第五話 『陽だまりのなかに』

 虹の竜眼。

 眼を開く痛みには、三日も経つと慣れてしまっていた。


 鏡の前に立ち、瞼を閉じる。

 魔力を込めて双眸を見開くと、瞳は揺蕩たゆたう虹の色彩を帯びる。

 縦に伸びる瞳孔が、自分の眼が竜のものになってしまっているのだと再び脳に知覚させた。


 ロゥリエ曰く、移植された竜眼は開眼の度に肉体の深層に根を下ろしていき、最後にはこの身体をまるきり竜に書き換えてしまうという。

 肉体に及ぶ影響力の大きさはミドゥルとの戦闘を経て、真哉は十分に理解しているつもりだ。

 それでもこうして眼を開くのは、少しでも誰かの役に立ちたいからで。


 あの日の戦いを傍観するしか無かった自分を、真哉は独り恥じていた。


 ―—


 あれから三日が過ぎた。

 街から人影は消え、夜に灯る明かりは日に日に数を減らしている。

 三日前のロゥリエとミドゥルの激闘を受けて発令された避難命令により、街から人が消え去るのは抗いようのない事態だ。だが、それを考慮しても尋常ではない速度で市民の避難は進行していた。

 ここまで避難速度が速いのも、加速度的に増していく竜の襲来とその被害の拡大。

 竜に襲来を許し続ける魔導局に対する不信感が、皮肉にも避難活動を後押しした結果といえた。

 街から人は次々離れていって、今や街の七割を超える施設が封鎖されている。公共交通機関は全て停止し、街は幽霊都市ゴーストタウンに変わり果ててしまっていた。


『真哉』


 ロゥリエの、澄んだ管楽器の音色のような声がした。

 肉声が聞こえるはずはないのに、そう錯覚を起こさせるほど鮮明な『声』が頭に響く。


『今日も、来てくれる?』


 このところ聞き慣れた質問。答えは迷うまでもなく、決まっている。


 ——いつもの時間に行くよ。


 念じて応で答えると、ロゥリエの声が軽やかに弾んだ。


『うん。待ってる』

 

