第4話 赤いリング

 化学の時間はまるで頭に入らなかった。講師の言葉は耳をすり抜け、彼女と、そしてと呼ばれた男のことが頭から離れなかった。


 そのはここにいない。どの教科を取っているのかわからないけど、なんだかまた会いそうな気がする。嫌な予感ってやつだ。

 といっても別にアイツが僕に何か悪いことを仕掛けてくるわけじゃないし、警戒などする必要はない。

 ただ、なんとなく気掛かりなだけで。

 大西さんは、もしかしたらヤツと同じクラスかもしれない。


 僕にとって、古文はちんぷんかんぷんだ。

 共通テスト用の国語は取っているけど、二次試験用の国語は取ってない。理系の二次に国語は出ない。数学、英語、理科が標準だ。

 理科は志望校から物理必須。共通テストも化学と物理だ。僕の高校は、物理は三年生で履修なので、今年は予備校の物理は取ってない。参考書を買って予習はしているものの、なかなか手強そう。


 とりあえず、化学。

 夢を叶えるために、化学と物理は必要なんだ。

 少しくらい難しくても、夢のないヤツとは違う。乗り越えようとする気持ちの強さが。そこが自分の強みだと思っている。


 ······大西さんはヤツと同じクラスかもしれない。


 講義室からぞろぞろと疲れた顔をした学生たちが出てきては階段を下っていく。僕も重い荷物を担ぐように持って、講義室を出る。

 明るい声が弾むように聞こえる。今はもう知ってる声だ。


「へぇ、明音ちゃんて言うんだ。明るいに音って珍しくない?」

「よく言われるんです。簡単な字なのに一瞬読めないって」

「確かに」


 二人はぽんぽん、次から次へと滞ることなく会話を続けた。僕は声をかけそびれて、ホールにいる大西さんの前を――。

「青葉くん!」

 足は素直だった。

 聞こえないふりもできたのに、彼女の声で立ち止まってしまった。


「青葉くん、あの、良かったら同じ電車でまた帰りませんか?」

「昨日の?」

「うん、嫌じゃなければ」


 僕はチラッとサッツンを見た。コイツも一緒なんだろうな、きっと。そうなったら何を話したらいいかわからないし。

「じゃあね、明音さん」

「あ、兵藤さんも一緒に」

「······皐月でいいよ」

「じゃあ、皐月くんも一緒に」

 どうして三人で帰らなくちゃならないんだろう、と思うと、兵頭が「行こう」と僕たちを促した。


 ◇


 電車はいつも通り、疲れた顔をした人たちでいっぱいだった。闇の底に光る窓ガラスは鏡のように帰宅する人たちを映す。僕たちもだ。

 皆、疲れた顔をしてスマホを弄っている。俯いて、何かを見て。


「じゃあ皐月くんは次の駅なんですね?」

「うん。······敬語ってなんかおかしくない? タメなんだし」

「ああ、ごめん、そうかも」

「明音ちゃんって『ごめん』が多いよね、癖なの?」

「······」


 そこで大西さんは手詰まりといった感じで黙ってしまった。サッツンの話の持っていき方は追い詰めるようだったから。

 なんだコイツ、と思う。昨日は彼女に優しかったくせに。


「大西さんは何も悪くないよ。気に病むことないって」

 サッツンはジロっとこっちを見た。目が一重のせいか、少し怖い。

「名前は?」

高遠青葉たかとおあおば

「ふっ、皐月と青葉ってなんかが似てる」


 サッツンは細い目を細めて笑った。笑うんだな、と当たり前のことを思う。そんなに悪いヤツじゃない気がしてくる。

 人間て単純だ。


「青葉、でいい?」

「いいよ、皆、知らない人までそう呼ぶし」

「あ、ごめん! 高遠くんって呼ぶべきだった?」

「ほら、また」

「ああ、ほんと、ご······」


 彼女は両手で自分の口を閉じた。僕たちは笑った。和やかで、打ち解けたムードになる。

「じゃあ、皐月でいい? さっき女の子が言ってたみたいにサッツンて呼んだ方が」

「お前、それもう一度言ってみ? 口きけなくなるぞ」

「確かに無いよな、サッツンは」

 皐月はもういいよ、とばかりに不貞腐れた。


