第八話 『岐路に立つ』
アンリエッタと共に真哉たちが廃工場に入って行くのを見届けてから、小一時間が過ぎていた。
摩天楼の物陰から廃工場に向け、八代は双眼鏡を覗いていた。真哉たちが廃工場から出てくるのを認めて、呆れ加減な深い溜め息と共に苛立ちを吐いた。
「まさかとは思っていたけど……案の定ね」
廃工場の内部は外界からの干渉と観測を拒んでいるのだろう。
真哉たちが工場を出てくる瞬間まで双眼鏡を向け続けていたが、まるで内部の状況を把握することはできなかった。
案の定、と言ったのはアンリエッタと真哉達が戦闘に発展することはないと踏んでいたから。
「狙撃しますか。立派な命令違反でしょう」
無線越しに堂島に問いかけつつ八代は、双眼鏡を狙撃銃に持ち替える。
標準は真哉のこめかみに。一度引き金を引けば、竜の鱗をも貫通し得る弾丸が真哉の頭を通過していく。
『馬鹿か。お前の私情を挟んで早まるな。あいつはまだ屠竜師になったわけではない。あくまで一般人だ』
「一般人でも竜を見逃しているのなら同罪です」
竜及び竜人と確認できた者を擁護した者には厳しい罰則が課せられる。
これは法にも明記された犯罪行為だ。
見過ごせない。
支部長室で真哉の過去の全てを知ってから、八代は彼には法的な制裁が下されるべきだと考えていた。
堂島の冷淡で無機質な声が、呆れと共に呟かれた。
『引き金を引いてみろ。……いまその状態で引けるのならな』
「何を言って……——!?」
堂島の挑発に声を返し、言いさした。
忽然と背後の薄闇に浮かび上がってきた気配に、ぞくりと背筋を撫でられる。
なんの兆しもなく不気味に浮上してきた気配に視線を寄越す。
そこに佇んでいた見覚えのある人影と視線を交わし、抱えた銃を渋々と下ろした。
「いつからそこに。シエラさん」
竜の襲来で崩壊したビルの硝子貼りの通路。
その影からこちらを見やる、黒髪を隙間風に揺らす女性。
双眸は夜闇の所為でか底の見えない漆黒に染まっていて、吹き込む風に揺れるスカートの中には忍ばせている暗器が凶刃の牙をちらつかせていた。
『何か有益な情報を聞き出しているかもしれん。俺の方から聞き出す。……いいな』
告げて堂島との通信は終わる。
背後のシエラの気配も、同時にその空間から消え去っていった。
眼下の街。
真哉の姿を探してみるが、もう見当たらない。
——堂島さんは藤上君に甘すぎる。
込み上げてくる苛立ちが、胸をざわつかせる。
ぎり、と深い怒気を孕んだ歯軋りが暗がりの広がる一室に響いた。
──
外は未だに夜らしい。
トタン板で出来た造りの悪い廃工場では、隙間から月光がもろに差し込んでくる。
一筋光が部屋に入り込むと、薄らと全体が明るくなる。輪郭を得た物体が、暗がりの底からその姿を次々と現し始めていった。
天井から吊るされた巨大な袋。布は真紅に染まっていて中には何かが詰め込まれている。
吊るされた袋の先端からは、赤黒い液体が床に落ちて弾ける。
濾した血液が床に落ちた回数を退屈そうに眺めていたアンリエッタの視界の端には、椅子に縛りつけられた鹿野がまだ息を続けていた。
手足の爪はなくなり、両手両足の指の骨は粉々に砕かれ、動脈を避けて身体に穴が開いている。
鹿野はもはや死を待つばかりの虫の息だ。さながら蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のように。力なく男は、迫る死を悟って虚ろな双眸を伏せていた。
「教団が所有する北区の教会の地下に——」
これまで散々口を閉じたままだった鹿野が突然、掠れ掠れの喉で言葉を発した。
アンリエッタは聴覚の全神経を声に傾け、傍らに置いていた遮音効果を持つ魔具の出力を上げる。鹿野が仮に叫んだりしても声が外部に漏れないように徹底された空間の内側で、警戒がさらにひとつ高まった。
歩み寄って鹿野の声に、耳を傾けた。