 ミドゥルの撃破後のこと。

 局に戻った真哉たちは堂島に呼びつけられ、そこでロゥリエの今後の対応を告げられた。

 結論を言えば、堂島はロゥリエを魔導局側に協力する竜人として受け入れる方針をとるようだった。


 とはいえ、それも条件付きで提示された妥協案に過ぎなかったのだが。

 条件というのは至極単純明快で、しかし安易に受け入れることは憚られるものだった。


「屠竜師になれ。最低でも見習いとして、今後魔導局に協力してもらう。お前ならできるだろう。でなければ、ロゥリエの一件は殺処分を以て全て無かったことにする」


 堂島がそう告げた時、すぐに答えを返せなかった。

 未だ、迷っていた。

 彼女を守る覚悟はあった。

 信じる覚悟も。


 だが、彼女を助けたことが正しいことだったのか。その答えだけはまだ、持ち合せていなかった。


 沈黙の意味を知ってか知らずか、堂島は重たい嘆息と共に吐き捨てた。


「時間をやる。強制退避までに答えを出せ」


 そう言われて、支部長室をつまみ出されたのが三日前のこと。

 以来、真哉はいまだに支部長室の扉を叩けずにいた。


 今日こそは、と意を決して支部長室の扉の前に立つ。

 屠竜師になる意思と覚悟を、伝えるべく扉をノックしようとする。

 しかし脳裏にフラッシュバックする、竜の所業の無惨さと冷酷さ。

 あんな怪物を相手にしながら今後一生を送るのだと考えると、想像するだけで身の毛がよだつ恐ろしさが足を竦ませた。


 自分の不甲斐なさと優柔不断さに飽き飽きしつつ、支部長室の前から立ち去る。

 ロゥリエが他の局員の眼を免れるために身を隠している魔導局の旧書庫に向かった。


「おはよう。真哉」


 旧書庫に入ると、ちょうどシエラに髪に櫛を通してもらっているロゥリエがこちらを見やった。

 目隠しの下の瞳は見えないが、こちらを見ていることだけは本能的に感じられた。


 旧書庫と言っても目立った埃や汚れはない。それどころか歯ブラシやブランケットが一式揃えられていて、書庫とは無縁なはずの生活感すら感じられた。

 シエラ曰く、日夜残業続きの堂島が自宅に戻るのを面倒がって、仮眠や休憩の為に局の本館から離れたこの場所を使っているとのことだった。


「よしっ。これで終わりね。二人は今日もここで資料漁り?」


 解いたロゥリエの髪を撫でて、満足げに頷くシエラ。

 辺りの本棚に並べられた無数の魔術教本や魔導書を見渡してみる。

 貯蔵されているおよそ一万冊近い本の全てを僅か数日の間に網羅しようとしているのだから、ロゥリエの知識欲に感服するばかりだった。


 三日前の奮闘の甲斐あって、ロゥリエは人類に対して敵意を持っていないと判断した堂島だが、局内外への移動の許可だけは許さなかった。

 真哉が屠竜師となる覚悟を決め、朱殷の外套に袖を通すその日まで。堂島はロゥリエの一切の情報を外部に遮断する方針を取ったのだ。

 勝手に局内をうろつかれ、秘匿情報の一つも知らないような下層の局員にでも見つかったら混乱を招きかねない。最悪、外部に情報が漏れ出てしまう。

 強制避難命令が発令され、日夜一般人が我先にと街を出ようと慌てふためいている。そこに魔導局が竜人を匿っていると情報が漏れれば、どれだけ混乱を招き、魔導局の信用がどれほど地に落ちるかは、想像に難くない。

 故に堂島は半ば軟禁に近い形で、ロゥリエを旧書庫に匿っていた。


 ロゥリエがそれに不満を漏らしていなかったのは、一重ひとえにその場所が魔術や魔導、竜についての情報が集められた書庫であったからだ。

 古い文献が大半を占めているとはいえ、何か役に立つ情報があるはずだとロゥリエは考えていた。


 シエラが旧書庫を後にする。

 この三日間毎朝ロゥリエの身支度に来ているようで、真哉も知らぬ間に二人は随分と距離を縮めていた。

 去り際。シエラは書庫の奥に雑然と山積みにされた本の摩天楼を見やって、ロゥリエに忠告を残した。


「明日も同じ時間に来るから。ちゃんと起きて、読んだ本片づけてなさいよ」


 それが心外で不服だったらしい。

 ロゥリエは、ぷくぅ、と頬を膨らませると不貞腐れてしまう。

 あどけなさの残る顔立ちの彼女は、出会ったばかりの頃に比べると表情が豊かになったように思えた。

 ぷいっ、とそっぽを向いてロゥリエ。


「今朝のは有益な情報が載ってた本をまとめていただけ。ちゃんと他の本は片付けてたのに。シエラはすこしお節介過ぎる」

「朝から本の山に潰されたあんたを引っ張りだした私の身にもなりなさい。次は助けてあげないからね」


 言って、シエラは書庫を出た。

 背中を見送って、ロゥリエは踵を返し書庫の本の山に向き直る。

 ぱたぱた歩いて、書庫の端の本棚に向かっていった。

 どうやら今日相手取る区画で書庫内の本を全て読破するらしい。ロゥリエはさっそく本をまとめて抱え上げると、床にしゃがみこんで小難しい文章が永遠続く分厚い魔導書を睨み始めた。


