第七話 『死を背負う』
夜。深い闇が空から注ぐ。
静寂が満ち満ち、星影が街を照らす。
人の気配が消え果せた街からは当然雑多の音は響かず、点々と残る街灯りは寂しい。
いよいよ街が人間の生活圏ではなくなっていくことを否応なしに知ることになる。
闇夜を見下ろす影がふたつ。
互いに言葉を交わすことないけれど、意思だけは確かに通わせていた。
『あの子を探す。アンリエッタは見つけても、向こうに敵意がなければ交戦しない。それでいいな』
彼女はいま尚、この街のどこかで助けを求めているはずだ。
『うん。わたしもアンリエッタには助けられたから。できれば穏便に済ませたい』
意思を確かめ合って、ふたつの人影は街へ降り立った。
―—
丑三つ時を迎えた街は、土地そのものが霊界へと様変わりしてしまったかのような冷気と視界を奪う濃い霧に包まれていた。
中央区。
本来ならば朝までネオンの眩しい景色が続く繁華街も、今となっては瓦礫が積み上がり、周囲の廃墟と大差ない。
閑散とした繁華街の通り。瓦礫と地面に広がる黒ずんだシミが、先日の竜の襲来時ここがどんな地獄になっていたのかを脳に爪を立て想像させた。
吐き気を催すような景色から目を逸らし、傍らの少女を見やって真哉は呟いた。
「ロゥリエがああ言ってくれて嬉しかった」
外套のフードを深く被ったロゥリエがこちらを見やる。
角を隠すために被ったフードは不格好に膨らんでいて、風に煽らぬように抑え込んでいる指先は長夜の冷えた空気に晒されて赤く悴んでいた。
素顔を隠したまま、ロゥリエは外套の影のなかで静かに笑みを零している。
ロゥリエは自分の選択が正しかったのだと、言葉を受けて実感していた。
思考や五感とはまた違う、もっと心の深い部分で彼と通じ合えた気がした。
すこしくすぐったくて、けれどどこか官能的な相互理解。
心に距離と呼べるものがあって、それが縮まるのだとしたら、きっとこんな感覚になるのだろう。
そう思うと、溢れそうな笑みを堪えるなんてことはできなかった。
「わたしは真哉の役に立てそう?」
訊ねてみる。念話でもできるはずのやり取りだが、今はすこしだけ彼の声を聴いていたかった。
コミュニケーションを円滑に取るために念話には念話で、肉声には肉声で返すよう、旧書庫での生活が始まってから決めた二人だけの約束だった。
真哉はちょっぴり目を見開くと、やがて砕けたように笑った。
穏やかに水面を撫でる湖畔の風のような声が、いつになく弾んで返された。
「当たり前だろ。頼りにしてる」
意図せず、胸が熱くなった。
彼のためなら、わたしはきっとなんだってできる。
熱を帯びた思いが筒抜けになっていることさえ忘れて、ロゥリエは肩が触れ合いそうになるほど真哉に身を寄せた。
――
夜半を流れていく風が、捧げた鎮魂の音色を攫っていった。
もう何度捧げたか分からない冥福の祈り。
あと何度歌うのか分からない喪失の嘆き。
夜天を染める数多の星の煌めきのなか。私だけが、どうしようもなく孤独だった。
この身に降りかかる孤独が人となった代償だと言うのなら、あとどれだけの犠牲を払えば愛した彼とこの大地に人として一緒に居られたのだろう。
わからない。
あるいははじめから、そんな傲慢。竜には許されていなかったのかもしれない。
満ちて星座を描く輝きは脳裏に孤独の種を植え付け深く奥まで根を張らせていく。
「私、独りじゃまるで前に進めないの。貴方なら何か前に進める方法を知っているでしょう……?」
膝を抱えて蹲る。
眼前には、ガンドの亡骸が横たわっていた大地が広がっている。
竜の血を吸った地面からは草木が生い茂って星の祝福を一身に受け、僅か数日足らずで大地は立派な森に育っていた。
竜の魔力に侵された森は、怨讐と怨嗟の声が永遠木霊す異界として世界に顕現していた。
森から響く声はどこかガンドの竜だった頃の咆哮に似た気配を帯びていて、無意識のうちに彼の肉声に重ねさせた。
「……ねぇ。どこに行ってしまったの」
虚空に語り掛ける。
