 円陣の中心に、八代の言う『それ』は居た。


 肩下まで伸びる仄かに虹の色を帯びる純白のきめ細やかなしゃの長髪。

 雪原のように白い肌の身体は華奢だが肉付きは健康体そのもので、人間の本能を無造作に刺激してしまえる完成された美貌がある。

 だが、人の本能の高ぶりを許さない、頭部に生えた竜の角。こめかみから後頭部に伸びる天使の光輪の竜の証。


 やがて、淡いピンクのコスモスの色の唇が動いた。


 奏でられた音色に耳を疑う。

 瓦礫の下から救い出した少女の声が。目覚めを誘ったあの声が。

 眼前の竜人の口から放たれた。


「はじめまして。真哉。……会いたかったよ」


 はじめは俯いていた『それ』だったが、少しずつ顔を持ち上げると共に、瞼も一緒に開いていった。

 虹色の双眸が開かれる。


 同時に、目覚めと共に脳を襲った痛みが、頭の内側から生じた。


 そして視界が二つ重なる。

 一方には何故か、赤黒い髪と黒金の双眸の自分の姿が映っている。


「あああっ!? なんで僕が!? なんだ、これッ!」


 叫びながら蹲り、床をのたうち回って、痛みを頭から取り出そうとする。

 頭蓋が割れた方が楽になれるだろうとさえ思える激痛が響く。


「ちゃんと見えてるんだね。よかった」


 優しく柔和な安堵を湛えると、竜人の少女は再び目を閉じた。

 と、同時に真哉の絶叫が止む。

 肩を激しく上下させている真哉は、未だ頭に居座る感覚に振り回されている。

 三半規管が異常を起こして、その場に胃の中のものをぶちまけた。


 竜人の態度に苛立って、八代は聞こえるように舌打ちする。嘔吐を繰り返す真哉の背中を摩りながら、竜人を睨み付けた。


 一頻り吐き気が引いていくと真哉は、今自分が置かれている状況を整理し、飲み込みはじめた。


「僕が助けたのは、まさか……」


 自ら事実を口にするが、声は震えを伴っていた。

 誰もしが次の言葉を予測する。

 それは竜人の少女とて例外ではない。


 竜人は、湛えた満面の笑みを真哉に向けた。


 紡がれる言葉は、沈黙のなかに不気味に響く。

 竜人から向けられた無垢で屈託のない笑みが、絶望する真哉の網膜に焦げついた。


「私だよ。……ロゥリエ、っていうの。名前で呼んで」


 死ねばいい。


 人を救おうとした結果がこれだ。

 他人を振り回しておいて。他人を巻き込んでおいて。

 親友の背中を追いかけ、彼に替わって人を救いたいと思った結果がこれだ。

 救ったものは人間ですらなかった。


「——感動の再会か。泣かせてくれるな」


 言ったのは堂島だ。無論絶望に打ちひしがれている青年に対して皮肉を口にした男は、一滴の涙も流してはいない。

 八代から向けられた敵対心を隠すつもりのない視線を、いけしゃあしゃあと受け流し堂島は懐から煙草を取り出し口に咥えた。

 ぼぅっ、と。ライターで火を灯すとロゥリエに向かって煙を飛ばして詰問する。


「本題に戻ろう。お前が人類を害をなさないことを証明しろ。ここまでこいつを運ばせて来たんだ。この小僧が何か関係あるんだろう」

「うん。大丈夫。真哉を連れてきてもらったのは、眼がちゃんと見えてるのか確認したかっただけだから」

「……なに?」


 堂島の眉根が歪む。

 怪訝な表情をした男が、ならば何故と再三問いかけようとした時だった。

 ピキッ。

 ロゥリエを拘束している鎖に、一斉に亀裂が走った。


「なっ」


 思わず堂島が口に咥えていた煙草を落とす。

 有り得ない事態が目の前で起きていることに、八代も梓も目を見開く。その場に居合わせる屠竜師全員に、緊張が走った。

 彼らの反応を見てロゥリエが微笑む。

 それは人間など些細なものだと軽視する嘲笑でもあり、同時に必死に世界に足掻く彼らに対する慈悲の微笑み。


「この鎖は北欧の銀狼を縛っていたものを模倣しているんでしょ。……私にはわかる。でも、これは私には通用しない」


 ロゥリエは一切力む様子を見せずに、魔力の波動それだけで手脚を縛っていた全ての鎖を粉々に砕いた。


 足下に描かれていた魔術の円陣も、開放された魔力の奔流に打ち消されて消えていく。

 無撃。ただ竜人が魔力を辺りに撒き散らしただけで、竜を縛りつけていた鎖は粉々に砕け散り、竜の力を抑制していたはずの円陣も、瞬く間に消え失せた。

 あってはならない事態が起こっている異常を認識した堂島は、思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 頭を抱え、ため息をつく。