 同じように本を手に取り、椅子に腰かける。

 偶然手に取ったのは、魔導局の育成機関が発行している魔術教本で、記された内容を眼で追っていると、つい読み耽ってしまった。


 ロゥリエも開いた魔導書の知識を頭のなかに次々に平らげていくのに集中している。


 二人の間には会話も念話もないが、刻刻と流れていく沈黙が真哉には心地よかった。


 ――


 コンコンッ、とノックが響いた。返事は返さない。

 扉の向こうに居る人間は返事の有無などお構いなしに部屋に押し入ってくることを、感じ取った魔力の気配から堂島は知っていた。


「入るわよ」


 手遅れな宣言と共に魔導局三角市支部長である堂島の居る支部長室に入ってきたのは、シエラだ。


 要件をこちらから問うまでもなく。山積みにされた報告書と始末書の峡谷きょうこくに、どかんっ、と分厚い書類の束が置かれた。

 一番上の書類には、赤黒い髪に黒金の双眸を湛える少年——藤上真哉の写真が添付されている。

 置かれた書類を手に取り、目を通す。

 どれもこれも。藤上真哉個人に関する情報ばかり記載記録された書類だ。


「やはりな」


 案の定、というべき書類が目に留まった。


「どこから疑ってたの」


 シエラが口を開く。呆れ加減な声音だった。

 藤上真哉の経歴の調査を依頼した時にも、シエラは同じ顔をしていたのを堂島は思い出す。

 一般人の少年の何を疑っているのだと一時は断られたが、来月の賞与の増加を餌にして黙らせたのはつい三日前。ロゥリエたちがミドゥルと戦闘している最中だった。


「どこからも何も、初めからだ。未知の竜をはべらせる人間をなんの確証もなしに信じられるほど、俺は落ちぶれてない」


 藤上真哉。

 八代に抱えられ魔導局の門前に現れたそのときから、堂島は真哉のことなど毛頭信用していなかった。

 先日のミドゥルとの戦闘の中。現場を遠目に監視していた部下の報告によれば、真哉はロゥリエとの間に高度な魔力循環を構築したと聞く。

 それは竜と血を交えることと同義だ。

 これまで何度か竜と人の間に生まれてしまった人間を目にしてきた。が、後天的に、かつそれを望んで選んだ真哉には共感しかねるものがあった。


 真哉への疑念が看過できないものにまで膨れ、調査に踏み込むに至ったのもその時だ。

 一般人が他者感との魔力循環を問題なく構築、成立させるなどまずあり得ない。


 大前提として


 真哉の行ったそれは、しばしば屠竜師間でも行われる延命処置の一つだが、これは肉体の再生力が限界にまで低下した際に取られる最後の手段だ。

 よほど魔力の性質が近い者同士でない限り、魔力同士が擦れ、反発を起こし循環に組み込まれた人間全員の魔力を暴走させ、脳を沸騰させ両者を即死させる。


 世間に公表すらされていない処置の存在を知っていて、それを実際にやってのけたとなると、真哉はまず間違いなく過去に魔導について教育を受けたことがある。かつ魔導が何たるのかを心得ている人間だと堂島は確信していた。


 その確信もシエラが違法調査の末にかき集めてきた情報を以て、事実に変わったのだが。


 もう藤上真哉という人間を調べても何も出てくることはないと判断して堂島は、支部長室の真ん中で猫のような長い欠伸をしているシエラに言う。


「この件はこちらで対応する。使える駒は惜しみなく使わせてもらうさ。……それと、別件でお前にも知っていてもらいたい話がある」


 デスクに天高く積み上げられていた報告書の山。

 中から一部を抜粋して堂島は、シエラに書類を手渡した。

 写真には、三日前に街に現れた巨竜の死体を囲む白い外套の集団の姿が映っている。が、その僅か数分後に撮影された写真では、首を跳ねられた巨竜の死体は地上から跡形もなく消え失せている。