返答はない。
代わりに、予期せぬ声が背後から聞こえてきた。
「こんなところで何してるの。アンリエッタ」
奏でられた言の葉は、そう聴き違える程の美麗な音色で紡がれた。
声のした方に振り返る。
そこは異界の森と破壊された街の狭間。
瓦礫の影から顔を覗かせ、こちらに視線を送る一人の竜人の少女が居た。
風に揺れる銀色の髪を、羨んだことは忘れもしない。
神にその身を創造されたと言っても過言ではないほどの身体の造形に、思わず見惚れてしまう。
「久しぶりね。こんな真夜中にお散歩かしら?」
ロゥリエに問いかける。
小さく首を横に振る彼女の後を追ってきたのか、いつか手を貸した青年が後に続いてやってくる。
破壊された街並みの中に、突如出現した季節感など知らぬ青々とした森を視界に入れると目を見開いた。
「この森は……」
数日前までは雑草ひとつすら生えていなかった禿げた大地に広がる広大な森。
目の当たりにして真哉は、森の中に滲み充満する色濃く深い黒い魔力に悪寒した。
通常、大気中には絶えず星の力の流れ——マナが存在している。
それは空も大地も海も同じだ。
だというのに、この森は世界に馴染むことなくまるで意志ある個の生物であるかのように、森の中で魔力を風のように循環させていた。
森を眺めるアンリエッタに近づくロゥリエの後を追うが、徐々にどす黒い深淵の影を思わせる気配は濃くなっていく。
『真哉、来ないの?』
アンリエッタの隣に無警戒にも腰を下ろし、振り向いて隣を誘うロゥリエ。
首を横に振って答えると、少し寂しく惜しみながらこちらの拒絶の正体たる森を見やって深く納得した。
竜には些細な残響めいた魔力の流れだが、人間にとってそれは大きな世界の歪みそのものだ。
二人の間にそんなやり取りがあったことなどつゆ知らず、アンリエッタが真哉が呆然と口にした先刻の声に言葉を返した。
「竜血の影響よ。赫陸にならなかったのは奇跡ね」
遥か南の大陸を支配する、木々も大地も赤く染まった血染めの大地。
ありとあらゆる作物が育ち、土地が肥え、命の芽吹きと文明の開花が永劫絶えることなく続くという。
収穫される作物はあらゆる病を浄化し、傷を癒し、摂取すれば若返り、生物の寿命を永劫に延ばすとされている。
竜血は、いわば百薬の長だ。
赫陸を創るほどの膨大な魔力を秘める神薬は、当然大地のみならず人間や動物の肉体にも絶大な恩恵をもたらすものだった。
祖の竜殺しの英雄がそうであったように、竜血を浴びた生き物は不死の肉体を手に入れる。
屠竜師が簡単に死ぬことがないのもその恩恵故であって、しかし転じてその祝福は人間にとって『呪い』でもあった。
離れた物陰で真哉が足を止め動かなくなった理由をアンリエッタも察したらしい。
腰かけていた瓦礫から立ち上がると、ぱたぱた埃を払いながら告げた。
「私に用があるのでしょう。いい隠れ家を知っているの。場所を変えましょう」
―—
アンリエッタの案内に従い、真哉たちは街を歩いていく。
視界に聳える建造物群からは、華やかさと清潔感はだんだんと失われていった。
雨風に晒されて出来た錆鉄と捲れたコンクリが目立つ狭い路地を抜けると、開けた土地にでた。奥には、朽ちて支柱が剥き出しになった廃工場が静かに鎮座している。
——まさか……。
真哉の脳裏を過った懸念は的中している。廃工場の壊れた扉に手を掛けると、アンリエッタが振り返った。
「中に入って。結界で外部からの観測は断っているから内緒話にはもってこいでしょう」
信じていいものだろうか。
共闘した過去があるとは言え、明確に互いの不可侵を誓ったわけではない。
根城に誘い込まれている気がして考えあぐね、工場の中に入ることを真哉は躊躇った。
不審な挙動に小首を傾げるアンリエッタだったが、すぐにこちらの逡巡を悟ってか。苦い笑みを浮かべていた。
不意に、ロゥリエの声が脳裏に響く。
『大丈夫。何かあったら私が守る。……それに、アンリエッタは信用していいと思う』