「参ったな。これは……」

「どうして?」


 小首を傾げるロゥリエ。相変わらず瞼は閉じているままだが、無垢な視線が堂島に注がれる。

 堂島もまた本能の奥底で『視られている』という強い感覚を得ていた。懐に忍ばせている暗器を抜こうかと思考がチラつくが、竜人の閉ざされた視線は堂島の手を追っている。

 眼を通さずとも外界の認識を可能にする『心眼』という技能なのだろう。どうやら完全に全て見抜かれてしまっているらしい。


「どうしても何も。打つ手がない」


 自嘲気味に手を空に掲げる堂島。

 言葉通りお手上げだった。

 もはやこれまで人類が竜を相手にしてきた技術では手も足も出ない個体が遂に現れた。

 何十年も前から危惧されてきた事だが、とうとう今日をもって人類の歴史は終わりを迎えるらしい。

 くそ人類万歳。傲慢さ故に滅んだ種族は、未来永劫地球上のあらゆる生き物の間で笑い者にされることだろう。

 そんなことを堂島が脳裏で考えていると、ロゥリエはまた反対に小首を傾げていた。


「打つ手も何も、私はこうやって拘束を簡単に解けたのに今までやろうとしなかった。これが私が人類に害をなさいことの証明。敵意はない。信じて」

「……貴様、本気で言っているのか」


 ロゥリエの発言に開いた口が塞がらない堂島。

 これまで多くの竜人を相手にしてきた堂島だが、そのほとんどが一貫して人間とは価値観がズレている。

 否。人間とは価値観が一次元ほど違う部分にあるのだろう。

 故に会話の通じない相手が多いが、目の前にいる竜人はその中でも群を抜いて会話の通じない相手に思えた。

 ただでさえ竜人の力を前に恐怖している相手に対して、更なる力を示す愚か者があってたまるものか。それではより警戒心を高めるだけだ。

 だが、目の前の竜人はそれを理解していないようで、こくりと頷くと続けて言う。


「だって、殺せる相手を殺さず生かす理由なんてそれくらいしかないから。……だから、私はあなたたちを襲う気はない」

「論点がズレているぞ。証明しろと言ったんだ。それでは証拠にならない」

「……むぅ」


 ぷくぅ、と不機嫌そうにロゥリエが頬を膨らませる。

 それ以上に無害を示すことが出来ないのか。それともそれ以外の方法を思索しているのか。

 真意は分からないが、しばらく考え込むと遥か頭上の大地を見上げた。

 地下故に天井しか目視出来ないが、彼女は地上に何かの気配を見つけたようだった。


「いいことを思いついた」

「……言ってみろ」


 ロゥリエは、何の情報も与えられていないはずなのに、地上の竜の軍勢の存在に気づいたようだった。


「地上の竜は私が全部殺してあげる。そうしたら、信じてもらえる?」


 告げられたのは、同族狩りだ。

 何の躊躇ためらいも見せず言葉にしたロゥリエの表情は何ひとつ変わってはいなかった。

 地上では今も竜の軍勢が押し寄せ続けている。ぶつけてお互い死んでくれれば、堂島としては万々歳だった。


「妥協してやる。すぐに外に出したいが少し待て。こちらにも用意がある」


 得体の知れない竜人の申し出を受け入れた堂島の背後で、八代と梓は驚愕を隠せずにいる。

 二人の罵詈雑言と怒号が堂島の背中にぶつけられるがまるで気にすることなく、耳に挿した無線機で地上の人間とやり取りを交わした。


 ――


 女が独り、泣いていた。