最後のひと呼吸のなか。鹿野は微かに不敵に嘲り笑いながら、アンリエッタの運命を呪う真実を吐いた。
「——そこに全て眠っている。でもお前は、俺を連れ去る時にあの場に居る全員を殺さなかった。その傲慢さが命取りだったな……、てめぇの馬鹿さを思い知りながら死んでいけや、クソ爬虫類が」
次に響いたのは、人間の死体に群がる虫の羽音だけ。
男は不敵で狡猾な笑みのまま息を引き取って死んでいた。
生かしておけば交渉の材料に使えそうだったが、それも今となっては叶わぬ願いだ。
情報を引き出せただけで収穫は十分といえた。
床に置いていた赤いタンクを手に取る。
椅子に縛りつけられたまま死んだ男と、部屋の片隅に置かれた死体の山に薄い黄色を帯びた液体を撒く。
マッチを手に取り、男の死体に向かって無造作に火を投げる。
炎は瞬く間に床を這い広がって、部屋を丸々赤い獄炎で飲み込んでいった。
――
眠るのが怖かった。
六畳一間の狭い真哉の自宅に戻ってきても、ロゥリエは未だに落ち着きを取り戻せずにいた。
朝まで仮眠を取るために布団を敷いた部屋の片隅。
膝を抱えてロゥリエは、小さく蹲って黙り込んでしまっていた。
何度も声と念話を掛けても返事はなく、けれど胸中で渦巻く罪悪感と恐怖の濁流ははっきりと真哉にも伝わっていた。
網膜に焼き付き離れない、愛する者を奪われた憤怒。
鼓膜に染み付き残響する、復讐鬼が燃やす底知れぬ憎悪。
思い出すだけで、手が震える。
酷い吐き気が、込み上げてくる。
「あんまり気にするなよ。仕方なかったんだ」
言って、真哉が傍らに歩み寄って来る。
月明かりの注ぐ部屋の隅に腰を下ろすと、布団から持ってきた毛布を掛けられた。
微かな人肌の温もりと春風に似た彼の香りに包まれる。
アンリエッタがもう決して感じることのできない、愛する者の存在を自分だけが感じている。
掛けられた毛布を払って、さらに小さく膝を抱き込む。
アンリエッタから愛する者を奪っておきながら、自分だけが誰かを愛し誰かに愛されるなんて虫が良すぎる。
ロゥリエはそう感じていた。
拒絶を示された真哉の表情は当然暗い。
跳ね除けられた毛布を拾って、肩を落として布団に戻っていった。
すこし苛立っているのが、ちくちくと心の奥に通じてきた。
嫌われただろうか。それでも構わない。
こんなに落ち込んでいる姿を見て呆れただろうか。もう構わないでほしいからそれでいい。
怒らせただろうか。なら、ちゃんと叱ってほしい。怒鳴ってほしい。
お前が悪いんだと、言葉にしてほしかった。
自分もアンリエッタと同じ思いをするべきだと、そう思った。
「……あのな、ロゥリエ。勘違いするなよ」
全部聞こえていたようだ。
でも体がこちらを向くことはなく、横になって背中を向けたまま真哉は続けて言う。
顔も見たくないなら、それでいい。
「そんな程度のことで僕はお前のことを嫌いになんてならないぞ」
——なんで。
「そんなのおかしい……っ! わたしは、わたしの都合だけで、アンリエッタを独りにしたのに……!」
思わず声を叫んでしまっていた。
声は震えて、抑えていた涙が嗚咽と一緒になって込み上げてくる。
嫌って当然だ。
嫌われるのが当然だ。
だって、他人から大切なひとの何もかもを奪っておいて、自分だけは変わらず何も失っていないのだから。
そんな都合のいい話があっていいはずがない。
「なら、お前も失せば満足なのか。その大切な何かを」
冷たい声。
突き放す怒気が、きゅっと胸が縛られるような痛みをくれた。
これでいい。嫌われていい。
真哉に見捨てられて独りになればきっと、アンリエッタの胸の痛みを真に理解できるから。
「……うん。わたしのことは嫌いになっていい」
脳裏に真哉の思考が駆け抜けた。
伝わってきた念が、不穏な彼の思考を語る。
真哉が突然布団から飛び出して、キッチンに向かった。
戸棚を開いて、包丁を手に取る。右手に包丁を握り締め、上着を持ち上げる。刃先は、左胸を捉えている。
