第四話 『虹竜の咆哮』

 数刻前。

 正面からの一撃を躱すことも受け止めることもままならず、文字通りまったく反応出来なかっミドゥルは、ひっくり返った建物の瓦礫のなかで哄笑している。

 アンリエッタを追っていた時には感じられなかった戦いの悦び。

 竜としての誉ある、正面からの殺し合い。

 躊躇ちゅうちょも同情もない命のやり取りができることを、軍神の戦鎚の力を魂に刻まれた竜は歓喜していたのだ。


「何がおかしいの」

「いやなに。久しぶりに骨のある奴と戦えると思って……つい、な。お前を侮辱したつもりはない。許せ」


 コンクリの壁を数枚ぶち抜きながら雑居ビルの一階にひっくり返った分際でありながら、強情な物言いをしながら立ち上がるミドゥル。

 傷は無い。不意を突いた渾身の一撃をお見舞いしてやったはずだが、肉体強度が他の竜のそれを遥かに上回るのだろう。

 であればその魂も相応の神威しんいに由来するはず。

 読みを外せば一手で形勢が逆転するだろう、とロゥリエは認識を改めた。


 拳を握り締め、殴り掛かろうと構えるミドゥル。

 そのまま突っ込んでくることは容易に想像はついていて、あえて逃げる選択を取る事はしない。

 反撃を狙う。

 彼女を前にして逃げや回避に徹することが愚策だと言うことは、竜眼が備える看破能力によって会敵した瞬間から把握していた。


 フッ、と。軽やかに踏み込んで、ミドゥルが迫る。

 放たれる鉄拳。

 受け止めれば、そのまま腕の骨が真ん中から真っ二つに折れるであろう鈍器の一撃。

 だが、腕の損傷など些細なもの。腕を交差させ防御する。

 案の定、腕は真ん中から真っ二つに折れて、前腕の皮膚を骨が突き破った。

 ここまでは計算している。

 外傷も骨折も即座に修復して、腕が正常な方向に戻る反動を利用してミドゥルの顔面に裏拳を叩き込む。

 自傷覚悟の反撃を受け、ミドゥルが不敵に笑う。

 姿勢を崩したミドゥルの腹めがけ、ロゥリエは更に拳を振り抜いた。応えてミドゥルも、鉄拳に魔力を乗せて拳を返す。


 二対の竜人の魔力が空間を迸る。

 衝突した魔力が空気中のマナと同調を起こし、魔力が熱を帯びて爆ぜた。

 魔力とマナの同調による魔力暴走の爆炎。衝撃と爆風で二人の対峙していた建物は消し飛び、黒煙が辺りに広がった。

 中から先に躍り出たのはロゥリエだ。追随してミドゥルが飛び出す。


 ミドゥルの赤雷が空を切る。

 街に置き去りにされた車に雷が落ち、鉄の箱は潰れるのと同時に炎上した。

 巻き起こった炎のマナに腕から伸ばした魔力を接続し、ロゥリエは炎を引き連れた拳をミドゥルの顔面に繰り出す。

 しかし、ミドゥルは顔面の大やけどなぞ構わない。

 きっ、と口角を吊り上げる。

 瞬間、星を循環する空気中のマナが、一斉にミドゥルの魔力に浸食された。


「しまっ——」


 赤雷が呼吸する間も許さぬ早さで辺りを迸っていく。

 当然、渦中にいる以上命中は必至だ。

 電撃の包囲網から身を守る為に魔法を行使しようと、辺りに満ちる魔力を通していく。

 そして


「鎧と——」


 光を纏い、電撃を凌ぐ算段だった。

 しかし違和感に気づいて、言葉の先を口にはできなかった。


「どうして……っ!?」


 魔法を発動する感覚がまるでなかった。


 張り巡らせた魔力は、虚空を掠めていくばかり。

 伸びてきたミョルニルの腕が、ロゥリエの首を掴み上げた。


「どうした! 魔法を使えよ!」


 首を掴む手の中に、魔力が集まり始める。

 辺りの彼女の支配下に敷かれたマナまでもが、一点に急激に収束していく。


 ——頭を守らないと……!