 夜風に靡く、毛先が緩く巻かれた純白の長髪。菖蒲色の双眸は、見たもの全ての視線を釘付けにする妖艶さを帯びている。纏う黒いドレスは身体の輪郭が浮き彫りにしていて、百合の花を思わせるスリットがひらひら揺れる。

 さながら立ち姿は花の精霊のよう。

 だが、こめかみから伸びる竜の角が、持ち得る美貌すべてを否定していた。こめかみから後頭部に向かい、螺旋を描いて収束する大角。その下に小さな複角が左右に二本ずつ。

 竜の角を生やした女の正体は言わずもがな。


 竜でありながらも同時に人の細胞をも有する、世界のあわいに立つ者——竜人だ。


 傍らには、首を落とされた竜の骸が転がっている。

 独り、愛した者の骸を前にして、竜人の女——アンリエッタは悲痛に暮れて泣いていた。


「……ガンド」


 ガンドは、首から先を無くして死んでいた。

 目の前の死体は、魂そのものを根本から打ち砕かれている。

 こんなことが出来るのは、より高位に君臨する神に等しい権能を持つ竜か。あるいは——、


「お姉さん。ここで何してんの?」


 物陰から突然、男の声がした。

 ガンドの死因を探るのに注意が削がれてしまい、まるで気配に気づけなかった。

 我に返って振り向くと、抉れた大地と残された街並みの境界の物陰に一人の男が佇んでいた。

 着ているのは、いわゆるスーツ。

 羽織った白い外套には、十字架の装飾がちりばめられている。一見聖職者に見える男だったが、派手な金髪を後ろに束ねているあたりそうではないのだろう。

 煙草を咥える唇の端には銀色に光るピアスがある。双眸は鮮やかな茶色をしているが、右の瞳の眼球は黒く染められて異形の怪異を思わせた。

 背中には長い棒状の得物を担いでいる。


 男の背後からも同じ白い外套を纏った人影が現れはじめるが、皆揃ってフードを深く被って顔を隠している。

 一気に辺りに漂う陰湿な空気。

 一貫して外套に施されている十字架の装飾は、彼らが何かを盲信している事を悟らせるには充分だった。


「だめじゃんか。女の子がこんな夜中に、危ないところに来たら。俺みたいなヤバい奴に会っちゃうんだから」

「貴方こそ何者かしら。返答次第では——」


 言いつつ、歩み寄ってくる男の背中の得物を凝視ぎょうしする。

 竜眼による魔導情報の看破。

 全ての竜眼に秘められた力で、男の袋の中身の正体を探っていく。

 浮上する概念は、槍。呪い。死相しそう。——そして『竜殺し』。


 納められている得物の正体を察知した途端には既に。

 身体は男に向かって、跳躍していた。


 愛する者を殺した相手を確信する。


「殺すッ!」


 全霊の魔力を注ぎ込み、振り下ろす足を男の頭蓋に叩き込む。


「開口一番それかよ。つーか、お前。竜人か。死んだのは恋人か?泣かせてくれるな」

「?!」


 手応えは鈍い。

 正真正銘の本気の蹴りだったはずだ。

 いくら受け止めているとはいえ、直撃を食らった人間が立てているはずがない。

 驚愕していると間もなくして、男の帯びていた魔力の気配が切り替わった。

 おぞましい呪いの沼に浸った魔神の気配を察知する。

 追撃を諦め、飛び退る。

 距離を取って男が得物を抜くのをめつけながら、背中の布から抜き放たれた槍の纏う気配に総毛立そうけたつ。


 槍に定着していたのは、『竜血を啜る牙グラム』。

 この世全ての竜の血を啜り殺す、呪われた竜殺しの魔剣の呪詛だった。

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