『証拠がないだろ。危険すぎる』
念話の最中、ロゥリエは一人で廃工場に向かっていく。
背中に向けて制止の念を飛ばすが、ロゥリエは止まることを知らない。
かと思えばアンリエッタの前で歩みを止めると、突然すんすんと鼻を鳴らして菖蒲色の竜の香りを嗅ぎ始めた。
「ちょっ……ロゥリエ!? 近いわ……!」
赤面するアンリエッタに構わず豊満な胸に飛び込んで。彼女の匂いを吸いつくそうとするロゥリエ。
一頻り彼女の匂いを堪能しきると、紅潮して蹲るアンリエッタには目もくれず、ふぅ、と流れてもいない汗を拭いながら向き直った。
「血とか、火薬の匂いはしないよ。信用していいと思う」
もう少しやりようがあったのではないかと思うが、喉の奥に言葉を飲み込んだ。
というのも脳裏に流れてくる思考でロゥリエは、口にしたのとは全く別の言葉を並べていたからで。
『同じ竜人なのにここまで大きさが違うなんて不公平。……真哉の目線が釘付けになるのも納得できる』と。念じて自分の胸を撫で下ろすロゥリエの手は、すかっ、と虚しく空を切る。
視線は、両手で顔にぱたぱた風を送るアンリエッタの胸元に向けられていて、ロゥリエから伝わってくる内心は嫉妬で黒く染まっていた。
―—
「角を収められないなんて変ね。自分の身体でしょう?」
ロゥリエが秘めていた悩みを打ち明けると、アンリエッタは小首を傾げつつロゥリエに問い返した。
廃工場の内部。
人工の明かりはなく、抜けた天井から注ぐ月光だけが工場の中を淡く照らしていた。
歩を進める度に埃が床から舞い上がり、工場の奥には火の消えた焚火の跡が残っている。
周囲の景色から明らかに浮いた生活感の強い白いベットと、食べかけの栄養調整食品があった。
魔導局による捜査の手から免れ続けているのも、工場を覆う高度な結界故に成し得ているのだと内心で真哉は感心していた。
魔導局の紋章が刻まれた鉄箱の上に腰かけ、ロゥリエはアンリエッタと会話を続けている。
脳裏で白い少女について聞き出せるよう真哉から会話の誘導を受けつつ、唇では器用にアンリエッタと会話を成立させられているのは、竜人たるロゥリエの脳の処理能力の高さ故なのだろう。
淡々と、二人の相手と同時に全く異なる会話を交わしていた。
「自分の体でも、妙な感覚がある。力も真哉に補完してもらってなんとか四割を維持できている状態だから」『あの子のことを聞き出す前にアンリエッタの目的を知りたい。この街はこれからもっと危険な状態になるのに残るということは相応の理由があるはず。場合によっては敵対することになるかもしれない。上手く聞き出すから、期待してて』
と、何故か自信ありげに念じるロゥリエだが、あくまで警戒の色は解かない。
慎重に探りを続けるロゥリエの眼を、突然アンリエッタの竜眼が覗き込んだ。
異能の発動はないが、断りの無い鋭い眼光が一瞬二人の警戒の段階を引き上げさせた。
緊張が走る。
注ぐ月光を従え、アンリエッタの視界を奪って真哉と逃亡する算段を脳裏で組み立てる。
が、それは幸いにも杞憂に終わってくれた。
「確かに、少し妙な状態ね」
呟いたアンリエッタは瞼を閉ざし竜眼を鎮める。
西洋の貴婦人を思わせる仕草のまま、名探偵のように口元に手を運んだ。
竜として生まれ育ってきた経験と培われてきた知識を組み立て、ロゥリエの身に起きている本来あり得ない異常についての考察を語り始める。
「竜人とは、竜が人間の血肉を取り込むことで昇華する上位種よ。人間のゲノム情報を蓄積していくことで、竜は人間としての肉体を手に入れる」
数十年前に判明した竜人のメカニズムだ。
人間の生活圏に入ってから得た知識なのだろう。
真哉もロゥリエも、書庫に籠っていた間にその類いの論文は嫌というほど読み漁っていた。
深く同調を示す二人を一瞥し、アンリエッタ。
「一度竜人になった竜の血統は、子々孫々竜人に成り得る高いポテンシャルを持ってこの世に生を受けるの。それは即ち、竜の中でもとりわけ強力な個体として生まれてくるということ。私も、その血筋に生まれたわ」