 思った時には遅かった。

 魔力炉たる心臓から生成された魔力が血に乗って首に達し、頭部に行き渡り魔力で保護するよりも早く——頭に激しい、脳回路をすべて焼き切る電撃が迸った。

 沸騰した脳髄が眼球の裏から這い出て、涙のようの頬を伝う。

 言語野をはかいされたまま、ミドゥルにはん擊ヲしようと、拳をにギル。


「グッ……、ガあああ!!!」


 脳の修復に全神経を注ぎながらの一撃。

 力ない拳を額に受け、ミドゥルはロゥリエの首を掴む腕に更に力を込めた。

 ミドゥルの双眸には憤慨と呆れの色が強く滲んでいた。


「がっかりだ。見掛け倒しか。……ほんの少しそこらの蟻より手ごたえがあっただけの雑魚じゃねえか。……俺の時間を無駄にしたんだ。楽には殺さねえぞ」


 言って、ミドゥルはロゥリエの首を締め上げていた両手を離す。

 脳を破壊されたロゥリエが無論着地に備えられるはずなどなく——胴に、臓器すべてを破裂させる勢いの会心の蹴りが叩き込まれた。


 血が広がった。

 何枚の壁を自分の体が突き破ったのか分からない。

 五……じゅう、いやもっと多いか。

 後頭部がやけに開放的だ。

 おなかのなかにも、かぜをかんじられる。

 裂けた目隠しの隙間。視界に点々と転がる赤い物体は、わたしの脳味噌。わたしの内臓。

 大腸は、にんげんの赤ちゃんのへその緒みたいにまだ繋がっている。

 傷が癒えない。

 魔力が練れない。

 当然だ。心臓が、アスファルトの上に転がっている。

 これでは魔力を体の中に巡らせられない。


 ——どうして負けそうになってるの。


 魔法が使えない。

 魔力も想像よりも遥かに消耗してしまっている。

 全ての身体機能が、著しく低下している。


 ——どうしてこんなことに……。


 思考の最中さなか、眼前から靴音が響いた。

 追ってきたミドゥルだろう。

 思いつつ、視線を向ける。


 しかし予想は思わぬ形で裏切られることとなった。



 そこに居たのは、純白の衣装を身に纏った少女。



「    」


 何か訴えかけてくる。言葉は聞こえない。

 まるで少女が現世に存在していないかのように錯覚させるほどの無音。

 影も落とさず、夜風に髪も揺らされない少女。

 悪い夢か死に際の脳が見せた幻覚に思われる存在だが、確かにそこに居る。

 正体まではわからない。

 何処か見覚えのある彼女。


「あなたは……」

「なあに、ぶつぶつ言ってんだ?」


 そうしている内にミドゥルが歩み寄ってきて、髪を掴んで持ち上げられた。

 そのまま地面を引き摺って運ばれ、顔面を蹴とばされた。


 ──


 ロゥリエが殺される。


 物陰から事の顛末てんまつを見ていた真哉は、頭を何度も踏みつけられているロゥリエを見て彼女の生命の終わりを悟っていた。

 もう意識がないのか。幾度踏みつけられても、表情ひとつ変わることはない。

 頭蓋が少しずつ潰れる度に血が噴き出して、鼓膜に残る嫌な音を立てていた。

 耳を塞いで蹲り、人間の姿をした少女の頭が潰されていく音から目を背けようとする真哉の傍らで。


「助けないの」


 目を覚ましていたアンリエッタが真哉に問いかけた。

 真哉は一瞬目を見張ったが、しかし直ぐにまた蹲って目を逸らす。

 耳を塞ぎ、自分を正当化する言い訳ばかりを考えはじめる。


 相手は竜人だ。死んでも誰も悲しまない。

 人類に害を成す化け物なんだ。

 殺されて当然だ。滅んで当然だ。

 助けない。

 絶対に。

 あいつを助けても誰も救われない。

 だから絶対に助けない。

 固く目を閉じる。

 震え怯えながら自分に言い聞かせる。


 不意に、固く閉ざしたはずの視界に、映像が流れ込んできた。


 それは、ロゥリエの。目隠しの隙間から覗く彼女の見る世界の景色で。

 血塗れになりながら。頭を潰されながら。

 その手は真哉が隠れた物陰に伸ばされている。


 彼女には真哉に見えている景色が分かる。真哉がどこにいるのかを知覚している。

 故に伸ばされている手には、自分を恨み呪う怨嗟が宿っているように見えた。


『ねぇ、真哉。どうしてあの時私を助けてくれたの』

「……っ」


 頭の中に響いてくるのは、ロゥリエの声だ。

 竜眼は、竜の魂の一部に等しい。

 それを移植されている以上、真哉のなかにはロゥリエの魂の欠片が存在しているといっても過言ではなかった。

 故に、魂の同居現象は竜眼を介して互いの意志を言葉もなしに理解し合える『念話』を二人の間に可能にしてしまっていた。


 閉じた瞼の裏の、真っ暗な世界のなか。

 ロゥリエと言葉を交わす。


『あの時は、人を助けられると思ってたんだ。僕のような傍観者にも、人を助けられると思い上がったんだ』