 死体のあった場所を囲む円陣の痕跡が薄らと地面に残っていて、巨竜の死体は白い外套の集団の手によってどこかへ転移されられていたのだ。


「ついにここも教団に死体持って行かれるとはね。上にどう言い訳するの」


 シエラが写真を見比べ、呆れ加減に言う。


 魔導局はその職務に竜の討伐と竜の死体の鹵獲ろかくを含んでいる。

 討伐した竜の死体を解体、分析し彼らに内包された魔法を抽出。人間にも扱える規模にまで縮小圧縮して対竜用の兵装として運用する兵器が『魔具』だ。

 屠竜師が扱う魔具を生産するためには、竜の死体が必要不可欠だった。


 以前から度々耳に聞いていた教団による竜骸りゅうがい漁り。

 魔導局の定める魔導法案に違反する重大犯罪行為だ。だが、魔導局は未だにそれら全ての犯罪行為を罰するどころか、証拠ひとつ抑えることさえ出来ていない。

 どんなに小さな個体でも、竜の全長は三メートルを優に超える。

 それだけの巨体を誇る竜の死骸を欠片ひとつも残さずにいとも容易く隠滅できる土地が今の地球にどれだけ残されているのか。

 シエラにも堂島にも、答えは分からない。


 ——面倒だな。

 ——全員に脅しをかければ一人くらい……。


 指の一本や二本折ってやれば口を割るはずだと堂島は暫時考えたが、それができずに魔導局が長年彼らに頭を悩ませていることに思い至って却下する。

 面倒この上ない事態になったことに、強く苛立って出た舌打ちが部屋に響いた。


 教団の発生は十六世紀末にまで遡る。

 竜を神の使いとして信仰する彼らは、人間を醜い身体の枷から解放する為神より使わされた『天使』として迎え入れ、竜に食い殺されることを良しとしている。

 表向きは、内向きな狂信者の集まりでしかないのだが、彼らの組織は別の側面を持っている。


 それが白い外套の集団——天衝隊てんしょうたい

 教団内部でも限られた者のみが所属することを許される組織で、活動目的は竜の殲滅と竜骸漁り。


 竜骸漁りは言わずもがな犯罪行為なのだが、認可の無い組織や個人による竜の殲滅や魔具の所持もまた犯罪行為だ。

 昨今の魔具の研究開発部門の著しい発展の成果の甲斐あって、近年製造されている魔具は高い安定性と安全性を誇る。しかして魔具は未だ使用者への多大な負担と、暴走の危険性を常に孕んでいる非人道的な兵器の域を脱していない。

 加えて第二次世界大戦では超超距離魔導電磁砲レールガンや超広域魔力同調核爆のような国家滅亡級の魔具が兵器運用されていた。この件もあって、今や世界中半数以上の国は魔具に対して懐疑的な姿勢を半世紀経った今もなお保ち続けている。


 それを一般人が許可なく使用することは重大犯罪だ。

 竜の殲滅の件も含めて、教団の罪は多く重たい。


 加えて近年では、天衝隊と行動を共にする竜や竜人の姿を発見するようになっていた。

 彼らには利害の一致か、信頼関係があるのか。互いを傷つけることはしない。


 だというのに教団を。少なくとも天衝隊の起訴にすら至っていない背景には、完璧な証拠の隠滅での証拠不十分による不起訴と、不当な調査に対する下層の信者による抗議運動があった。