包丁が振り下ろされた。
「お前がアンリエッタを追い込んだんなら、助けた僕に責任があるだろ」
寸前で腕を掴まれて尚、真哉は必死の抵抗を続けている。力は徐々に強く込められるが、平行線の拮抗が続く。
「大切な物を失うんじゃなかったのか。なんで止めるんだよ」
言いながらも真哉は腕を振り下ろそうとするのを止めない。
とても人間のものとは思えない膂力。
油断すれば包丁の刃先が胸に突き刺さりそうになる力比べが続いているのは、開かれている竜眼の影響だろう。
「やめて真哉……! 眼を使わないで!」
みるみる頬に広がっていく白竜の虹の鱗。
竜眼が脳に掛ける多大な負荷の影響で、鼻血が流れ始め、床に雫を落とした。
落ちた雫の深紅が、脳髄の奥からアンリエッタの復讐心と首を跳ねられた巨竜の姿を思い出させた。
「っ……! もうやめて!」
悲鳴と混同した怒号。
意図せず、真哉を突き飛ばしていた。
「なんで真哉がそんなことをするの……! わたしは真哉がわたしのことを嫌いになってくれたらそれでいいのに! 真哉がいなくなったら、どうしていいかわからない……! お願いだから死のうだなんて思わないで……」
泣き崩れた。
ぐちゃぐちゃな自分の顔が、真哉の眼を通じて視界に映る。
情けない。
我慢していたのに、堪えられなってしまった。
床に膝から崩れおちたロゥリエをしばらく見つめていた。
初めてここまで感情を見せた彼女に困惑はしたが、いくら彼女を諭すためとはいえ小芝居の域を超えてしまっていたなと反省する。
腰を下ろし、顔を上げるよう声を掛けるが首は横に振られた。
かわりに小刻みに震える手が伸ばされた。
「約束して。もう死のうとしないって」
ぎこちなく手が重ねられる。
熱を帯びた少女の手は、もう決してあちらからは離してくれそうにはない。
握り返すと、必死に繋ぎ止めようとしていた手は緩み、安堵が現れて優しく指が交わった。
すこし気恥ずかしくなる。
安堵から生じたロゥリエの微笑を見やって、手を解く。
名残惜しそうな少女の長く柔らかな指の感触はまだ指先に残っていて、払拭するように言葉を紡いだ。
「当たり前だろ。でも、こっちからもひとつ言っておきたいことがある」
言って、ひとつ呼吸を整える。
右手に固く拳を握り、ロゥリエの指の感触を握り潰す。
握った拳を、へたり込んだままだったロゥリエの脳天に全力で振り下ろした。
「うぎっ!?」
渾身のげんこつ。
無防備だった脳天にもろに食らってロゥリエは、目尻に涙を浮かべながらこちらを見上げてくる。
目隠し越しで分からないが、混乱と怒りが視線に籠っているのが肌で感じ取れた。
「なんでこんなこ——」
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ!」
腹の底から放った全力の怒号。
ロゥリエは思わず耳を塞ぎ、唐突な大声に更に混乱しているようだが、知ったことか。
「何が嫌いになって欲しいだ。馬鹿言え! あんな程度のことで嫌いになってるんなら、お前を守ろうだなんて考えるわけないだろ! あと、自分のことを責めるのも、嫌うのも止めろよ! あの時お前を助けた僕の身にもなってみろ! それにお前、そんなに僕に嫌われたいなら一人で勝手にどこかに行けば良かっただろ! でもそうしなかったってことは、本心ではまだ僕と一緒に居たかったからだろ!? 筒抜けなんだよ、忘れんな! それにお前が仮に一人でどっか行っても、地球の果てまで追いかけてやる! お前のことを守るって決めたからな! 勝手に逃げようと思って逃げられると思うなよ! 地獄でもなんでも着いていってやるからな! 僕が何のためにこの街に残ってるのか分かってるとは思うけど、あえて言ってやるよ! 耳の穴かっぽじってよく聞いとけよ——」
忘れていた呼吸をする。
「全部お前のためなんだぞ」
言い切ると、呼吸は想像以上に荒々しく再開された。