 皐月の降りる駅は予備校の隣の駅で、話したのはほんの一駅分だった。何が、というわけではないけど、僕にしては珍しく、『友だち』の枠に入れてもいいかなと思った。


「皐月くん、またね」

「はいよ、どうせまたすぐ会うし」

「素直じゃないな、皐月は」

 後ろ手に、手を振ってイヤフォンをすると、皐月はドアを出ていった。


「あのね、皆が『青葉』って呼んでるから」

「いいんだよ、別に。どうせ皆、小学生の頃は名前で呼ぶでしょう?」

「そうかもしれないけど、なんか、モヤモヤするかも」

「いいんだよ、ほんとに。大したことないし、それに、結構気に入ってるし。ほら、呼ばれる度に気持ちが少しシャンとするっていうか」

「似合ってると思う。これからもよろしく、青葉くん」


 彼女は眼鏡をかけて、髪を解いていた。昨日はそう言えば眼鏡をかけていなかったので不思議に思う。

「昨日、眼鏡、家に忘れちゃったの。家では眼鏡だから」

 なるほど。


 その後、会話は続かなかった。別段、話さなくても嫌な空気じゃなかった。

 眼鏡をかけていても、その横顔に長い睫毛や、輝きを持った瞳、微笑みをたたえた口元が見える。

 隣に立っていて、得をした気分になる。こんな風に近くで、彼女を見ることはなかなかできないだろう。


『漢字のプリンセス』という奇妙な呼び名を思い出す。決してそんな感じではない。彼女は漢字ができても、できなくても、澄んだ瞳の持ち主に違いないと、そう思った。


「どうかした?」

「え? いや、漢字テストのことを」

「ああ」

 彼女はそう短く答えると、ポケットから赤いリングのついた単語帳を出した。クラフト紙の表紙がついていて、角が少し曲がっている。昨日今日に作られたものじゃない。


「もう持ってるかもしれないけど、良かったらもらって? この間のお礼。テスト、週明けだもんね」

「悪いよ。明音さんも使うでしょう?」

「······わたしは実は漢検二級まで持ってて······。つまり、書けない字は少ないの。だってほら、絶対に漢字って必要でしょう? 必要なところから手をつけちゃおうと思って。あの、わたしって少しせっかち?」


 ぐっと口を閉じた。知らない明音さんがいる。

 畳み掛けるように、自分の秘密を教えてくれる。せっかちでいてほしい、なんて馬鹿なことを考える。と、電車が少し無理な速度でホームに入って停車した。


「ありがとう。お守りにする。本当は明音さんのこと――」

 言おうとして、ドアが閉まりかける。彼女は電車の中からにっこり笑って手を振った。


 ◇


 もらった単語帳を手の上で転がす。

 赤いリングの単語帳には几帳面に、少し大きな文字で表に漢字、裏に読み、難しい言葉には意味が簡潔に書かれていた。


 その単語帳は彼女が苦手な字ばかりが綴じてあったようで、今回の範囲のものじゃない漢字も含まれていた。

 少しくたびれた白い紙の一枚一枚を彼女は丹念にめくって、そして一つずつ覚えていったのかと思うと、自分の努力なんか足元にも及ばない気がした。


 漢検か。

 夢のまた夢。

 英検取った方が、よっぽど早い。


 僕が返してあげられるものってなんだろう? 

 机の椅子の背もたれがギッと嫌な音を立てる。

 小学校入学の時に買ってもらった椅子と机は、中学を卒業した時に買い換えられた。大学受験の勉強をするには広いしっかりした机が必要だと父さんは言った。


 父さんはあまりいい大学を出られなかったことを後悔している。会社では学歴も査定に関係するらしく、なかなか昇進しない。

 少し成績のいい僕が自慢らしい。


 勉強する気にならない日があるものなんだな。

 赤いリングの単語帳が目に入る。

 彼女がした分の努力を、自分もしないといけない気がしてくる。······貼りだされたいなら、何度も書くしかない。『憂鬱』も、『陰翳礼讃』も。

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