 厄介この上ない組織であるだけに、魔導局も何度か国連に対し組織の解体命令と、有事の掃討作戦まで進言したが、最悪世界規模の暴動や戦争に発展しかねないと却下された。


「お前はもう下がってくれていい。調査は俺の方で進めておく」

「そ。じゃあ私は少し休んでくるわ」


 言って、シエラが支部長室を後にする。

 今後のことを考え始めると苛立ちが込み上げてくる。

 椅子の背もたれに背中を深く預けつつ、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出して咥えた。


 ――


『……は助けてくれたのに』


 朦朧もうろうと揺蕩う意識のなか。

 その声だけは酷く鮮明に聞こえた。

 否。声、というほど正確な音の発声はなかったように思える。

 音にはノイズが走り、言葉は継ぎ接ぎで文章として正しい並びをしていなかった気さえする。

 だが、それでも、声——魂の発露だけは確かに聞こえてきた。

 声の主を探す。

 辺りを見回す。

 そこは、いつかロゥリエを救い出した災禍の只中だ。


『……は、助けてくれないの』


 声。寂しく、独り泣いている。


 上手くいうことを利かない体を強引に駆動させ、声のした方に振り返る。


「——なんで」


 災禍の中。

 暗黒の世界に佇んでいたのは、あの日助けたはずの白い衣装の少女。


 跳ねるように起き上がって、鼓動が加速していたことを自覚する。

 背中にはじわりと汗が滲んでいた。寝苦しさとは無縁なはずの晩秋の朝とは思えない目覚めに、ひどい不快感を覚えさせられた。


 夢の中に現れた白い少女。

 彼女の姿を探していたときには、向けられなかった批難の声。冷たく鋭利な感情が感じられる言葉だった。


 窓から外を見やる。

 未だ夜の気配が色濃く残った朝。窓越しに感じる冷気と静寂は、まだ眠りを続けろと跳ね起きた体を温もりの残る布団のなかに誘っていた。

 意に介さず、立ち上がる。


 ——そろそろ答えを出さないと。


 強制退避までは残るところ三日。

 ロゥリエの身を守るため。ロゥリエを見捨てないため。

 何より、自分が後悔しないため。


 選択の時は音もなく着々と迫り続けていた。時間はもう少ない。


 こうして選択を先延ばしにし続けている間にも、堂島の中ではロゥリエに対する不信感が再び発芽しようとするに違いない。

 真哉が選択を先延ばしにするほど、それは真哉自身がロゥリエのことを未だに完全に信用しきっていないと証明しているようなものだ。


『真哉。今日は早起きだね。えらい』


 目覚めに聞くと心地いい、小鳥の囀りに似た柔らかくて温かく、撫でるような音色。

 やけに眠たそうに気の抜けた欠伸をしているのが、念話からでも伝わった。

 魔導局からは随分と離れているはずなのに意思の指向性の拡散の影響を受けずにクリアに聞こえてくる念話は、真哉とロゥリエの間に太く強固な繋がりがあるからだ。

 お互いの意思の疎通は勿論、互いの行動や位置情報までもが漠然とだが理解できる。

 真哉の目覚めに誘われて、ロゥリエの神経も覚醒を急いだのだろう。

 まだ眠り眼な彼女の姿が、瞼の裏で簡単に想像できた。


 ——今日も同じ時間に行く。


『うん。待ってるね』


 ――


「はぁ……」


 らしくない、大きなため息が零れた。


 旧書庫入り口前。

 実に三日ぶりにロゥリエと会おうという八代の胸の中では、憂鬱さと罪悪感が混在して重たい枷となり、旧書庫の入り口の扉を開けようとする手を何度も躊躇させていた。

 ノブに手を伸ばす。

 くるっ、と回して扉を開けて。書庫の中にいるロゥリエにたった一言、あの日の早とちりを謝罪するだけ。

 たったそれだけのことのはず……なのだが。


 何故か上手く言葉にできる自信がなくて、結局またノブから手を離し、扉の前を右往左往してしまう。

 頭を抱えてしゃがみ込んで、十八歳にもなっても謝罪一つ満足にできない自分が嫌になった。


 ——なにもたもたしてるのよ……!

 ——ごめんなさいっていうだけでしょ……!


