第5話 横並び
漢字テストは何とか無事に終えた。
範囲の漢字で、明音さんが単語帳に入れていた漢字を特に練習した。きっと間違えやすい字なんだと思ったから。
そんなわけで僕は赤いリングの単語帳を何回もめくっては、裏返してめくり、読みも書きも覚えていった。机についてない時ももちろん、電車の中でも、ベッドに入ってる時でも――。
月曜日のテストが、別の意味で楽しみになった。
順位が貼り出されたのは火曜日の朝で、満点でトップはやっぱり明音さんで、皆、「やっぱりね」と興味を持たずに通り過ぎた。
本当は彼女はすごく努力したんだということを、今では僕のものになった単語帳が物語っていた。
貼り出されたのは二十位までで、今回、僕は初めてそこに滑り込んだ。十一位だった!
確かに他の勉強時間を割いたけれど、達成感はすごくて、明音さんのクラスまで走っていってすぐに報告したい気持ちになった。いや、もちろんしないけど。
それくらいうれしかったし、喜びを分かち合いたかった。半分は彼女のお陰だ。お礼くらいしてもいいんじゃないかと思った。
「ほら、アレだよ」
次の授業は移動教室だったので、持ち物を整える。森崎にアレと指さされた方を見る。僕の教室の入り口に四、五人の女の子が重なり合うようになってこっちを見てる。
クラスの女子はそれを見ないふりして通り抜けていく。
女子の塊の中に、明音さんを見つける。目が合うと彼女の顔が、かっと一瞬で紅潮した。そして僕から目を逸らせる。見られたくなかったんだ。
「アレはさ、お前だけじゃないけどうちのクラスのイケメンを見に来てる他クラスの女子」
「イケメン?」
「なんか、うちのクラス多いんだって。青葉、手を振ってみろよ、試しに」
なんなんだよ、その話。それって明音さんもそのミーハーな団体の一人ってこと? そういう人には思えないけど。
······皐月と並んで歩いてた時の明音さんを思い出す。皐月は相変わらず返しもクールだったけど、あの時、席を譲ったように中身は優しい。
それを知ってか知らずか、彼女は無邪気に笑う。そうだ、彼女は僕のプリンセスなのかもしれない。皐月と並ぶ君の後ろ姿を思い出す。
僕は次の時間の持ち物を抱えてそのドアに向かった。女の子たちの熱が何故か上がる。こそこそと何か話してる。女の子らしい話し方で。
僕が入り口の二歩手前にたどり着いた時、あの時、自販機で明音さんと一緒にいた女の子が明音さんをドンと軽く押した。明音さんはぐらっと体勢を崩して倒れそうになる。
考えるより先に手が出る。
抱きとめる。
キャッと他の女の子たちが声を上げた。
「ごめん、青葉くん! ほんとに」
「大丈夫?」
「本当に、本当にごめん。もうこんな風にふざけたりしないから」
明音さんは走り出した。僕は手を伸ばした。走り出したところを捕まった彼女は僕を見て、下を向いた。
「明音さん、大丈夫? あの日みたいに具合悪かったりしない?」
キャーと、彼女の答えの前に声が上がる。先に行くね、とその子たちは蜘蛛の子を散らすように自分たちのクラスに走っていった。気がつけば森崎たちも、もういなかった。
「······青葉くん、授業、始まるよ」
「あ、ごめん、余計なことした」
小さく手を振って、彼女は僕の教室から一番遠い教室に帰っていった。ああ、上手くやれば一緒にこの廊下を歩けたかもしれないのに。
休み時間は短くて、遅刻して教師に怒られた。
◇
「やっぱり漢字のプリンセスは数学のプリンスに持っていかれるわけだ。誰だ、そもそもこの
ベランダには担任が持ってきた多肉植物が、放っておかれて思い思いの方向に伸びている。長袖のセーターに変わって、両袖を少しまくり上げてる。日差しがわりと強い。
「センスはない」
「おお、青葉がこの手の話題に入ってくるとは、これはやっぱり本物なんだな。ああ、大西さん、さよなら」
「なんだよ、それ。ただ、予備校が一緒で知り合ったんだよ。それだけ」
なんかつまんねーな、と誰かが言う。
「もっと、こうロマンティックなの無いの? この際、捏造でもいい!」
「女子か、お前」
「だってよ、王子様と王女様が巡り会うには何かロマンティックなきっかけが必要だろう?」
「寝たきりになるとか?」
「それは老人だろう?」
馬鹿な話と笑い声が続く中、ずっとあの日のことを考えてる。明音さんの単語帳が落ちた日。緑色のリング。青白い顔色。皐月が、席を替わる。