 自分にも人が助けられると思った。

 自分のような弱い人間でも誰かを救えると思いたかった。


『そんなことないよ。真哉は私の事、ちゃんと助けてくれたよ』

『違う! 違うんだ! 僕が助けようとしたのは人間で、お前じゃないッ! 竜を助けたつもりなんて、どこにも——』

『ううん。違わない。真哉は人を助けたよ』


 叫びを遮って、だれかの手が伸ばされる。

 肌の温度が。

 心臓の鼓動が。

 心の温度が。

 魂の声が。

 やさしく。ひたすらにやさしく伝わってくる。

 それはまるで人間の——。


『なんで……』

『真哉のおかけで、私は暗い世界から出てこられた。ずっと一人だった世界から解放された。真哉が、私を救い出してくれた』


 ちがう。人間じゃない。

 ……人間じゃないはずなのに。


 それが最後だった。

 ロゥリエの声は、もう聞こえない。


 横目にアンリエッタを見やると、外に飛び出す気を伺っているようだった。

 身を隠す瓦礫の向こうには、ぐしゃぐしゃに頭を潰されたロゥリエを引きずりながら八代の元へ歩いていくミドゥルの背中がある。

 ロゥリエを助けたいと思うのは、竜人同士の仲間意識故なのだろうか。


「アンリエッタ―—」


 呼びながら静かに瞼を閉じる。

 次いで真哉が開いた双眸は、虹の色彩を纏っていた。


「手を貸してほしい」


 ―—


 目の前に捨てられたロゥリエは息をしていなかった。


「屠竜師が竜人の死体に動揺するなよッ!」


 地面を蹴ったミドゥルが一気に間合いを詰め、無防備だった八代の身体を軽々と蹴飛ばす。

 地面を転がる中で硝子の短剣を突き立て、勢いを殺し八代は姿勢と視線を戻す。

 視線を自分が立っていた場所へと送って舌打ちした。


「チッ……」


 ミドゥルの肩には意識を失くし脱力した男が担がれていた。


「……?」


 だが、その背後。

 戦闘の余波で壊れて明滅する街灯の下に人影がある。

 白い長髪に菖蒲色の角の竜人——アンリエッタだ。

 双眸を閉じ、何やら集中している。


 ——まさか……!


 予感して、八代は彼女の未知数の竜眼を警戒する。


「眼を離したら殺すわよ、ミドゥル」

「あ?今はてめえが出る幕じゃねえんだよ。ざ——」


 アンリエッタが眼を見開く。


 覗いた竜眼は、場にいる全ての者の眼を惹いた。


 身構えていた八代ですら、焦点を無理やりアンリエッタに引き寄せられた。

 ミドゥルも例外ではない。本来のアンリエッタの力ならばいざ知らず、穢れた竜人の眼の力など自分になど通用するはずのない。

 ミドゥルはそう思い込んでいた。

 故に。


 その場で最もアンリエッタに眼を惹かれ続けたのはミドゥルだった。


 身体が動かせなくなる。

 肩に担いでいた男を支える腕から力が抜け落ちる。

 アンリエッタのその一挙手一投足。全ての挙動を目で追いかけてしまう。


「眼は奪ったわ!」


 アンリエッタの合図と共に、真哉が物陰から飛び出した。

 開いた竜眼から脳に飛び込んでくる情報の渦に頭を抑えながらだが、地面に転がるロゥリエの身体を抱えあげ、目を覚まさなくなった彼女の魂を真哉は喚んだ。


「起きろッ! ロゥリエッ!」


 ―—


 真哉の声がした。

 彼の声は優しくて温かい。


『お前を助けたこと。正直に言うと後悔してる』


 けれど、その言葉だけは冷たかった。


『僕は強い人間じゃないから。……こうしてお前と話してるけど、心のどこかではやっぱりまだ後悔してる』


 彼が言葉を紡ぐその度に、彼の中に渦巻く感情が流れ込んできてその濁流に溺れそうになる。


『僕は、ずっと傍観者なんだ。誰かが人を助けるのを。誰かが人を守るのを。ただ後ろから見てるだけの傍観者なんだ』


 彼の記憶が流れ込む。

 親友がいた。心を通わせた親友が。

 彼はいつも真哉と一緒にいて、けれど真哉とは違う世界が見えているようだった。

 人を助ける時、彼は迷わなかった。

 向こう見ずで後先考えず、どんどん突っ込んでいってしまう。

 真哉が尻込みしている間にも、彼はずっとずっと遠くに行ってしまう。

 真哉はそれをただ、後ろから見ているだけの傍観者だった。


『傍観者がある日突然ヒーローになるなんて、無理な話だったんだ。……勇気の代わりが必要だと思った。あいつならこうするかもって。そう思ってお前を探して助けたんだ』


 渦巻く感情は、後悔、自責、絶望。

 黒い感情が心のなかを這い回る。


『でも、やっぱりだめだった。竜を助けたって知って絶望した。自分なんか死ねばいいって、本気でそう思った。お前が僕に与えたこの眼のことを知ったとき、罰が下されたんだと思った』


