第8話  二度と会えない

「おい、何してるんだ!?」

 その場にいた講師たちが何人か寄ってくる。皐月は悪びれない様子でいけしゃあしゃあと答えた。

「おふざけですよ。ほら、仲が良すぎるとこういう悪ふざけ、あるでしょう?」


 君、手を離して、と僕のことを皐月から離そうと一人の講師が僕を引っ張った。僕の左手の指は固まってしまったかのように、なかなか一本ずつ開いてはくれなかった。

 誰かに馬鹿にされて、頭に来るなんていつ以来だろう? 小学生くらいの頃? 学習塾に通ってるヤツはチートだって言われて。


「ごめん、皐月。カッとして」

「ほら、自分の気持ちにもっと正直になれよ」


 ◇


 僕たちは自習室に連れていかれた。

 場の雰囲気で二人とも何も言わない。

 お小言をここで食らわないということは、やっぱり親に連絡されて、今日はお帰りだな。

 皐月は頬杖をついて、天井の一点を見ていた。もちろんそこに何かがあるわけじゃない。でも、そこをじっと見ている。


「青葉さ」

 しんとした部屋に、皐月の声が響く。一言放たれた後の沈黙はもっと深い。


「明音のこと、どうでもいいの?」

「どうでもって······。それ、説明しないといけないこと?」

「だってそれでさっき怒ったんじゃないの? 連絡先も訊いてくれないんだって、すげー落ち込んでたけど。帰りの電車でいつも俺が降りた後、なんでそういう話しないわけ?」

「······そういうって、そんなこと。僕たちはそういう仲じゃないし」


 皐月は僕の顔を見て愉快そうに笑った。

 皐月から見たら僕はとんでもなく······勇気のないヤツなのかもしれない。明音さんが近くにいることだけで、満足してる。自分からアクションは起こさない。


 なんで何もしない?

 明音さんは本当は皐月のことがすきなのかもしれないし。

 いや、それはないことを皐月は証明した。

 なら僕は――。


「そういう仲じゃない、か。明音が聞いたら絶叫だな」

「僕はまだ明音さんに何も言ってないし······」

「仲良くランチしたのに? 今日、言おうと思ったんだってさ。お前、自分から言えよ。ほらスマホ貸せ」


 僕のスマホには明音さんの連絡先と、同時に皐月の連絡先が登録されていた。皐月を見上げる。皐月は満足そうな顔をしていた。


「よし、これでお姫様と王子様はめでたし、めでたしだな」

「なんだよ、それ」

「普通に考えてみろよ。俺の友だちがお前たちの高校にいるわけ。で、訊いたらすぐに出てきたんだよ、お前たちの話。お前、学校ではかなりツンなんだろう?」

「別に普通だよ」

「漢字のプリンセスは皆の憧れだけど、理数クラスにすきな男がいるらしいってもっぱらの噂だってさ。それって、お前じゃないの?」


 おかしなことに、僕はそのことを知らないままにしていた。


 彼女が僕の教室に度々来ていたのは、最初は友だちのつき合いなんだと思っていた。彼女みたいに綺麗な子が男を見に来るなんてそんなこと、しないと思った。


 それからあの綺麗な子が明音さんだと知って、教室に来る度に目が合ったり、向こうから小さく手を振ってきたり、それでも話しかけてくることはなくて。


 ――明音さんのすきなのは?