 あの日無意識にとはいえ、ロゥリエに働いてしまっていた無礼を八代は未だに悔いていた。

 謝罪の言葉もまだ伝えられていない。

 もう四日だ。いい加減、面と向かって言葉と態度で気持ちを伝えなければいけない、と悶々としていた。


 なかなか謝罪に踏み切れない理由だけは、その実理解していた。

 きっとまだ心のどこかでは、竜に対して懐疑的な姿勢を保っている自分がいる。


 ロゥリエは戦いの果てにミドゥルを討ち倒した。

 それは紛れもない事実であって、見返りを求めない英雄的な戦いぶりも、人類の障壁たる竜を倒したという事実も、彼女を信用する十分な判断材料たり得るはずだ。


 けれどそれでも完全にロゥリエを、ひいては竜を信用することはできなかった。

 簡単に心を許してしまうことは、これまで竜によって命を落としてきた人たちへの裏切りのように思えたから。


 数十年、数百年の時間をかけても成し得てこなかった人間と竜の共存。

 その隔てりとわだかまりの排除は、そう簡単に成せるとは思えなかった。


「あぁ、もぅ!」


 出直そう。

 明日にしよう。

 こんな有耶無耶うやむやな心境のまま会っても、きっと素直に謝ることなんてできない。

 思って、踵を返した眼前。

 そこには——、


「ひあっ!? って、藤上君? 奇遇ね……」

「おはよう。八代さんこそ、なんでここに」


 いつから背後に立っていたのか全く気取らせない暗殺者のように気配を殺していた——八代が気付いていなかっただけで実ははじめからいた——真哉の姿があった。


 ずっと背後から見ていた真哉は、旧書庫の扉の前で頭を抱えて右往左往したり、唸りながらしゃがみ込んだりしている八代の様子に困惑していた。

 冷淡に見える彼女の、おそらく他人には見せないであろう一面を知って、勝手に親近感を感じていたことは言葉にはしない。


 言葉にして伝えればきっと、目の前の少女の顔は発火してしまうだろう。

 そんな杞憂を禁じ得ないほど、普段冷たい表情を浮かべる顔からは想像がつかないほど八代の顔は真っ赤になっていた。


「これはその、……違うのよ?! ロゥリエの様子を見に来たの、でも物音が聞こえないからまだ寝てるかもしれないし起こしたら悪いなと思ってまた後で出直そうかなって一旦戻ろうとしてたのよ! 竜って朝が遅いのね! もう七時なんだから起きてて欲しいわね!あーあ予定が狂わされたわ! 貴方も時間改めてきたら? 女の子が寝てるのに部屋に入るなんて立派な性犯罪だからね! 忠告はしたわよそれじゃあ——」


