第六話 『白影を求める』

「なんで殺さない……」


 苛立って、吐き捨てた。

 虚空に向けた言霊は、薄闇に反響して返ってくる。

 やがて僅かに離れた場所から、一人の女の声が答えた。


「貴方に聞きたいことがあるの。殺しては意味がないでしょう」


 言いながら竜人の女が歩み寄ってくる。純白の髪と菖蒲色の双眸が目を引く、竜人アンリエッタがそこに居た。

 手は赤い血に染っていて、口元は子供が母親の口紅で真似たように赤く乱雑に汚れている。

 喉元まで垂れる血が、アンリエッタが直前まで人間の血を啜っていたのだと鹿野に認識させた。


「どうせ生かしはしないくせによく言うぜ」

「ええ。よく分かっているじゃない。ガンドの死体を弄んだ貴方たちを生かしておく気はないわ。彼はどこ?貴方たちは何者?」


 アンリエッタが詰問する。復讐の憎悪と激昂が瞳の奥に渦巻いていた。


 アンリエッタはガンドの死体を弔うべく八代たちの前から逃亡していた。

 男を抱えて逃げたのは、彼を拘束しておくことで今後八代たちとの交渉に使えると踏んだからだ。

 あの場で八代が男を殺さずに生かしておいたということは、何か情報を引き出そうとしていたに違いない。その主導権をこちらが握れば、何か有益な情報を八代たち魔導局から聞き出せるのではと踏んでいたのだ。


 だが、ガンドの死体のあった場所まで戻った時。男を拘束する理由はそればかりではなくなった。


 ガンドの死体が消え失せていたのだ。

 探せども人間の手で運ばれた痕跡はなく、残された転移の円陣を発見したアンリエッタは、彼が白い外套の集団の手によってどこかに転移させられたのだと確信した。


「聞いてどうするつもりだ?交渉でもするか?先に言っておくが無駄だぞ。ヤツらは竜人の言葉に耳を貸さない。竜のことなんか、せいぜい人間にとって都合のいい供物程度にしか思ってねえぜ」

「それでも構わないわ。交渉が無理なら吐かせるまで」


 言って、奥にあったテーブルの上に置かれていた工具を手に取る。

 人間の生活圏に足を踏み入れて数ヶ月程度の時間で経た知識を寄せ集め、それらしい道具を揃えた結果集められた道具たち。ペンチ。ナイフ。のこぎり。ライター。

 無知故に集められた凶悪卑劣な道具たちが、振るわれるその瞬間を今か今かと待ち侘びている。

 パチン、パチン。アンリエッタの手の中で、ペンチが牙を剥き出し鳴く。


「まずは爪剥ぎから」


 冷徹に。冷淡に。ペンチが指先に伸ばされる。

 爪を摘んで、力が込められる。

 じりじりにじり寄る悪魔の足音のようにペンチに力が込められていく。

 ぶちっ。

 爪が一枚、床に捨てられた。

 男の絶叫が言葉にならずに喉から響く。


「ぁぁぁあああッ!」

「言わないとこの痛みが続くのよ。早く吐くことをお勧めするわ」


 次の餌食は人さし指だった。

 素早く爪を引き抜かれて、激しい痛みが指から脳へ走って痛みに喘ぐ。

 そして中指の爪が捻じるようにゆっくり抜かれる。

 ひたすら痛みが連続して脳に伝達され続けて、苦痛が脳を埋めつくしていく。

 薬指、小指と淡々と爪が剥がされてく。

 その度激痛が頭を内側から叩くが、口を割らずに黙秘を貫く。


「……まだ吐いてくれないのね」


 左手の指の爪を残したまま。アンリエッタは道具を持ち替えた。

 ライターだ。

 ぎこちなく火をつける。と、それを爪を剥いだ皮膚に近づけてくる。

 皮膚に熱を感じた途端に、鹿野の全身から脂汗が吹き出して。


 じりっ、と肉が炙られる音がした。


 思考を引き裂く警鐘に、意識はそこで途切れた。


 ――


 翌朝。

 シエラが旧書庫の扉を開くと、入り口からすぐの机で既に目覚めていたらしいロゥリエが待っていた。

 何やら魔導書の濫読中だったようで、空間のそこかしこに彼女の魔力操作によって浮遊している本が浮かんでいた。

 本に込めた自身の魔力を経由して直接脳に情報を受信しているようだ。一見すれば映画や御伽噺の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こさせる見事な幻想風景だった。