視線を向ける先のロゥリエを見やると、顔を真っ赤にしたまま固まっている。
あんぐり開いた口は閉じそうになくて、破竹の勢いでぶつけられた本音に脳の処理が追い付いていない様子だった。
「あの子のことよりも何よりも、僕はロゥリエを守るためにこの街に残ってるんだ。守り抜くって決めたんだ。だから、自分のことを責めるなよ。お前が居なかったら、あのまま僕はあそこで死んでたんだ。自分のことが嫌いで仕方ないって、すごく辛いだろ。……だから忘れるなよ。お前がいくら自分のことを嫌いになっても、僕だけは味方だから。絶対に嫌いになんてなってやらないからな」
胸の内に秘めていた想いを吐き出すと、不思議と胸が軽くなった。
喉の奥につっかえて取れなくなっていた小骨が溶けて消えたような、重い鉛の枷が全身から外れていくような解放感。
その時になってやっと、彼女と真の意味で心を通わせられたような気がした。
──
背中合わせに布団の中で横になって、先ほどのひと悶着で二人はすっかり目が覚めてしまっていた。
「僕だって自分のことは嫌いだよ。……今も昔も、何もできない自分が嫌だったんだ」
呟いたのは、真哉だ。
まだ微かに呼吸は荒れていて、けれど伸縮を繰り返す肺の動きが背中越しに伝わってくる。
肌が時折触れ合うのがじれったくて、背負ってきた原罪を告白する彼に勇気をあげたくて、ロゥリエはすこしだけ身を寄せた。
独白は続いた。
三年前。
未だ魔導局の育成機関に席を置いていた真哉は、同期の屠竜師見習いの少年少女の中でも頭一つ抜きんでた魔導の才があった。
高校への進学は諦め、正式に屠竜師となることを決意していた真哉の下にある依頼が飛び込んだ。
それは、街に棲み着いた竜人の駆除。
本来であれば正式に屠竜師として魔導局に籍を置いている人間が引き受けるべき案件だ。
だが、人付き合いが苦手だったことに加え、魔導に抜群の才に恵まれていた真哉は、周囲から妬み僻まれ、腫れ物として扱われていた。
依頼が真哉の下に舞い込んできたのも、真哉の才能に嫉妬していた現役の屠竜師による嫌がらせのひとつだった。
屠竜師を含む魔導業界は、その特異性故に慢性的な人手不足に悩まされている。
現役の屠竜師による推薦や紹介によって任務を達成した場合、例え見習いの屠竜師であっても今後依頼を引き受けられる可能性が生まれ、あわよくば育成機関の飛び級や正式に屠竜師として魔導局と契約することが出来るようになる。
無論その事を知っていた真哉は依頼を引き受けた。
それが自分の将来を大きく左右するものになるとは考えもせずに。
依頼のあった街に着いて二日余り。
真哉は竜人の特定に至り、駆除に参加していた数名の屠竜師と共に路地裏に女性体の竜人を追い込んでいた。
追い込んだ竜人の包囲に成功し、無事に任務は完遂したかに思われた時だった。
お母さんを殺さないで、と。
子供の声が聞こえた刹那、路地裏にいた屠竜師の半数の首が跳ね飛んだ。
何に襲われ、何が起きたのか理解できなかった真哉はその場で腰を抜かした。
未曾有の恐怖に見舞われた真哉は、ただただ仲間が蹂躙されていく様を傍観していた。
やっと体が動いたのは、次は自分の命が狙われる番だと気づいた時。
けれど、動いた体は逃げ出すことを選んでいた。
特定したはずの竜人の記録も抹消し、真哉は自分の心の弱さを痛感した。
任務は失敗に終わり、以降彼らがどうなったのかを真哉は知らない。
だが、この一件で真哉は自分が屠竜師には適さない人間だと自覚し、正式に屠竜師となるあと一歩のところで魔導の世界を後にした。
選択が正しかったのかどうか、その後何度も自問を繰り返した。
「今はどう? 正しいことをしたと思う?」
ロゥリエが訊ねてくる。
月明かりの注ぐ薄暗い部屋の真ん中。
狭い布団の中ではお互いの脈拍さえもが鮮明に感じられて、すっかり布団に染み付いた彼女の甘ったるい匂いがひたすら思考の邪魔をする。
瞼を閉じ、思い返す。
