第3話 偶然が重なる
予備校は席が特に決まっていない。
だから、着いた順に埋まっていく。
僕は他の人とは違って、前の方が好きだ。目が悪いのも手伝って、前の方がボードが見やすいし、おまけに前に遮るものがない方が集中しやすい。
要するに実を言うとあまり集中力に自信がない。なにも僕を邪魔しない世界に行けたらいいのに――。
「⋯⋯くん? 青葉くん?」
後ろから声がするような気はしていたんだけど、まさか自分だとは思わなかった。
気が付いて振り向くと、そこには――大西さんがいた。今度は一人だ。
「えっと⋯⋯いいかな?」
「あ、どうぞ」
僕たちの間の席には僕の大きな荷物が置いてあって、慌ててどかそうとすると、焦った顔をした大西さんはその隣に座った。要するに、僕たちは一席空けて隣同士になった。
昨日までとはなにか、全然違う。
「えっと⋯⋯青葉くんとは予備校、同じクラスだってずっと知ってたんだけど」
「え?」
「全然わたしを知らないのに声かけたら気持ち悪いよなって思ってて、それで、昨日単語帳拾ってくれて⋯⋯あの、びっくりして」
僕と彼女は理系と文系で、選択科目がまったくと言っていいほど重ならないはずだ。
ただこの国公立大志望AとBは、Aが理系、Bが文系で、共通テストは中身は同じなので、共通テスト向けの取る科目が重なれば同じクラスになる。
「共通テストは文理関係なく国公立志望なら同じクラスだから」
「ああうん、そうだね。じゃあ国語とか同じクラス?」
「そう、同じ。共通テストのクラスは大体。特に世界史は受けてる人が他より少ないし⋯⋯」
僕の顔は一瞬で赤くなった。大西さんが僕を知っていたという事実の恥ずかしさのあまり、下を向いてしまった。
世界史は範囲が広い。何しろ、人類が生まれてから現代までの歴史を網羅するわけだから。だから好んでいる人以外には点を取るための人気がない。
「わたしは文系だから社会、二つ取らないといけないんだけど、一つは政経倫理なの。覚えること少ないから。
なのに、もう一つは好きだからって世界史取って失敗したかなぁって思ってたんだけど⋯⋯青葉くんもそう思う時、ある?」
「⋯⋯僕は理系だから社会は一つでいいんだけど。正直に言うと暗記は苦手だから、失敗したかなって思ってる」
顔が赤いことを絶対にバレたくないと思っていた。そうして意地を張るように下を向き続けていると、手に汗をかいてきて、ここは予備校なのに何をしてるんだろうと思う。
「ごめん、くだらないこと喋っちゃって。とにかく昨日はありがとう。同じクラスなのに話しかけないのもアレかなって思ったんだけど⋯⋯なんか余計だったよね、ごめん」
女の子に一方的に謝らせてるなんて、何をしてるんだろうと思う。でも彼女の顔が見れない。
あの、優しげな睫毛が落とす陰影や、自然に紅い唇を思い出すと、とても顔が上げられない。
「僕の方こそ、同じクラスだってずっと気が付かなかった、ごめん」
「いいんだよ、そんなこと。青葉くんはわたしのことなんて知らないってわかってたし」
コトン、と机の上に何かを出した音がした。ふと見ると、それは眼鏡ケースで、彼女は髪を低い位置で一つに結んだ⋯⋯。それはびっくりするくらい、僕の『大西明音』像そっくりで、戸惑う。
「ああ、眼鏡かな? 夕方になるとコンタクト、疲れちゃって。皆はお洒落にしなきゃダメだよって言うんだけど、予備校は皆、見てないし」
彼女は照れくさそうに笑った。
別に眼鏡をかけていても、髪をギュッと結んでいても、彼女は彼女であることになんの変わりもないことに、心打たれていた。
――僕しか知らない、彼女の秘密。
そんなわけないか。ここに通ってるのは僕と彼女だけじゃないんだし。
僕も机の上に文具を並べる。シャープペンシル、ボールペン、蛍光ペン、定規、⋯⋯単語帳。
単語帳、今日は出すのをやめようか、すごく迷った。
「単語帳ってあんまり皆、使ってないよね?」
「そうだね、でも昔からずっと使ってるんだ」
単語帳を手に持って弄ぶ。間を持たせるため。
「算数セットに足し算や九九のカードがあったでしょう? ある日、文具屋さんに行ったら同じようなカードが売ってて。真っ白いカードが束ねてあるだけなんだけど、なんだか大人っぽく見えて」
は、思わず自分語りをしてしまった。しかも大西さんはそれを興味深そうに身を乗り出して聞いている。続きを話さないわけにはいかなくなったような気がして、気持ちが焦る。
「最初にしたことは、リングを外してバラバラにしてみた。それから――」
「束ね直してリングを嵌め直すんだけど、穴の向きが逆になってるカードがあったりして」
「そう、思ったようにリングが通らなくて」
彼女はカバンから緑色のリングのついた単語帳を取り出した。少し恥ずかしそうで、少し誇らしげに。バラバラにならないように巻いてあった輪ゴムを外す。
「あんまり綺麗じゃないけど、これが世界史のわたしの単語帳。用語と年号を表に書いて、裏に説明を書いてるの」
「え、そうなの? 僕は年号と説明を書いて、裏に用語を書いてる」
「人によって違うんだね、他に使ってる人、あんまり見たことがないから比べたことなかったけど」
自然と彼女の口角が上がって、頬がふんわり持ち上がる。昨日とは違ってほんのり赤い頬に目がいく。
開いて見せてくれた単語帳は、几帳面な文字で作られていて、色合いも女の子らしくかわいかった。
そして彼女の手元も、僕のものと違ってかわいかった。僕より細い指と、いわゆる桜貝のように小さくて細長い爪。
「あ、ごめん! 長話しちゃった」
「この後、······」
「うん、この後はね――」
彼女が言いかけた時、講師が部屋に入ってきた。
世界史の講師は古ぼけている。きっと中身は図書館のように知識が詰まってるんだろうけど、外見は日に焼けた本の背表紙のようにくたびれていた。
長くて細かい講義は延々と続いて、ボードの書き込み量が半端ない。単語帳に重要語句を写しきる暇もなく、淡々と話は進んだ。
みっちりと濃い講義もいつかは終わる。これ全部覚えるのかよ、とげんなりする。仕方がない、自分の選択だ。
ようやく終わった講義に、さっき言いかけた大事なことを伝えようと、荷物をまとめながら大西さんの方を見る。
「青葉くん、さっきの話だけどわたしこの後、古文があって」
「僕も化学なんだけどその後――」
あ、と彼女は声を上げ、話の途中だったのにどこかへ走っていく。
あれだ、昨日の。
彼女に優先席を譲った、あの。
「あの! 昨日はありがとうございました。電車で席を譲ってもらった······」
彼女は急いで眼鏡を外す。
その男は両手をポケットに入れて歩き出したところだったが、足を止めて彼女の顔をじっと見た。
「ああ、昨日の」
彼女の顔を、自分の顔を近づけてじっと見た。
深いグリーンの制服。パンツはチェック。あれはK大付属で、僕たちの学校より偏差値は高い。国立でも私立でもSクラスに入るヤツが多いのに、アイツの志望校はレベルが低いのかもしれない。
流行りのヘアスタイルに、毛先だけ少し明るい茶色。肌は運動部なのか、程よく日焼けしていた。目つきは少し悪い。校風は自由だと聞いたことがある。
「ほんと、気にしないで。大したことないし。ほら、社会的マナーだよ」
「でもすごく助かったから」
男は口を閉じて、一生懸命な彼女の顔を見つめた。何かを検分するかのように。
そうしてこう言った。
「じゃあ、名前教えて」
サッツン、皐月の呼び名にしてはちょっとあんまりだな、と思う。センス悪い。ちょっと遊んでそうな雰囲気なのに、サッツンは無いだろう。
「えっと、何の話してたっけ?」
「たわいもない話だよ」
僕の方が彼女より先にカバンを持ち上げて、教室を出ることにした。彼女は眼鏡をかけ直して、とりあえず忘れ物のないようにカバンに持ち物をしまった。
そこに緑のリングの単語帳が、輪ゴムをかけられず入れられるのを僕は見ていた。
彼女が僕の視線に気がつく前に、僕は次の教室に向かった。
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