 壊れた機械の音声のように止まることなく早口に忠告して八代は書庫の前から立ち去ろうとする。

 そそくさ、と逃亡していく八代。


 旧書庫と魔導局の本館を繋ぐ渡り廊下の真ん中を駆け抜けていく彼女だが、焦りと恥じらいが頂点突破していたようで、何もない床に足を躓かせた。


 ぐるんっ、とさながら大車輪の勢いでひっくり返って宙に舞う。

 平常心をなくしていた八代は、予期せぬ旋回に状況の理解が追い付いていない。



 そのまま見事顔面から、コンクリが敷かれた固い渡り廊下にダイブした。


 ―—


 目を覚まして真っ先に視界に飛び込んできたのは、ずらりと魔導関係の本が敷き詰められた本棚だった。


 ——私、転んで……。


 思い出す。

 廊下で派手にひっくり返って気を失い、旧書庫に運ばれた。

 そんなところだろう。案の定、暗い赤色のカーテンを払って覗いた窓の向こうには朱殷の外套を纏った男女が忙しなく出入りしている局の本館の入り口が見えた。

 頭はまだ軋み、高い耳鳴りが頭蓋の中に残響している。

 それを払うかのような穏やかな音色を奏でる声が、不意に向けられた。


「聖華。大丈夫?」


 言ったのは、ロゥリエだ。

 窓から差し込む陽光に艶やかな紗の白い髪は虹色に照らされている。

 白銀の大地を思わせながらも健康を保った白い肌。

 すらりと伸びる指に、無駄な肉付きのない躯体。

 完成されたヒトの形をした少女だが、皮肉るようにこめかみから竜の証たる角が伸びている。

 どうやら旧書庫のロゥリエの寝床に寝かされていたらしい。

 カーテンと本棚で隔離された空間には、彼女と二人きりだった。

 体を起こして空気を肺に取り込むと、ほんのりと甘さの混じる陽だまりの香りがした。


 ——謝らないと。


「ロゥリエ。その……」


 言いさして、喉の奥に言葉を控えさせる。


『三日前はあなたのことを疑ってごめんなさい』と。たったそれだけ。


 そのはずなのに言葉は声にならない。

 すると、沈黙から何か悟ったのか。

 ロゥリエは表情を変えて柔和に微笑んだ。

 手が、床にぶつけた額に伸ばされた。

 絹に似た肌触りの手が触れると、竜の少女は気恥ずかしそうなあどけない笑みを浮かべつつ、子供の怪我を慰めるまじないを口にした。


 いたいのいたいのとんでいけ、と。


「これであってる?」


 初挑戦だったまじないには正解も間違いもないのだが、ロゥリエは八代が言いさした理由が額の痛みにあるのでは、と思い込んだらしい。

 問いかけられて八代は、全く以て見当違いなロゥリエの行動に、不覚にも吹き出して笑ってしまった。

 笑われたことが不服だったロゥリエは当然、頬を膨らませる。

 ぷんぷん、と怒りを露わにしているロゥリエを他所に、八代は自分がとても小さな些事を気にしてしまっていたことに気づいた。


 人間だとか、竜だとか。そんなものは関係ない。

 人は人種が違っても分かり合える。

 人は言語が違っても分かり合える。

 人間と竜の関係性もその延長線上にあるものに過ぎないはずだ。


 ロゥリエはロゥリエで、それ以外の何者でもない。


 竜という種族は、彼女を構成する『要素』でしかないのだ。

 意志ある一つの命という存在が常に大前提として在ることを、八代は忘れてしまっていた。


「ロゥリエ、私ね」


 今度こそ言える。

 ひとつの命として。

 対話するべき相手として。

 思いを言葉にできる。


 言いかけた、その時だった。


「八代さんもそんな風に笑うんだ」


 突然、寝床を囲んでいたカーテンの向こうから真哉の声が聞こえてきた。


 本人は独り言のつもりで口にしたのだろうが、声量の調整を失念していたのか、声は筒抜けだった。

 ロゥリエが寝床を囲んでいたカーテンを払う。

 レールを駆ける快音が反響して、吹き抜けの書庫の真ん中に置かれていた机に腰かけていた真哉の視線が注がれた。

 目を丸くしていて、独り言を聞かれたのだと悟った真哉は、手に持っていた魔導書で顔を隠した。

 そこに向かってロゥリエが歩み寄る。

 心なしか、先ほどよりも顔を膨らませて。


「真哉。聖華の寝顔覗いてた。がーるずとーくをしてくるから五感の共有はやめてって伝えたはず」

「不可抗力だろ。意識してなくても聞こえてくるし見えるんだよ」

「でもいま心の中で『八代さんの笑った顔かわいいかったな』っておもったでしょ」

「やめろよ! なんで言うんだよ!?」


 ロゥリエの詰問に図星だった真哉は、顔を微かに赤くしながら食い下がるが、その肯定が返ってロゥリエを刺激する。


 二人が竜眼の影響で思考や五感を強制的に共有していることは知っていた。