あの日のこと。
そして、傍らの彼女のことを。
「人を見殺しにした罰は今後絶対に消えることはない。でも、あの時あの人を殺さなかったことは正しかったんだと思う。ロゥリエを助けて確信したんだ。……竜にだって命がある。簡単に切り捨てていい命なんで、どこにもないんだって」
真哉の答えを噛み締め反芻する。
意図せず溶けそうな笑みが零れていることに気が付いて、隠すために真哉の背中に身を寄せた。
「わたし、アンリエッタに本当のことを言ってみるね。怒られるかもしれないけど、これが正しい選択だと思うから」
それにね、と続ける。
「真哉はきっと屠竜師に向いてる。わたしは貴方が居たから救われた竜の一人だから。きっと、竜を救うことが出来る屠竜師は真哉だけだよ」
──
木々が揺れる森を、独り静かに眺めていた。
言葉を交わす相手はいない。
きっと訪れることもない。
昨晩ロゥリエが訪れた時間はとうの昔に過ぎ去っている。ガンドに毎夜捧げている祈りも歌も終えてしまったというのに、この場を離れる気にはなれなかった。
万が一にもすれ違ってしまったらと思うと動けず、随分と長い間何もない森をただ茫然と眺めていた。
実際は時計の短針がほんの少し傾く程度の時間だったのだが、誰かを待ち続けていると信じられないほど時間は長く感じられた。
もういい加減に監禁していた男の言った教会へ移動を開始しようかと、腰を上げたその時だった。
「待って。アンリエッタ」
待ち侘びていた声が聞こえてきた。
声のした方へ視線を向けると、夜闇に浮き出た光を思わせる白い竜人の少女がいた。
今宵も変わらず可憐で愛らしい。
願った再会が果たされて、思わず胸の奥が熱くなる。
暗かった表情が晴れていくのを自覚しながら、現れたロゥリエに駆け寄った。
「来てくれたのね! 嬉しいわ!」
言いながら、華奢で小柄な躯体を抱き寄せる。
むぎゅう、と抱きしめると日だまりの温かな香りが鼻腔に飛び込んできて、飽きるほど長い抱擁を一方的に交わしてしまう。
抱擁を解くとロゥリエは顔を微かに赤くして、こほん、とわざとらしい咳払いをひとつ鳴らした。
「話したいことがあるの。場所を変えよう」
断る理由なんて一つもなかった。
頷くと、ロゥリエは歩き出した。その背中を追っていく。
どんなことを話すのだろう。
ロゥリエは真哉の事を好きなようだし、そういう事なら相談相手になってあげられそうだ。経験者だもの。
もっと彼女のことを知りたい。
きっと彼女とは友達になれる。
期待に胸を躍らせながら、月光の注ぐ街のなかを二人歩いた。
──
同刻。
アンリエッタの下に向かったロゥリエとは別行動を取っていた真哉は、真夜中だというのに扉の隙間から光の漏れる支部長室の扉の前に立っていた。
昼下がりのことだ。
堂島から一本の電話が入り、深夜に魔導局を訪れるように指示された。
アンリエッタの下に向かう手筈だったロゥリエの傍に居てやりたかったが、拒否を許さない堂島の声音には従う他なかった。
扉の前で呼吸を整える。無意識のうちに鼓動が早まる。
緊張を飲み込み、扉を叩く。
中で待つ男の声はすぐに返ってきた。
支部長室に入ると、廊下の闇を祓うほどの眩しい明かりが視界に満ちて、目を細めた。
「来たか。座れ」
部屋の奥には椅子に腰かけた堂島が居て、顎で部屋の中心の長椅子を指した。
向き合う形で置かれている長椅子の一方にはシエラが横になっていて、心地よさそうに眠っていた。
眠っているシエラを容赦なく椅子から蹴り落とし、堂島が替わって腰かける。
床に転がるシエラだが、眠りから目覚めることはない。……寝つきが良すぎるにもほどがあるだろう。
床でも遠慮なしに眠るシエラを見やる真哉を他所に、堂島が口を開いた。
相変わらず冷たい声だったが、明らかに声音の影には怒気が潜んでいた。
「単刀直入に問うが、何故アンリエッタを殺さなかった」
堂島の口から放たれた問いは、本来彼には決して観測できないはずの事実の言及。