今となっては遥かに過去。故郷に思いを馳せながら語る貴婦人。
焼き付いて離れないのは、庭園の花々の極彩色の彩りと彼方の戦場から流れ着いた傷だらけの一匹の巨竜。
咲き誇る花々と同じように、丁重に壊れぬようにと小さな箱庭の中で生きてきた彼女にとって突然現れた『彼』との出会いは衝撃だった。
「……でもロゥリエ、貴方は違うのでしょう? 親はいないでしょうし、人を食らったことも当然ない」
問いかけに、全力でこくこくと頷くロゥリエ。
穢れと邪な心を看破することに特化したアンリエッタの竜眼で凝視したロゥリエの魂には、一切の暗い影がない。
それどころか、彼女自身がこの世の光そのものであるかのように思わせる真っすぐで無垢な温かな光に見惚れてしまってさえいた。
温もりも清純さも、その魂に起因しているのだろう。
ロゥリエの秘める純粋さと清らかさが、竜人となる為に南国の小島の人間を殺し尽くしたアンリエッタの心を人知れず深く抉った。
「竜人に成る為の過程を省略した影響かしら。本来、竜人とは竜と人間の同化存在。その者は、竜であり人であるのよ。でもロゥリエ、貴方は違う。同時存在とでも例えればいいのかしら。竜であろうとする貴方と、人であろうとする貴方の存在が拮抗して引き合っているのでしょうね」
言われても、ロゥリエは合点が行かず不満げに唸るばかりだ。
むむむ、と頭を抱えて自分の身に起きている異常が想像より深刻な問題であることを知ったロゥリエを、アンリエッタは柔らかな笑みを浮かべ見守っている。
「時間はあるのだし、ゆっくりと調べましょう。協力は惜しまないわ」と友好的な意志を聞いて、ロゥリエは不意に我に返った。
——『時間はまだある』ということはアンリエッタはこの先もここに残るつもり……?
真っすぐにアンリエッタを見返し、当初の想定とは随分とかけ離れた、駆け引きも何もないド直球な言葉でロゥリエは問いかけた。
「この街にまだ残るの? 理由はなに? 教えてほしい」
これが計算して辿り着いた質問なのだとしたらどれほど安心して会話を聞けていたものか。
真哉は隣で呆れて、頭を抱える。
ロゥリエの思考が絶えず頭に流れ込んできていた真哉には、それが偶然到達できただけであったことが痛いほど理解できて、不安を抱かずにはいられなかった。
アンリエッタは唐突な質問に目を丸くしている。
食い気味だった質問の出どころを脳裏で探っているうちに街の封鎖に辿り着いて、合点がいく。
これから魔導局の戦力が集中することになるであろう街に竜人が独りで残ることを案じてくれているのだろう。
アンリエッタはそう確信した。ロゥリエの心の温かさに胸を打たれた気分だった。
実際は、的外れも甚だしいのだが。
「心配してくれるのね。……うれしい。そうね。貴方たちには教えておこうかしら」
「え?うん」
当の本人であるアンリエッタがすれ違いを自覚することはない。
そのすれ違いがどれだけ虚しいものになるのか。
知らぬまま、無知なる竜人は愚かにも自分がこの街に残って果たそうとしている目的を口にした。
「ガンドを殺した無礼者に報いを受けさせる。持ち去られた彼の亡骸を探し出して、持ち去った者にも死ぬ以上の地獄を見せてやるわ」
「——」
返す言葉に詰まった。
そればかりか数秒、アンリエッタの双眸を黒く染めた憎悪と憤怒を目の当たりにして。
ロゥリエは呼吸をすることさえ躊躇った。
ガンドという名の竜を屠ったのは、何を隠そうこの手なのだから。
動揺している。
自覚して、呼吸をしようとするが、上手くできない。
浅く短い吐息が不規則に繰り返されるだけ。
傍らのアンリエッタが、底知れぬ恐ろしさを秘めた復讐鬼に見えた。
どす黒く渦巻く空虚な殺意と、静かに研がれていた残忍さが表面化している。
——だめ、だめ……。
動揺が鎮まらない。
鼓動は早くなる一方。
手に汗が滲んで、背筋にもじわりと冷や汗が浮かぶ。
——ここでばれたら、絶対にだめなのに……!