 実際に目の当たりにしてみると、真に真哉の思考はロゥリエにも伝わっているようで言い返せど言い返せど、指摘論破で切り伏せられ、真哉は誤解を解く術を悉くなくしていく。


 言葉もなしに思考が伝わる。

 迷惑で不便だと嘆きながら真哉は床に膝をついた。


 けれど、八代にはそれが少しだけ羨ましく思えた。


 ―――


 快復した八代が仕事に戻ると、旧書庫は真哉とロゥリエの二人きりになる。


 いつも通りの心地良い静寂。


 すっかり昼下がりと呼ぶに相応しい時間になっていた。

 魔導本のページを捲る真哉の隣で、ロゥリエは窓から差し込んでくる温かな陽だまりのなかでうたた寝していた。


 手の中には、魔導書が開かれたまま握られている。文字を読んでいるうちに寝入ってしまったのだ。

 魔導書を閉じてやろうと、手を伸ばした。

 すると手が触れてしまい、眠りがまだ浅かったロゥリエは欠伸をしながら顔を上げた。

 うとうとしたまま真哉を見やるロゥリエ。

 真哉の眼を借りて見える視界には、自分と手を重ねられている真哉の手がある。

 か。


 意図を察して、手を握り返した。


「私が寝ている時に隠れて握らなくても、言ってくれたらいいのに」

「なっ……、なんでそうなるんだよ」


 思わず重ねられた手を真哉が払うと、ロゥリエはしゅんと小さい肩を落とした。

 罪悪感を煽る落ち込み様にばつが悪くなって、ため息を零しつつ真哉はロゥリエの腰かける椅子との間隔を寄せた。

 誤魔化すように魔導本の頁を捲りつつ、旧書庫で魔導書を読み漁っている目的の進捗具合を問いかけた。


「——そういえば、なんであの時ミドゥルに負けそうになってたのか。原因は分かったのか」


 真哉が魔力循環の巡りを書き換え、ロゥリエに手を貸すと決心するよりも前。

 ミドゥルを相手にロゥリエは、瀕死にまで追い込まれていた。


 真哉たちの加勢があってからは圧倒的な力の差でねじ伏せたが、それだけの歴然な力の差があって追い込まれた原因を、真哉は未だ理解していなかった。

 開いた魔導書に食いついているロゥリエだが、声をかけられると驚くべき速度で真哉に視線を返した。

 まるで真哉から声をかけられるのを待っていたかのよう。

 目をきらきらさせ——目は布に隠れて見えないが、ぱぁっ、と花開いた表情がそう思わせた——ずずいっ、と身を寄せてくる。

 陽だまりの温かな香りがして、真哉は思わず目を逸らした。


「あのときのわたしは、ものすごく弱ってた。たぶん、本来の力の四割以下しか力を発揮できていなかったと思う」


 言いつつ、また意識を魔導書に戻すロゥリエ。

 その事実は既に知っている。

 ミドゥルとの戦闘の中に真哉が活路を見いだせたのも、弱った彼女の本来の魔力総量を見抜くだけの慧眼があったからこそだ。

 魔力を譲渡し、魔力循環に手を貸すことで魔力の安定が図れるようになると理解して真哉はあの状況の打開に至った。

 だが、肝心のロゥリエの力が喪失していしまっていた原因だけは、あれから三日が経ち、いくら魔導書や教本から知識を得ても手掛かりひとつ得られていなかった。


「その時、なにか変わったことはなかったのか。呪詛を掛けられてたり、竜眼の影響を受けてたり」


 訊ねる。本に意識を注いでいるロゥリエは、念話で返答を返してきた。


『……ひとつ、気になるものはあった』


 本に記された西洋の文字を心眼で読み解きながら、ロゥリエは脳裏にあの時姿を現した少女のことを思い出していた。


 純白の少女。

 何かこちらに伝えようとしていた。

 正体までは分からなかったが、自分はあの少女を知っていた。


 ロゥリエが思考を巡らせている傍ら。

 真哉にも、思考は竜眼を通して伝わっている。

 脳裏に流れ込んでくる、あの時のロゥリエが心眼で見ていた光景。

 そこに映っていたものを知って、愕然とする。


「なんであの子が……!?」


 純白の衣装に身を包んだ少女がいた。


 ——助けたはず……。

 ——それに、あの時助けたのは……。


 傍らのロゥリエを見やる。

 あの時瓦礫の下から救い出したのは、ロゥリエひとりだけだった。


 そのロゥリエは今、傍らに居る。


 第一、ロゥリエは人間ではなかったし、あの場の近くには他に人間などいはしなかった。

 ならば、あの少女は一体何者なのか。

 幻覚や幻術の類いの可能性を疑うが、真哉ならばまだしも、ミドゥルを圧倒したロゥリエにそんなものが通用するとは考えにくい。


 思考を巡らせれば巡らせるほど、混乱だけが加速する。



 真哉のなかで激しく渦巻く混乱は、静かに。けれど着実に。ロゥリエにも伝播していた。

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