アンリエッタとの密会を知っているのは当事者の三人だけのはずだ。
その事実が部外者であるはずの堂島に伝わっているということは、つまりそういうことなのだろう。
「監視してたんですか」
堂島が鼻で笑う。
貼りついた笑みの底には、嘲りと軽蔑の混じり合った不気味な影が潜んでいる。
冷や汗が滲む。
握っていた拳の中まで汗が噴き出て、鼓動が早まったのを自覚する。
うるさい心臓の音を鎮めようとするこちらの焦燥を知ってか知らずか、堂島は更なる脈拍の上昇を煽った。
「端からアンリエッタの殺害など期待していなかったのでな。八代に監視を命じておいた」
冷淡で薄情な告白。堂島は表所ひとつ変えずに言い放っていた。
部屋に満ちる空気が切り替わる。
選ぶ言葉を間違えれば、容赦なく法で切り伏せられると察知できる緊張。
誤魔化しは出来ない。直感がそう語る。
返すことが許されるのは、内心に秘める真意のみだと堂島の鋭利な視線が語っていた。
「そのことについて僕からも話があります」
ぴり、と空気が一層張り詰める。
堂島は眉根を持ち上げつつも、腕を組み、背もたれに体を預けて凝然と構える。
一見すれば平然とした態度だが、露骨な貧乏ゆすりが床を叩いていてそれが装われたものだと伝えていた。
——今は退いたら駄目だ。
堂島の苛立ちを目の当たりにして失くしかけた平常心を何とか拳の中に握り締めた。
「僕とロゥリエは、アンリエッタを殺したくはありません」
堂島の血色の双眸に宿る暗影が深さを増した。
視線を合わせた相手を深淵の底に引きずり込まんとする漆黒が湛えられていて、突然の告白で撤回されたアンリエッタの殺害の真意を堂島は内心で探り始めた。
——……やはりか。八代を監視に着けておいて正解だったな。
——しかし何故急に。……いや、端からアンリエッタを殺す気などなかったのか。
「どういうつもりだ。ならばロゥリエはこちらが預かるが構わないな」
現実を突きつける。
今こうしてロゥリエの自由が許されているのは、教団や竜の襲来が相次ぐなかで行動が予測できない危険因子であるアンリエッタを排除する為だ。
それが適わぬと言うのならば、ロゥリエに自由を与えることは出来ない。
けれど真哉は臆することなく、堂島の眼を見返している。
真っ直ぐに信念を貫く覚悟を固めた鋼の視線。
先刻までの怯えや動揺はもはや影もない。真哉の胸には、ロゥリエと確かめ合った信念が憂いと逡巡の闇の中でも強く光る道標となっていた。
「それは出来ません。ロゥリエのことは僕が責任を持ちます。その上で、堂島さんに頼みたいことがあります」
堂々たる返答。
堂島さえ得意の嫌味を返すことなく聞き入ってしまう凛然とした声音は、おそらくそれを聞いた全ての者に野暮な返答を許さなかった。
顎で応え、続く言葉を待つ堂島だが、次の瞬間に耳に飛び込んできた我が儘には、装っていた平然を保てなくなった。
「アンリエッタを魔導局で保護して貰えませんか」
「は?」
図々しいにもほどがある無遠慮な願望。
思わず堪えてきた苛立ちを一斉に声に出してしまうが、鋭い軽蔑と憤慨の刃を喉元に突き付けられても真哉は表情を変えずにいる。
睨み合いが続く中で堂島はついに、真哉の双眸に宿っていた信念の正体に気づく。
それはいつかの自分も抱いていた。青臭いと諦め捨てていたもの。
正義。
ただそれひとつだけだった。
「ただで保護してくれなんて烏滸がましいことを言うつもりはありません」
——ロゥリエはアンリエッタに真実を言う覚悟を決めたんだ。
——僕だって、覚悟を決めないと。
——……いつまでも自分の責任から逃げてばかりじゃ、何も変わらないだろ。
「——屠竜師として戦います。ロゥリエとアンリエッタが今後起こす事態全ての責任を僕が持ちます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます