第7話 青いリング
四時間目の終業、カバンからビニール袋を持って席を立つ。勘のいい森崎が怪訝な顔をする。
「買い弁? 珍しくね?」
「うん、ちょっと。たまには。今日は一緒に食べないからさ」
「何、何? 青葉、反抗期?」
一ノ瀬まで乗っかってくる。
「ちょっと人と約束してて」
誰とだよ、と言う声を無視して、あまり待たせないように早足で待ち合わせ場所に急ぐ。
待ち合わせたのは購買のあるラウンジで、明音さんのクラスから近く、僕のクラスから結構距離がある。確実に待たせてしまう。あの数学の教師が、少し融通をきかせてくれたら違ってたのに。
「青葉くん!」
明音さんが勢いよく、ラウンジに現れた。
「良かった。すごく待たせたらどうしようかと」
「来たばっかりだよ」
僕はゆっくりそう言った。何故か自然に微笑んだ。彼女がすごく女の子らしく見えたから。
「どこで食べる?」
「えーと⋯⋯ずっと考えてたんだけど⋯⋯特別棟のラウンジは?」
「ああ、別にいいよ」
「じゃあ急ごう。競争率、高いの 」
ゆっくりご飯を食べるつもりが、借り物競走のような勢いで引き摺られる勢いで走る。
◇
はぁ、はぁ、とマラソンを走り終えたかのような呼吸で、明音さんは「負けたね⋯⋯」と言った。明音さんの言った場所は、三年と思われるカップルに占拠されていた。
「やっぱりこういうのは、ちゃんと作戦を打っておかないとダメなんだね」
明音さんはその場にぺしゃんと座り込んだ。サラサラのストレートの髪が、少し乱れてる。綺麗な黒髪に、日中の日差しが当たって少し茶色がかって見える。
彼女は明らかに仏頂面をして「せっかくなのに」と言った。僕は彼女に、同じ四階にある化学室の前辺りで食べないかと提案した。彼女はすぐに頷いた。
「あれ? 青葉くん、コンビニなの? お母さんがお料理マメだって聞いたから、てっきりお弁当なのかと」
「明音さんこそ⋯⋯」
明音さんは今日、赤いお弁当箱を持っていた。
てっきり料理はしないのかと思っていたのは勘違いだったらしい。申し訳なくなる。
「皐月くんに食生活を指摘されたから、作ってみたの。レンチンばっかりで簡単なお弁当だけど」
「そうなんだ。がんばったんだね」
皐月に言われたことを気にして⋯⋯か。皐月の言葉は彼女にとって重みがあるんだ。やっぱり一緒にいる時間が多いし、何より皐月は明音さんに優しい。
気がつくと僕たちは黙り込んでいた。
「あ! もしかして、わたしに合わせてくれたの? お弁当」
「たまには母さんも寝坊することがあるんだよ」
苦しい言い訳だな、と思いつつ、彼女のせいだと思われたくなかった。
僕は袋の中から普段、あまり食べないコンビニのおにぎりを手に取った。それはツナマヨで、母さんのレパートリーにはなかった。
開け口を探して、赤いテープを見つける。ここを引いて――。
「青葉くん、それじゃ海苔がズレちゃうから貸してみて」
うん、と渡すと彼女はとても器用におにぎりに海苔を巻いた。海苔の欠片はほとんど落とさなかった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
渡してくれた彼女は何故か僕をじっと見つめて、目力を強めてくる。言いたいことがあるのかな、と思う。彼女が話し出すのを、おにぎりを持ったまま、待つ。
「青葉くん! 良かったら⋯⋯本当に良かったらなんだけど。すごく恥ずかしいんだけど、お弁当、交換しない?」
彼女は真っ赤だった。
人の顔ってこんなに赤くなるんだって不思議になるくらい、耳の先まで真っ赤だった。伏せた睫毛が照れくさそうで、僕の顔を見ていない。
「あの、手抜き弁当だし。やっぱりなんでもない! こんなものを青葉くんに食べさせるわけには」
「そうじゃなくて、それじゃ本末転倒じゃない? せっかく皐月がさ」
「皐月くんのことより大切なの! ⋯⋯あ、あの、ほら」
僕は彼女の膝の上に置いたお弁当箱を「ありがとう」と言ってそっともらった。手抜きだなんて言っていたけど、彩りが綺麗で、やっぱり女の子なんだなと思う。
僕がお箸を持つと、彼女は慌ててこう言った。