「おはよう。シエラ」


 シエラの気配を察してか、ロゥリエが口を開いた。と同時に、旧書庫の中に散乱していた本という本全てが、独りでに動き出して棚の中に飛び込んでいく。

 さながら映画の一幕を実演すると、およそ一万冊もの本の軍勢を一斉に動かした張本人であるロゥリエは、魔力操作の繊細さと正確さに感心し手を叩いていたシエラに向けて言った。


「アンリエッタを探しに行きたい。私をここから出して」



 世の中には『筋』というものがある。


「——許すはずがないだろう。言ったはずだ、藤上が屠竜師となるまではお前のことを局から出すわけにはいかないと」


 支部長室。

 徹夜続きだった体を労わって仮眠を取っていた堂島を叩き起こしたのは、シエラからの電話だった。

 もっとも電話の声の主はロゥリエのだが、開口一番何を言い出すのかと思えば無茶苦茶な要望を告げられた。


 アンリエッタを探すために外に出る許可を出せ、と。それはあまりに勝手が過ぎるもので。


 返答は当然、否。

 そんな我が儘を見過ごすわけにはいかなかった。


『どうして。このままアンリエッタを野放しにしていていいの。早く見つけて殺さないと』


 焦燥を煽る台詞。

 事実アンリエッタは、ロゥリエが屠ったガンドを名乗る竜による襲撃に何かしら関与している可能性がある危険個体として魔導局の優先討伐対象に登録されていた。

 人海戦術を用いて虱潰しに街中を捜索している事実は、作戦に抜擢された屠竜師以外は知り得ぬ情報だ。

 間抜けなシエラが口を滑らせたのは容易に想像できた。


 ——あの糞尼……覚えていろよ。


 大きく舌打ちして、部屋の窓から旧書庫の方向を見やる。

 丁度旧書庫の窓の隙間からシエラが顔を覗かせていたので中指を立ててやる。

 あちらからも中指が立てて返されたので、内心で勤務態度の悪質な部下の減給を決心した。


「やけに結果を焦るんだな。何があった」


 これまでのロゥリエからは想像がつかない明確な敵意。

 真哉を傷つけられているのならばいざ知らず、アンリエッタとの間にそういった因縁があるとの報告を堂島は受けていない。

 朝、目が覚めて突然殺意が湧いてきたわけでもあるまい。考察しつつ堂島はロゥリエからの返答を待った。

 束の間の沈黙。

 破ったロゥリエが紡いだ言葉は、数日前の彼女からは決して発せられない言葉の数々だった。


『竜害対策法案第三章『竜人と認められた個人についての対応』。その第八項に書いてある。竜人と認められた者に対して個人を保護する一切の法律は機能しない。それに、第十三項には確認から五日以内に殺害を達成できなかった場合担当責任者の交代命令が本部から出るって書いてあった。多分、堂島がこの案件を処理できないと魔導局の信用は本当の意味で失墜することになると思う。私はそれに協力すると言っている。悪くない条件のはず』


 それに、とロゥリエ。


『真哉が屠竜師になるまで待つなんて条件はあってないようなもの。屠竜師になるための試験は年に二回だけ。既に今年度の一度目の試験は終了しているし、次の試験は一か月後。一般人である真哉は三日後には街を追い出されるから街に残る為に屠竜師になるなんて不可能。その条件はいくら何でも堂島に都合が良すぎる。私を消そうとしている魂胆が見え見え』


 ロゥリエの異論を聞いて、堂島は素直に彼女の情報処理力の高さに感心していた。

 この数日間やけに大人しく、一度も軟禁について反論してこなかったのはこの為か。

 お前と組織の社会的地位を守ってやるから外に出せ、とロゥリエは言っているのだ。

 半ば脅しのような提案に、堂島は思わず天を仰いだ。


「藤上を呼べ。話がある」


 そして次の瞬間には、デスクに向き直っている。

 頭を抱えて心底愉快に笑いながら、堂島は椅子に深々と腰かけた。


 ―—


 その日もロゥリエの下に向かおうとしていた真哉だったが、魔導局に到着するや否や入り口で待ち構えていたシエラの案内で支部長室に通された。

 この数日間、一度だって自分からは入れなかった支部長室。

 痺れを切らした堂島が催促の為に呼び出したのだろうという真哉の予測は、思わぬ形で裏切られることとなった。


「おはよう。真哉」


 支部長室に入るのと同時に聞こえてきたのは、そこには本来居ないはずのロゥリエの声。

 部屋を見やると中央の長椅子に腰かけ、ココアを口にしているロゥリエが居た。見れば彼女は屠竜師と同じ朱殷の外套に身を包んでいる。

 理解が追い付かずに声になりかけた言葉を念話にした。


『なんでここにいるんだよ。旧書庫から出られなかったんだろ』

『これから説明する。けど、これから私が声に出して話すことは全て建前だから。真哉は話を合わせてくれればそれでいい』


 ますます状況の理解が追い付かなくなる。

 そんな真哉の困惑を他所に、ロゥリエは堂島に視線を寄越した。

 受け取った堂島は支部長のみが席に着くことを許される黒い椅子から立ち上がり、ロゥリエと真哉と対面する位置に腰を下ろした。

 単刀直入に。端的に。

 堂島が告げる。



「藤上。お前にはロゥリエと共にアンリエッタを殺してもらう」



「……は?」


 言っている意味を上手く処理できずにいた。

 何度か反芻してやっと、自分が最も腑に落ちる形に言葉の輪郭を変えるが、それは到底受け入れがたい要求だった。


 人を殺せと、この男は言っているのだ。


 真哉の困惑なぞ微塵の興味もない堂島は続ける。

 いつかのように事務的に無機質な冷淡な低い死神の声だけが、部屋に響いた。


「だが制約をつけさせてもらう。捜索及び殺害に使う時間は深夜のみ。日中はお前の家にロゥリエを匿え。これがロゥリエを外に出してやる条件だ」


 受け入れられない。

 他人の命を奪ってまでロゥリエを外に連れ出そうという気は、真哉には毛頭なかった。

 傍らのロゥリエはなぜか納得しているようで、見やると彼女はその薄く口紅を引いた唇を動かして言った。


「わたしはそれでいい。アンリエッタはわたしが殺す」


 アンリエッタへの殺意を語った声音に戦慄させられる。

 背筋を撫でた冷刃はひと時呼吸を忘れさせるほどの絶対的な恐怖を魂の根底に深く刻んだ。


 ――


「失礼します。……って、堂島さん。ここ禁煙じゃないんですか」


 開口一番上司に向かって、なっていない口を聞いたのは八代だ。

 鼻を摘み、煙を吸わないように予防しつつこちらに歩み寄って来る。


「喫煙者というだけで白い目で見られる。いよいよ世紀末だな。この国も。竜を局の入り口に連れてくる馬鹿がいるのも納得だ」


 ぴき、と空気に緊張が走る。

 ロゥリエが顕現したあの日。相談もなしにロゥリエを局まで連れてきた八代に落ち度があることは明白だった。

 見返す視線を堂島が窓越しに送ると、八代は視線を落していた。

 向き直って堂島は革製の深い椅子に腰かける。

 対して八代は、デスクの前で視線を落としたまま。

 その視線が、報告書と始末書の山の間に置かれていた書類の束に吸われて、八代は内に秘めていた疑念を言葉にして堂島に問いただした。


「やっぱり、藤上君のこと調べたんですね」

「違法調査は不満か。偽善者」


 容赦ひとつない言葉が返される。

 正義感の強い八代にとって、堂島のこういった法外な手段での調査や任務には癪に障る部分が多々あったが、この時ばかりは目を瞑った。

 八代自身も、ミドゥルとの戦闘の最中の真哉の行動から彼に常人離れしたものを感じていたから。

 在学していた高校が同じだったこともあり、以前から真哉の魔導の才能は聞き及んでいたが、底知れぬその力の片鱗を先日目の当たりにして確信した。


 彼が何者であるのかを。

 彼が何処で魔導を身につけたのかを。


 それは堂島も気づいているのだろう。

 知ったうえで、真哉に対して異様に対応をとっているようだった。


「なぜ彼にそこまで固執するんですか」


 問い詰める。

 魔導局は屠竜師として資格を持ち得る人間しか関係施設への出入りを許されない厳格な組織だ。

 だというのに一般人である真哉は、堂島からの特別許可という一点だけを理由に連日、魔導局に出入りしている。

 ロゥリエの相手をするだけならばシエラや梓にも務まるのに、だ。

 それではまるで魔導の知識を飲み込ませるために旧書庫にロゥリエを軟禁して、彼を誘いこんでいるようなものだ。


「同情だよ。両親を亡くている。身寄りのない哀れな子供の一人だ」


 肩を竦める堂島。作りものの悲痛の表情が鼻につく。


「彼を監視下におきたい。違いますか」


 言うと、堂島の表情は一転した。

 魔導局上層部か、あるいは堂島個人の判断によって真哉の動向の監視の可能性を八代は懸念していた。

 どうやら的中していたらしく、堂島は分かりやすく目を見張ってくれた。


 ややあって、くつくつ不敵に笑う。

 良い部下を持ったものだな、と嫌味を添えると何故気がついたのか問い返してきた。

 理由は単純明快だ。


「貴方が藤上君にだけ固執するのには違和感がありますから。それだけです」


 真哉は事実、両親を竜害によって失くしている。

 彼のように両親を失った子供達の多くは、親戚や血縁者にも引き取られることなく、ほとんどが孤児院か児童養護施設、あるいは魔導局が運営する育成機関に保護される。

 原因は多々あるが、最も大きく根本的な原因は社会全体の貧困化にあった。

 両親を失ったからといって。

 家族を失ったからといって。

 子供一人を安易に自らの家庭に引き入れることができるほど、今の日本全体の経済は高い水準で安定することが出来なくなってしまっていた。


 真哉のことも、言ってしまえばよく居る孤児の一例に過ぎない。

 だが、それでは堂島が彼にここまで肩入れする理由には到底至らない。

 堂島聡哉は、その程度では他人に過干渉することはまず有り得ないから。

 さっさと孤児院にでも児童養護施設にでも放り込んでしまえと吐き捨てるのが関の山だ。

 普段彼から孤児院や児童養護施設、育成機関への受け入れの手続きを手伝わされている八代には、それが手に取るように理解出来た。


 間違いなく真哉には、堂島が彼を手元に置いておきたい大きな理由がある。


「白々しいな。先にお前が気づいていることを話せ。どうせ、もう自分と藤上の間にどれだけの力の差があるのか、気づいているんだろう。場合によっては、見せてやらんでもない」


 乾いた笑みを浮かべる堂島。

 指は、デスクに置かれている真哉の経歴が書かれた書類を指している。

 その中に堂島が真哉に固執する理由が隠されていることは想像に難くない。


 堂島は口角を鋭く吊り上げると、腹の底から底知れぬ悪意を吐き出し八代に向けた。


「お前から提出されていた報告書にあった話をしよう。ロゥリエの顕現前、藤上は酷い傷を負っていたようだが生きていたそうだな。それは何故か」


 堂島は続ける。


「藤上が竜との間に魔力循環を問題なく成立できた理由。それは何故か」


 堂島の手が書類を広げる。

 中から取り出された書類には、過去の真哉の全ての経歴が記されていた。


 藤上真哉。

 十年前に両親を亡くし、当時八歳だった彼は中学卒業までの約七年間を魔導局の育成機関で過ごしていた。


 ――


 魔導局の裏口から人目を避けて外に出る。

 そこから街の中央区を抜け、真哉の自宅に向かって歩いていく道中。


「ちゃんと説明してくれ。なんで急にアンリエッタを殺そうだなんて思ったんだ」


 背後から向けられた声。

 言葉になる前から真哉の胸中に渦巻く困惑は感じ取っていたが、いざ言葉になって向けられるとその本質が明確な輪郭を持って少し棘を感じさせた。


 無理もない。

 彼の困惑にも納得できる。

 魔導局に呼び出されたかと思えば、数日前にミドゥルの撃破に手を貸してくれた相手を殺すよう伝えられたのだ。


 受け入れられないのが当然の反応だ。

 運動公園の林の中を歩いていた足を止め、背後の彼に向き直る。


 脳裏に、あの白い少女の姿を思い浮かべる。

 幻影は真哉の脳裏にも伝播する。

 すると、真哉は目を見開いた。


「なんでロゥリエがあの子と……」


 先ほどまでとは百八〇度反転した意味合いを持って漏れ出る困惑と驚愕。

 混乱とすら言えるだろう。

 

 何せ、助けたと思っていた少女と、その瞬間彼の目の前に居る竜人の少女は姿形が丸きり同じだったのだから。


「ほんとうはね、アンリエッタのことなんてどうでもいい——」


 言葉にする。

 本当の想いを。


 もうわたしを助けたことを後悔して欲しくない。

 わたしを助けたことが正しい行いだったと彼には思っていて欲しい。


 ならば、わたしに出来ることはたったひとつだけ。



「——わたしは、真哉の役に立ちたい」


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