 傍観者が犯した罪に与えられた罰。

 竜を救った人類の天敵に課せられた、神の裁きの結果だと。


『ただ、もしまだ罪を重ねることが僕に許されているのなら。……ひとつだけ、僕の我儘わがままに付き合って欲しい』


 彼から魔力が流れ込んでくる。

 魔力は溶け合い、身体の隅々までを澱みなく循環していく。

 自分の内側に彼が入り込んでくる感覚が満ちていく。

 だがそれは同時に、彼が竜の内側に取り込まれていくのと同義で。


『だめっ、そんなことしたら……ッ!』

『わかってる。でも、お前の魂の欠片は僕の中にもあるんだ。僕が助けた生命なんだ。人間じゃなくて、竜であっても。せめて一度助けたのなら、最後まで助け通したい』



『自分が助けた生命から目を背けてた。……無責任だった。だから、もう一度助けさせて欲しい。これは、僕が背負うべき責任なんだ』



 どれだけ長い時間、あの竜人に眼を奪われていただろうか。

 彼女が口にしていた一言一句が。挙動の全てが。ひたすら脳内を跳ねて回る。

 もはやただの淫魔の竜眼ではない。

 対象の思考を、一点へ固定する狂信の眼へと昇華していた。


「……あっ、くッ」


 竜眼に無理を強いたアンリエッタは、三十と二秒間もの間ミドゥルをその場に留まらせ続けることに成功していた。

 しかし精神よりも、竜眼よりも。先に体が限界の悲鳴を上げる。膝から崩れ落ち、眼から血の涙を流していた。

 竜眼の異能を発露する為の魔力が尽きたのだ。


「やりやがったな……! もう楽には殺さ——」


 怒気を帯びて歩み寄ってくるミドゥルの足が、しかし突然ピタリと止まった。

 それどころ何かに悪寒して、飛び退ってさえいる。


「おいおいマジかよッ!」


 冷や汗を流しながらミドゥルが見据えた視線の先。

 そこには。



 一人の竜人の少女と、同じ眼を持つ青年が肩を並べて立っていた。



「真哉、無理はしないで。その眼は貴方には負担になりすぎるから」

「わかってる。でも言ったろ。何もしないのだけは、ごめんだって」


 歩み寄ってくる二人。

 青年の方はアンリエッタに手を添えると、無理な足止めを頼み込んだことを謝罪しつつ彼女の健闘に感謝を伝える。手を交わすと、青年はアンリエッタに己の魔力を僅かに渡した。

 それを見ていた八代は、見違えるほど莫大な魔力を帯びるようになった真哉を目の当たりにして目を疑う。


「貴方、本当に藤上君? それじゃ、竜人と同じ……」


 真哉の双眸は虹色の色彩を纏っている。

 それもただ虹彩に変化があったのではなく、眼球がまるごと縦長の亀裂が走る、竜の瞳になっていた。

 それでは竜人と同じだ。

 見れば、竜眼を起点に濃い竜の魔力が体に流れ、彼の肉体を人間のものから竜のそれへと書き換え始めてしまっている。


「いいんだ。これで。僕はロゥリエを助けた時点で、人としての道を踏み外した。これはその罰で、代償みたいなものだから」


 静かに答えた真哉は、八代から目を逸らしている。

 それは彼が半ば竜人としての自分の在り方を良しとしていることを意味していた。

 込み上げてくる怒りを今は必死に堪えて、八代は唇を噛む。


「来いよ! ロゥリエッ! 殺し合おうぜッ!」


 やはり眼前の竜人こそが、幾年ぶりに自分を殺すに値する存在だと確信するミドゥル。

 荒々しい大海のうねりにも似た、嵐のなかに鳴り響く赤い轟雷を全身に纏って高揚する。戦闘本能の赴くままに、体を巡る魔力の流れを増幅させていく。


 対してロゥリエは冷静だった。

 ミドゥルに一歩、また一歩と迫る中。呼吸を整え、魔力の巡りを正常に調整し直し、万全の臨戦態勢を整える。

 真哉から受け取った魔力。しかしそれはただ単に受け取ったばかりではなかったのだと、自らの魔力と溶け合っていくなかでロゥリエは悟っていた。


 真哉との間に継続的に魔力を供給する為の回路が出来上がっていた。

 それも単なる供給ではなく、藤上真哉という人間の魔力循環の中に、ロゥリエという竜人を組み込んだ——本来自己完結することで、魔力の巡りをより円滑に効率的に行う鉄則を、あえて無視した魔力循環の高等構築術。これにより真哉とロゥリエの魔力総量と最大出力は加算増幅される。