「きっと美味しくないと思うから、先に謝っておくね。それから、その、気をつかって誘ってくれてありがとう。⋯⋯すごくうれしくて、わたしなんか、ほんと、青葉くんとあの電車事故がなければ」
◇
僕と彼女、そして皐月を繋いだのは偶然の電車の急停止だった。それまで同じ予備校で、同じ電車に乗っていても、僕たちはただの知らない他人で、あの迷惑な緊急停止が僕たちを結んだ⋯⋯。
「あの、皐月くんが勇気を持たないといけないって。だから勇気を持つことにしたの。青葉くん、あの⋯⋯」
皐月が言っていたことを思い出す。明音さんに優しくする、それは考えるのは簡単なんだけど、実行するのは難しい。僕の中の勇気ゲージはお弁当に誘ったことでスカスカで、僕から彼女に何をしてあげたらいいのか、必死に考える。
僕から彼女にしてあげられること⋯⋯。
「明音さん、これ、漢字の単語帳のお返しにと思って作ったんだ。明音さんももちろん作ったと思うし、役に立つかはわからないんだけど」
ポケットの中にずっと入れていて、なかなか渡せずにいたもの。それは僕の作った英語の単語帳だった。
「明音さんの、チラッと見えたことがあったんだけど、もう少し改良してあるから」
はい、とその手に渡す。彼女は両手でそれを受け取る。
「⋯⋯ありがとう。英語、実は苦手なの。見てもいい?」
「どうぞ。あ、字が汚いんだけど」
彼女は単語帳をめくりながら「うれしい。すごくわかりやすい。使わせてもらうね」と自分のポケットにそれをしまった。青いリングの単語帳は彼女のポケットにしまわれた。
◇
「へたれ」
予備校の入り口に皐月が立っていた。何を言ってるのか理解不明だった。
「お前さ、馬鹿なの? 単語帳は単なるきっかけだろう? 明音がそのきっかけを手にした時、どう思ったと思う? 明音がお前のクラスに用事もなく何度も行ってたのはなんでか、考えたことがないのかよ」
「え? なんかうちのクラスにはイケメンがいるからって友だちが」
「明音が見に行ってたのは誰だと思う?」
確かに考えてみると、うちのクラスには女子にモテそうなヤツが何人かいた。とはいえそれは外見だけで、皆、女子に免疫がないから彼女がいたりしないけど。
うちのクラスの女子も、そいつらに、顔が良くても近寄らない。皆、内向的だと知ってるから。
「わかんねーのかよ、マジ、お前の頭の中がわからねー。理系のヤツはやっぱり頭の中身が違うんだな。明音、泣いてるぞ」
「え? なんで?」
「解けないパズルではないと思う。理系だって少し考えれば人の気持ちがわかるだろう?」
お揃いの、青いリングの単語帳。僕なりに心を込めたつもりだったんだけど⋯⋯。そういうことではないのか。
僕は現国の文章でも、行間が読めない。
「明音さん、遅いね」
「今日は来ないよ。放課後、用事があるんだってさ。ほら、行くぞ」
男二人で講義室に向かう。
お昼にあったことを反芻する。お昼ご飯を一緒に食べようって誘って、約束して、お互いのお弁当を交換して、それで明音さんが。
◇
皐月はどうして学校も違うのに、そんなことを知ってるんだろう? 今日あったことさえ知ってるのはおかしくないか?
「ねぇ、皐月」
皐月はいつも通り、細い目で、慣れないとちょっと怖い目付きで僕を見た。なんでもない、という顔をして。
「皐月はなんで今日のことまで知ってるの?」
立ち止まると、皐月はジャケットのポケットからスマホを取り出した。ロックを外すとさっさと操作して、SNSの友だち画面をこっちに向けた。
そこには上の方に明音さんの名前があった。さっき会話したばかりだ。
「お前と交換できないって泣いてたぞ。やたらに他人に教えないってやつ? それとも受験中はSNS禁止とか?」
カッとなった。
それは中学生みたいなことを言われた怒りではなかった。
そんなことで頭に来てたら、優等生ではいられない。今までも散々、そういうことでからかわれてきたんだから、馬鹿にされることは慣れている。
じゃあ、どうしてこんなに頭に来てるんだ?
皐月はニヤッと嫌な笑いを浮かべた。
僕は皐月の襟首を掴んで――。
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