どうしてあの時席を替わったのは、僕じゃなかったんだろう? 乗り込んだ駅は多分、予備校のある駅。つまり同じ駅。
僕が席を替わってたら――。そしたら、何か変わっただろうか? まだSNSのアカウントさえ聞けずにいるのに。
◇
共通テスト向けの授業に、僕らは何故か三人で横並びに座ることになった。
明音さんの提案だ。
僕たちはひとつ置きに最前列に座る。後ろの席から見たら、ちょっとした見ものだ。
「⋯⋯いつも一人だったからなんか慣れないんだけど」
皐月がため息混じりにそう言った。
僕も集中するためにわざわざ最前列にいたわけで、隣りに人が特に明音さんがいるのはちょっと⋯⋯。
「大丈夫、大丈夫。一人より三人の方が楽しいよ、きっと」
あー、これはダメだと思っていると、皐月も同じ顔をしていた。
「ねぇ、もし良かったら帰る時、夕飯、一緒に食べてくれないかな?」
突然の提案に、僕も皐月もギョッとする。そんな心の準備はしてないんだ。
「あ、ダメならいいの。そうだよね、お家でもう作って待っててくれてるか」
「いや、俺はコンビニで買っていくことも多いよ。連絡入ってるんだ。『今日はご飯ない』とか『外食にしたから』とか」
「笑える」
「笑えねぇよ」
仏頂面した皐月が、いつもより感情を表してることが面白い。そうなのか、皆そんなものなのか。
僕はひとりっ子だし、父も母も僕の受験に期待してるから、ご飯はいつも用意されていて、温められて出て来る。
⋯⋯それって、考えたことが無かったけど当たり前のことじゃなかったんだ。と同時に、少しだけ自分の日常に息苦しさを感じた。
母さんにすぐその場でメッセージを送った。
『友だちに誘われたから、夕飯は食べて帰る』
そこで指が止まって⋯⋯。やっぱりいつもと違うことに慣れない。
『ごめんね』
打って、懺悔した気持ちになる。自己満かもしれない。
でも他の皆も普通にしてることだし、いつまでも『いい子』でいる必要はないんだ。
時々、感じていた満員電車のような息苦しさ⋯⋯期待はうれしいかもしれない、でも、重い。満員電車に乗ってこのまま⋯⋯ずっと人生という名の路線を走っていくんだろうか? 乗り換えや途中下車は許されずに。
『大丈夫よ。今日はまだ作ってなかったから。たまには楽しんでいらっしゃい。遅くなるようなら電話して。母さん、駅まで迎えに行くから』
寄り道、という電車には乗れたみたいだ。
でも門限はある、と暗に言われているみたいだ。
◇
予備校の周りは賑やかな街並みで、僕は駅前五分の予備校からいつもすぐに駅に行ってしまうので、どこに何があるのか、考えてみると全然知らない。
早く着いてしまった時さえ自習室に入ってしまうし。
二人の後ろに着いていくしかない。
⋯⋯後ろから見ていると、明音さんと皐月はいい感じの身長差だ。お互いに横を向くだけで、無理なく話ができる。
「マックで良くない?」
「あ、ごめん。昨日、マックだった」
「え、明音、昨日マックだったの?」
いつの間にか呼び捨て⋯⋯。皐月のことは呼び捨てにしてるけど、明音さんはちょっとまだ。
「じゃあ、そこのファミレスで良くない? クーポン持ってるよ、確か」
皐月はジャケットのポケットの中をごそごそした。そのクーポンはぐちゃぐちゃだった。
「ごめん、えーと、月曜日、使った。他にあるかな? あんまり高くないところがいいよね」
明音さんは外食することにすごく慣れているようだった。友だちと遊んで帰ることが多いという皐月も、明音さんの提案にすぐに反応する。
「じゃあ、女の子だけで普通、入れないとこは? あるだろう?」
明音さんは眼鏡のブリッジを押さえて、うーんと考えた。結論が出たのか、口を開く。
「あ、じゃあこの前開店したあのラーメン屋の二号店! ネットで見て、行ってみたいなーって。でも一人で入る勇気なくて」
彼女はははっと、恥ずかしそうに笑った。
女の子はそれだけのことをするのが難しいのか。全然、考えたこともなかった。
「回転寿司」
「え?」
「回転寿司がいいかなぁって考えてた。安いし、一人じゃ女の子は入れなさそう」
皐月がいつものようにポケットに手を入れたまま、そう言った。
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