 これによってロゥリエは確かに魔力を安定的に運用できるようにはなるが、それは同時に真哉の中に常に竜という人ならざる存在の魔力を流し続けるということを意味する。

 とても常人には耐えられない行為だ。


『真哉。本当にいいの』


 思考の内で問いかける。


『好きなだけ持っていけ。僕のことは気にしなくていい』


 開眼しているだけでも脳に尋常ではない負荷をかけ続けている竜眼を、しかし真哉は決して閉ざそうとはしない。

 開眼時にのみロゥリエとの間の接続が拡大し、より多くの魔力の循環供給を行えるようになるのだと真哉は自覚していたのだ。

 彼に負荷をかけ続ける行為は危険極まりなく、彼を人の身から遠ざけてしまう。


 最短で決着しなければならない。

 思考して、ロゥリエは踏み込む。


 それには世界の音が追いつけなかった。


 光速の踏み込みでミドゥルの懐に飛び込む。

 遅れてロゥリエが姿を消したのだと認識するミドゥルだが、もう遅い。

 隙だらけの心臓部に、超高速の拳が突き刺さった。

 ミドゥルが派手にふっ飛ぶ。

 宙を舞うなかで身体に襲いかかった衝撃を振り解き、自分を殴ったロゥリエを視界に捉えようとミドゥルは視線を返す。

 だが、見返したそこにロゥリエはもういない。

 姿を辺りに探すが、ついぞ勢いを殺し停止するその瞬間——目の前にロゥリエが忽然と現れるまでは、彼女の姿を探し出せずにいた。


「おかえし」


 ミドゥルの首を掴み上げ、首根っこを掴む手の中に魔力が収束する。

 そのまま魔力は一斉にマナと反応を起こし爆破。爆炎に顔面を焼き尽くされながらも、ミドゥルは拳を振り乱し暴れ回る。

 視界を一時的に失ったミドゥルの粗悪な足掻きの拳を捌き、腕を掴んで投げ飛ばす。

 投げられたアスファルトの上で醜態を晒しながら顔面の大やけどを修復していくミドゥル。

 一時は燃焼しきっていた眼球を修復した竜人の視界に映っていたのは、先刻までとはまるで別の存在として地上に降臨した白き躯体の竜人だった。


 闇夜に注ぐ月光のように。夜天に架かる虹のように。

 静謐せいひつで、無機質で、透明で。

 それでいて、ひたすら暴力的で鮮烈な極彩色ごくさいしきを纏った竜。

 言葉を紡ぐ度、生物の雌雄を問わず魅了する唇。

 揺れる虹色を帯びた艶やかな髪は細く儚い。古今東西過去未来においてもこれほどまでの見事なしゃを表現できないだろう。

 それでいて高位の神威を授かったはずのミドゥルを相手取りながら、遅れを許すどころか圧倒的な実力差を打撃の度に証明する生物としての性能。

 地上にこれまで君臨してきた竜の中でも一線を画す存在だと直感させる神聖な魔力。

 この世に蔓延る竜のなかでも、世界の創造主たる神々に最も近い存在の一柱なのだと、ミドゥルは彼女の核を成す概念を察知した。


 やがてミドゥルの後を追いかけて、同じ通りにロゥリエが降り立つと──。



 闇より出でた白い竜人を前にして、



 比喩などではない。それは現実に起きていた。

 事実、明滅を繰り返す壊れかけの街灯も、遥か彼方から注ぐ月光でさえもが、己が彼女を照らすに値する者であるのか。測りかねて身を退いていく。


「怒ってないから、私を照らして」


 言葉が紡がれる。

 何に対してそう唇を動かしたのか、ミドゥルが脳で理解することはできなかった。


 だが、光たちは違った反応を見せた。

 ロゥリエに許された光たちは一斉に、彼女の存在を世界に強く照らし出す。

 街灯のなかには、折れたはずの鉄首を持ち上げてまでロゥリエに光を向ける者さえいた。

 足元を。

 躯体を。

 尊顔を。

 御身おんみを。

 数多の光に照らされながら、ロゥリエはミドゥルに歩み寄っていく。

 行く先に敷かれていく眩い光の絨毯の上をしばらく歩くと、ロゥリエは不意に足を止めて眼前のミドゥルに向かって告げた。


「あなたはここでわたしが殺す」


 祝福の光が。喝采の雨が。

 光柱となってミドゥルの頭上より注ぐ。

 光は辺りに満ち満ち海と成って空間を支配、掌握していく。


 目が眩むほどの光量のなか。

 ミドゥルは、辺りの光がロゥリエの魔力に浸されていくのを感じ取って、天高く跳躍し空中に退避した。


 地上のロゥリエを見やる。

 警戒は最大に。

 魔力の寸動さえ見逃さぬ覚悟でもって、地上に君臨した神の使いを凝視する。

 そしてミドゥルは視界に捉える。



 ロゥリエの足元から、白い燐光を放つ数多の腕が伸びる瞬間を。



 腕はミドゥルに向かって伸びた。

 さながら神を地上に引き摺り墜とさんとする人間のように。

 自由落下の最中、身を翻して腕を躱す。

 だが、微かに肩を一本の掌が掠めていって、擦れた肌が瞬く間に、じゅう、と黒く焼け爛れた。

 弾丸の如き勢いで伸び、ぐるん、と空で旋回し、鳥籠のように拡散する白き腕。

 一時の逢瀬を経て、ミドゥルは腕の正体を悟った。