真哉を見やる。
ここで焦りを見抜かれてしまったらきっと争いになる。
それに真哉は巻き込めない。
自分で蒔いた種だ、自分ひとりでなんとかしないと——。
『帰ろう』
流れ込んでくる念話。落ち着き払った態度のまま真哉は言った。
わざとらしく携帯で時間を確認している。
夜明けまではまだ遠いはずなのに。
『でも……』
あの子を探すための情報をまだ聞き出せていないというのに。
『いいから。帰るぞ』
不意に、真哉の手が重ねられた。
『……』
震えている。
熱をなくしたように冷たい手に、ぎゅっと固く力が込められた。
『ごめんなさい。……真哉も怖いのに』
言葉も念話も返されない。
すこし強引に手を引かれつつ、立ち上がる。
げらげらと主の無様を嗤う膝に鞭を打つが上手く立てなくて、真哉に寄りかかった。
肩に腕が回されて、倒れないように抱き寄せられた。
ドクン、ドクンと強い脈拍が聞こえる。
「どうしたの?」
アンリエッタが訝しむ。
明らかに挙動不審な行動を取っているのだ。怪訝に思って当然だ。
万策尽きたかに思われて、真哉に強く念を送る。
『私の責任だから真哉は逃げて』
伝えて、魔力を滾らせる。
動揺して上手く魔力を回せない。けれど、そんなことかまうものか。
彼を逃がせるのならそれでもいい。
そう思っていた。
『?』
違和感に気づく。
次いで真相に——応戦するのに必要な魔力が枯渇していること気づいて、密着する彼の顔を思わず見上げた。
真哉に魔力循環を阻害されている。
何故、と焦燥と困惑に任せた言葉が声になりかけた刹那。
アンリエッタの問いに、真哉が答えた。
「魔力が切れたみたいだ。今日はもう帰るよ」
悪あがきも甚だしい嘘。
人間の数倍近い魔力を内包する竜は、丸一日魔力を行使することとなる活動を続けても魔力切れによる疲労や卒倒はあり得ない。
日常の活動のみで魔力切れを起こすなど、もっての他だ。
真哉の素人めいた嘘で、いよいよロゥリエが残る魔力でアンリエッタの視界を奪おうとした時だった。
「そう。それは残念ね。特殊な体質だもの。私たちの常識は通用しないわね」
嘘は暴かれることなく、アンリエッタの柔和な微笑が向けられた。
だが、どこか寂しげな表情は、微かに憂いを帯びていた。
腰かけたベットの上で膝を抱え、二人の背中を見送るアンリエッタ。
姿は違えど身を寄せて歩く二つの影に、過ぎ去りし日のガンドとの思い出を重ねていた。
真哉の横顔を見上げるロゥリエの表情には、覚えがある。
自分がガンドに向けていたのと同じだった。
「待って」
知らず、二人を呼び止めていた。
困惑しつつ振り返る二人。
ロゥリエは一層真哉の胸の中に抱き寄せられて、それがすこしだけ羨ましかった。
愛する人の胸の中に抱かれることは、ついぞ叶わぬ願いとなってしまったのだから。
上手く言える自信はなかった。
精一杯、言葉にしてみる。
「明日も、来てくれないかしら」
訊ねると二人は目を見開いた。
「どうして」
ロゥリエが訊ねてくる。
瞳は見えないけれど、声音と気配から微かな動揺が感じ取れた。
無理もない。
だってこんなお願い、生まれて初めて言葉にするのだから。
きっとぎこちない気持ち悪いものに聞こえてしまう。
振り絞って言葉にした。
「お友達になって欲しいの。きっと迷惑をかけてしまうけれど。……だめ、かしら?」
不格好で不細工な幼稚な言葉遣い。気に障っていないといいのだけど。
去っていく二人から答えは返ってこない。
逃げるように足早に去っていく背中を見送りながら、愛する人の居る者同士ロゥリエとは良き理解者なれたらいいな、と心のそこからそう思った。
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