 認めてしまうのは怖かった。もしそうだとしても、僕にはどうしたらいいのかわからない。彼女に何かしてあげられるわけじゃない。

 だけど彼女はいつも、僕の目を引いて。


『明音? 今、替わる』

 電話の向こうで「え?」とか「誰?」とか聞こえる。いつもこんな風に皐月と気軽に電話してたんだな、と思う。


『明音さん?』

『あ、青葉くん。講義は?』

 本当のことは言えないな、と思う。

 皐月だってきっと言わないだろう。

『今日は休講。たまには自主休講もあると思うでしょう?』

 くすくす、と電話の向こうから耳をくすぐるようなこそばゆい笑い声が聞こえる。


『あのさ、要するに、明音さんがいないと』

 そこで言葉に詰まる。頭の中は次の言葉を探して堂々巡りで、ああ、どうして僕はこんなに国語ができないんだろうと思う。

 電話の向こう側は、真空のように静寂に満ちている。

『明音さんがいないと僕は······寂しいと思う』


 急に電話の向こうで咳き込む音がして、いきなりどうしたのかと不安になる。それから今日の彼女の休講の理由に思い当たる。


『なんでもないの、ごめん。あの、ちょっとうれしくて。ほんとにそれ、言葉のまま受け取ってもいいの?』

 三秒、時が流れた。

 一、二、三、······。

 僕は息を吸うようにゆっくり、彼女に答えた。


『明音さんのことが、ずっとすきだったんだ。気づくのが遅くなってごめん。それから、今日、化学室の前、寒かったんじゃない?』


『ううん、大丈夫。小さい頃、喘息で、今もたまになるの。

 それより、わたしもずっと言えなくてごめんなさい。今日、勇気を持って言おうと思ってたんだけど······でも、言われた方がうれしかった。ありがとう。

 あのね、実はね、特別棟のラウンジはカップル優先って有名なの。だから憧れてて。でも、青葉くんと一緒ならどこでもいいんだって、今日思ったの』


 いつまでも人のスマホでイチャコラしてんなよ、と皐月が僕の足元を蹴った。

 それは筒抜けだったらしく、明音さんは咳き込みながら笑うことになった。その咳はすごく苦しそうで、大丈夫、と言われても全然そうは思えなかった。


 あの、僕より小さくて軽い身体が腕の中にあったら、背中をさすってあげられるのに······。

『今から行っても大丈夫かって、青葉が』

 迷惑かけちゃうよ、と僕は皐月を止めた。すると電話の向こうから少し掠れた声が返ってきた。


『今日は大人しく薬飲んで寝るから、明日、またお昼に会いたいな』

『約束する』

 皐月は終話を押した。


「約束か、いいな、そんな相手がいて」

「皐月はいないの?」

「俺? 見た目のまんま、学校でも一人が多いよ」

 二人になる機会は少ない。思い切って、ずっと疑問に思ってたことを訊いてみる。


「皐月さ、どうしてSクラスに入らなかったの? 皐月の学校のヤツは皆さ」

「皆と同じじゃなくちゃいけないわけじゃないことくらい、青葉にもわかるだろう? 俺は俺の選んだ道に進みたいんだ。俺が凹んでた時に俺を助けてくれた人のところに行きたいんだよ。具体的に言うと、そこは一流国立大でも一流私立大でもないってこと」

「つまりSクラスの対象外ってこと?」

「そういうこと」


 皐月はさらっとそう言った。皐月のそういうところが僕は羨ましかった。

 しっかり自分を持っていて、意見を揺らぐことなく言える。僕にはなかなかできそうになかった。


 ◇


 僕たちが乱闘をやめたことがわかると、次の講義への出席が認められた。親への連絡はなかったらしい。そんなことにビクビクしてる自分も自分だけど。


 もっと、皐月みたいに背筋をピンと伸ばして歩きたい。


 新しい目標ができた。これは心の中の単語帳に書き加えないと。

 それぞれの講義室に向かう時、皐月は「じゃあな」と言った。僕も「またね」と言った。なかなか感じのいい別れ方だった。


 ◇


 そうして、皐月はその夜、僕と同じ電車に乗っていつも通り僕に手を振るとイヤフォンを着けて電車を降り、二度と会えない人になった。



 ◇



 僕たちは『個人情報』という名の壁に阻まれて、皐月の住所も自宅の電話番号も、何一つ、予備校で教えてもらうことはできなかった。

 皐月と同じ制服の子に話しかけると「ああ、アイツ友だちいたんだ」と言われた。


 僕たちの話を僕たちの高校にいる友だちに聞いたと言っていたことを思い出し、一縷の望みをかけてソイツを探し出した。ソイツは紛れもない皐月の中学の頃の友人で、皐月の家を教えてくれた。


 葬儀は既に簡素に済んで、今、そのお骨は彼の家にあると聞いた。

 ――皐月は家に続く細い路地を歩いていた時、後ろから来た車に跳ねられた。イヤフォンをしていたことが取り沙汰にされたけれど、彼のイヤフォンは外界の音が聞こえるタイプだったことと、相手の車のスピード超過で皐月は完全な被害者になった。


 僕たちは互いに制服を着て、皐月の家に行った。そこは小さなアパートで、こじんまりとした2DKが彼の自宅だった。


 皐月の家に着くまで、明音さんはぽつりぽつりと皐月の話をしてくれた。初めて聞く話だった。

 明音さんと皐月はメッセージを交換することで、互いの悩みを打ち明けていたらしい。

 明音さんは両親からの無関心を、皐月は自分の家族についてをお互いに話した。


 皐月の両親は皐月が小学校低学年の時に離婚した。母親の浮気が原因で、家には父親と、皐月と年の離れたお兄さんが残された。皐月には起こったことがよく理解できなかった。わかったことは、世界で一番の味方だと思っていた人が消えたということだ。


 男三人で住むには寒々しい一戸建てを売りに出して、三人での暮らしが始まる。家に帰っても誰も迎えてくれない。賃貸の一室で皐月は空いた一人きりの時間を潰すために、そこにあった教科書を手に取った。皮肉なことに成績はみるみる上がった。


 中学ではつるんでいた友だちと、進学を境に離れてしまい、皐月は一人になることにした。それが自分に相応しい気がしたと言ったそうだ。同じ高校の他のヤツらとは反りが合わなかった。皆、育ちが良さそうで、向日葵みたいに前を向いて背筋が伸びてるんだ、俺とは違うんだ、と。


 お父さんは今、地方に単身赴任中で、その間、社会人のお兄さんと狭いアパートで暮らしていたらしい。


 皐月は「誰もいないのは問題じゃなくて、誰かがいるのに声をかけられないのは寂しいよね」と明音さんに言ったそうだ。

 それが明音さんに向けての言葉だったのか、それとも皐月自身の心の言葉だったのか、もう知ることはできない。

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