 個々の腕が内包した膨大な魔力を熱量に変換した疑似恒星として顕現している。

 白い極光——温度は、太陽の表面温度をも凌駕する恒星シリウスの摂氏七五〇〇度にすら達する。

 人態の血肉など紙きれ同然に焼き切れてしまうのも道理だ。


 降り注ぐ腕を躱し、ビルの屋上に着地するミドゥル。

 頭上から絶え間なく注ぐ腕を駆け抜けて千切って、再び大空へ躍り出た。

 深い呼吸をする。

 肺の奥底に空気を取り込む。我ここに在り、と竜としての生をうたう。

 あるべき姿に。

 星の化身たる真の姿で顕現する為、竜の心臓を加速させた。


 次にミドゥルとロゥリエの視線がかち合ったのは、ミドゥルが本来の姿に変態した直後。


 赤雷を纏いながら天高く飛翔する雷竜。

 腕の一本一本に神経を通わせ、それを追跡するロゥリエ。

 互いが互いの位置を把握し、目的を掌握し、次なる一手を思考したその時を以て。


 闘争は加速する。


 腕が更なる熱を帯びた。白から青へ、摂氏の限界を超越し、腕は虹の光を放つ。

 雷竜は更に高度を上げる。大きく弧を描くように大空を羽ばたき、大気を震わす。

 夜空を澱みなく飛び続ける雷竜。

 背後を腕で追うロゥリエは、腕を更に速く伸ばすために世界の光との接続を更に深く強くしていく。

 眼球の裏から血涙が這い出る。脳がとめどなく吸収消化される情報と魔力の濁流に焼き切れそうになる。

 光の腕の実態はついに光速をも凌駕する。

 質量の枷を振り切った、超光速タキオンへの到達。

 光の腕が雷竜を捉えるよりも先に、先行して生じた質量の壁が雷竜の翼を捥ぎ落した。


『小癪な……っ!』


 人間の肉体と、竜の肉体とでは物理法則と魔導法則から得られる利点が明確に異なる。

 翼を捥いだ質量の壁こそ、人の身に留まることで成せる神業だ。

 竜の身を以て同様の現象を引き起こそうとしてもああはならない。

 物理による超常の突破こそ、人が竜に勝ち得る種族として未だ健在であることの何よりの証明といえた。

 人の肉体の強みが物理なのだとしたら、竜の肉体における強みは星との深い親和性にある。

 竜が、星の化身と言われる所以。


『星よ、我が声を聞け』


 其れは、惑星を巡る大いなる力の流れ——マナへの干渉に在った。

 聞き取れた破滅と殲滅、浄化の詠唱の詩を耳にしたロゥリエは総毛立つ。

 空に巨大な魔法陣が浮かび上がり、雷竜を中心にして、マナが渦巻きはじめた。

 其れは海の悲嘆であり、大地の憤怒であり、空の悲壮。

 あまねく星の意思が、顕現する。


『星砕く雷霆よ、我が試練を打ち砕け——』


 空に、世界を引き裂く雷霆の渦が顕現する。

 雷に焼かれた空が消え失せる。何もない虚空だけが世界の亀裂として残る。

 雷に焼かれた命が終わる。身を燃え尽くさずとも、魂を焦がし絶命を齎す。


 ——あれが落ちたら、この辺り一帯が消し飛ぶ。

 ——……絶対に止めないと。


 ロゥリエが手を、天高く掲げる。

 応じて空の雲が突如退いた。

 空に空いた穴から注ぐ月明かりを一身に浴び、頭上に現れた魔法陣に魔法の文様を書き込んでいく。

 『神光』を記す文様が、ロゥリエの根源にある神威を引き出す。魔法陣の中心に、数多の光が収束する。


 束ねられた光は満ちると地上に打ち出され、ロゥリエの手のなかに注がれる。

 光をロゥリエが握り締めると、中から一本の細長い剣身の剣が現れた。


 光から抜き放たれたのは、金色の細長い剣身の片手剣。

 十字架を思わせる装飾剣は、ロゥリエ自身がそうであるように強い神聖を纏い煌々と光り輝いている。

 ロゥリエが剣に魔力を流すと、剣身が眩い光を放ち始めた。

 赤、青、黄、緑、橙、藍、紫。虹の燐光が迸る。

 剣身の放つ光は、世界に満ち満ちるマナを絡めとっていく。

 赤は炎から。青は空から。黄は雷から。緑は風から。橙は土から。藍は海から。紫は生命から。

 絡めとったマナを魔力に変換し、世界に打ち出す弾丸に変えてゆく。

 輝きを放つ光剣の切っ先を、遥か天空で破滅の雷と接続された雷竜に向ける。

 ロゥリエは全身の魔力を一極集中し、剣の切っ先に込めていく。


『失せろ』

「墜ちて」


 雷竜ミドゥルとロゥリエ。互いに行使する力を解放した。

 注ぐ破滅の雷。ひとたび触れてしまえば、魂も存在も根底から浄化し焼き尽くす。

 それが星の生命の集合体として打ち出された虹の弾丸に打ち破れることは決してない。

 敗れることはあってはならない。


 あってはならなかったのだ。



 雷に食らいついた虹の弾丸は、あっさりと雷の渦を引き裂いた。



 弾丸がミドゥルの心臓を射抜く。

 魔法陣が砕け散って、破滅の雷は魔法陣の崩壊に巻き込まれて消失した。

 地上に注ぐものはない。脱力したミドゥルがひたすら地上に向かって落ちていくだけ。

 心臓を撃ち抜かれ、落下していくミドゥルは混乱の渦中にあった。


 ——何に貫かれた……!

 ——……!?


 遥か上空から地上に落ちる。

 隕石じみた勢いのままミドゥルは地上に叩きつけられた。

 全身に強烈な痛みが走るまま、ミドゥルは躯体を起こす。

 骨が粉々に砕け、あらぬ方向に折れて皮膚を突き破っている。

 とても動ける状態ではない。


 ——詰み……だな。


「死ぬ前にひとつ。お前に聞きたいことがある」


 口を開く。

 血が、喉の奥から溢れ出る。想像よりも時間がない。


 舞い上がった砂の幕を抜け、ロゥリエは地に落ちた竜にとどめを刺さんと躙り寄る。

 が、もう手を下さずとも竜が事切れることを悟ると、携えていた剣を虚空の光の中へ収めた。


 剣を一瞥して、剣身に刻まれていた文様を目の当たりにしたミドゥルは、己に課せられた不治の原因に人知れず納得した。


 ——『竜殺し』か。……なるほど。


 その属性を付与された武具に傷つけられた竜は、魂の分解を余儀なくされる。

 圧倒的な力を持つ竜でありながら、竜を殺すことだけを想定した神器を持つロゥリエの矛盾に。知らず、薄ら笑いが顔に漏れる。

 歩み寄ってきたロゥリエが怪訝な表情を見せるが、構わず問う。


「お前はなんでそこまで人間に肩入れする。……あいつらは、邪竜なんかよりもよっぽどクズだぜ」


 吐き捨てるように。蔑みをこめて。

 だが、口にした言葉は確信だった。


 多くの人間と関わってきた。

 胸糞悪い政治家。畜生以下の研究者。害悪極まりない屠竜師ども。

 誰も彼も死んで当然の人間だった。

 無論すべての人間がそうであったわけではない。

 とはいえ、圧倒的に人の形をした俗物の方が多いのが、人間社会というものだ。ミドゥルは数百年の長い時を人間の世界で生き、それを肌で感じ理解していた。

 関わってきたクズを。目についたクズを。これまで幾度となく殺してきた。何人も、何十人も、何百、何千と。


 竜は星の頂点に君臨する生命体だ。それは未来永劫変わることはないだろう。

 ある種狂信的に。盲目に。自分が死ぬことはないと考えてきたが、因果は否応なく巡るものなのだ。死に際を迎えてやっと、ミドゥルはそれを知った。

 最期の一息の間。

 くたびれた戦士を。あるいは眠りにつく我が子を。

 見守るような穏やかな声が響いた。


「わたしは、真哉の後悔をなくしてあげたい。私を助けてよかったんだって、真哉には思っていてほしいから」


 ミドゥルが息を引き取る。

 死に顔は穏やかで、微かな笑みを浮かべていた。


 ―—


 最後にロゥリエとミドゥルは言葉を交わしていたようだが、遠目から見守っていた八代には彼女らが何を話していたのかは知る由もない。


 全て終わったのだと安堵し胸を撫で下ろそうとして、はっと我に返る。

 ミドゥルと同じ白い外套の男を回収し、急いで堂島たちと合流しなければと思考が脳裏を過ぎる。


 男を拘束していた方角に振り返るが、見やったそこに男の姿はなく。


「この人は借りていくわ」

「ちょっ……!? 待ちなさい!」


 制止も虚しく。言い残して、アンリエッタは男を連れ去って行った。

 後を追おうとする。

 だが、八代を引き止める苦悶の声と悲鳴が背後から突然響いた。


「あッ……ぐッあああ!?」


 声に振り返ると、真哉は充血した両眼から血を流して地面に蹲っていた。

 駆け寄って、うずくまる彼の体を抱き上げ、声をかける。

 反応が返ってくることはない。

 叫び声を上げ続ける真哉の苦痛の正体を探るため、目を塞ぐ両手を無理やり手を剥いだ。

 手を剥いで、抑えられていた目元が露わになる。


 白い竜鱗が目元に広がっていた。


 思考は漂白され、自分の乱れた呼吸だけが耳に響く。


 ——なんで。……眼が。


 理由など分かりきっている。

 ロゥリエの移植した竜眼が、真哉の肉体の細胞ひとつひとつを竜のそれに書き換えていった結果だ。

 竜眼による肉体の汚染は、真哉本人が想定していたよりも数段早く彼の身体を蝕んでいっていたのだ。

 だが、理由を知ったところで対処方法を知らない人間に何かできることがあるはずはない。


 ——助けないと……!

 ——でも、どうやって……?魔力供給で竜眼の魔力を中和する?

 ——それにどれだけの魔力が必要になると思ってるの。私一人の魔力量じゃとても……。


 無力な自分に腹が立って、焦燥と混乱が涙になって目尻に浮かんだ。

 みっともない。

 これでは一体何の為に屠竜師になったのか分からない。


「真哉!」


 ロゥリエが駆け寄ってきて、腕の中の真哉の顔を覗き込み、息を飲む。

 察するに彼女にもどうしようもないことなのだろう。

 だが、ロゥリエは苦痛を訴える真哉の顔を両手で抑えると、躊躇いなく唇を重ねた。

 魔力を供給しようとしている。

 竜の魔力に侵され苦しんでいる人間に対してその行為は死を意味する。


「何してるの!? そんなことしたら……!」


 だから間に割って入った。何もできなかったくせに。

 ロゥリエを真哉から引き剥がす。

 裂けた布地の隙間から鋭く睨まれた気配がして、やはり彼女も危険な竜の一匹に変わりないのだと悟った。

 竜に人間の治療を任せることなどできない。

 真哉を抱え上げ、ロゥリエから引き離して、やっと気づいた。


 真哉の目元から竜鱗が消えてなくなっていた。


「竜眼から滲み出てた魔力を除去したから。しばらくは大丈夫なはず。……聖華、私のこと信じられなかった?」


 無垢な問い。まっすぐに視線を返せなかった。

 思えば先刻の戦いも、初めて真哉を救った時も彼女は一貫して真哉の為に行動していた。

 誰よりも真哉の身を案じていた。


 それを信じられなかった自分が、途端に恥ずかしくなった。


 ――


 長かった夜が明ける。


 上る朝日が街に刻まれた戦跡を照らし出す、音のない寂しい朝。

 膝の上で眠る少年の額に触れて柔和に微笑む竜の少女。

 朝を待つ廃墟のなか。

 人間の痛みなど知らぬ顔で迷い込んできた小鳥と共に歌う音色は、戦場に侘しく——けれど強く咲き風に揺れる花のよう。

 歌声に誘われて目覚めた少年に、少女は優しく微笑んでいた。


 二人の様子を遠目に見ていた八代は一人、ラジオ放送を聴きながら膝を抱えていた。

 一週間前、大勢の命を救えなかったこと。

 真哉のことを守れず、結果彼に竜化という危険を背負わせてしまったこと。

 ロゥリエの気持ちを何一つ理解してやれなかったこと。

 ささくれ立つ痛みが、胸を締め付ける。


 近場の廃墟から拝借してきたラジオから報道番組の音声が流れる。

 ちょうど国内の陥落地域の情報が更新されていたようで、耳を澄ましてみる。

 国内の竜による被害地域の拡大情報。

 淡々と読み上げられていく地名の中に、覚えのある街の名前が聞き取れた。


 三角市。

 陥落地域として全ての市民に、強制退避命令が下される。施行までの猶予期間は一週間。

 魔導局は明日以降、当該地域への一般市民の新たな立ち入りを厳しく禁じるものとした——。

  

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