第36話 ヴィヴィアンの恋人
その後、ヴィヴィアンは離宮に連れ戻された。
部屋にこもっていたが、最初にニールがやってきた。ヴィヴィアンの部屋の入り口から、アレクサンドルに打ち明けて悪かった、と言って去って行った。
次にミックとルルが来た。ミックに試験薬を使うよう依頼した場所で陽性反応が出た、と報告された。
ルルは、もっと話したそうだったが、ヴィヴィアンは話を打ち切った。
さすがに意固地になっている、とヴィヴィアンもわかる。ルルにまで八つ当たりする必要はない。
アレクサンドルと話をすべきだろうが、馬車でのあの態度はない。対等にやろうと決めたはずだ。まるで、力で脅すようなあの態度は許せない。
しかし、ヴィヴィアンが少しでも折れていたら、状況は好転していたかもしれないとも思う。
感情に任せて、怒ったり泣いたりしたら、アレクサンドルも折れたはずだ。そう感じていたが、あえてそうしなかった。
相手が折れるタイミングを作らなかった。
アレクサンドルの逃げ場を作らなかったヴィヴィアンが悪いのか。
アレクサンドルだって、ヴィヴィアンが憎くて遠ざけたわけじゃないだろう。いつものように、ただ、危険なことに足を踏み入れて欲しくない、という老婆心だったはずだ。
悶々としながら、自室を行ったり来たりする。
今から、アレクサンドルの部屋を訪ねて謝れば、こじれた関係を修復できるだろうか。
アレクサンドルはいつも訪ねてくるから、今まで彼の部屋をノックしたことすらない。
果たして、ヴィヴィアンからノックしたことすらない関係は、正常だったのだろうか。ヴィヴィアンは歩み寄っていたつもりだが、歩み寄っていたのは、アレクサンドルの方だったのかもしれない。
王族の私室を訪ねるなんて…と考える。いや、対等な関係を主張しているのはヴィヴィアン自身だ。都合のよい時だけ、アレクサンドルを王族として扱うのは不当だ。
ヴィヴィアンは、寝衣にガウンを羽織った姿で廊下に飛び出した。
隣のアレクサンドルの部屋の前にいる護衛が驚いた表情で振り返ったため、ヴィヴィアンは立ち止まる。
時間は、深夜だった。護衛は、アレクサンドルの部屋付きの使用人に目配せし、アレクサンドルの部屋の扉を開けさせる。
これは、違う、と気づいたヴィヴィアンは、自室に駆け戻り、寝台に潜り込むと、ブランケットを頭まで被った。
寝衣で深夜にアレクサンドルの部屋に行くなど、あり得ない。
護衛も使用人も、大いに勘違いしたことだろう。自分のしたことに恥ずかしくなり、鼓動が速くなる。腕で頭を抱え、身を縮めて、落ち着くのを待つ。
鼓動が鎮まりかけた頃、カチャリと寝室の扉が開く音がした。
ルルだろうか。侍女だろうか。今の火照った顔を見せる勇気はない。
毛足の長い絨毯のため、人が入ってきたかどうか、耳を済ませてもわからない。ブランケットを被っているから、余計にわからない。それなら、このまま、眠っているフリをしてしまおう。
衣擦れの音がしたと思ったら、ブランケットの上から、肩に手を添えられた。
「ヴィヴィ、今日はごめん。何も言わなくていいから、このまま聞いて。」
アレクサンドルの声だ。
「このところ、話もしなくて、悪かった。理由は、何度も話しているけど、ヴィヴィを危険にさらしたくなかったからだ。もう、何もせずに、ここにいて欲しいって言うのが、正直な気持ち。だけど、ヴィヴィはそれでは納得しないよな。これからは、もっと、話をしよう。それと、もっと、俺を頼ってくれよ。」
静かで穏やかな声だった。
「じゃあ、おやすみ… 明日は一緒に馬車に乗ろう。」
アレクサンドルが手のひらで、ヴィヴィアンの肩をぽんぽんと、二度優しく触れる。
その手が離れると、衣擦れの音がする。
「ねえ! それだけ?」
ブランケットを被ったまま、問いかける。
また、衣擦れの音がして、寝台がアレクサンドルのいる側に少し沈み込んだ。アレクサンドルが、寝台に腰掛けたようだ。
「顔を見せて。」
先ほどよりも、もっと穏やかな口調だ。
「心配してくれて、ありがと。でも、そんな老婆心はいいから…」
顔を見せる前に、顔を見る前に、言いたいことは言っておきたい。
「老婆心…」
「対等に、って…私も、もっと努力するから、対等でいたい。」
「ああ、わかった。」
「もう一つ。私は第三の女じゃないから。」
「第三の? 何の話?」
「… 私は… 私は、いつかできるアレクの婚約者に、邪険にされたり、したりするそういう存在にはなりたくない、ってこと。」
ため息が聞こえてくる。
沈黙が続く。
「顔を見せて。ヴィヴィだけ、顔を見せないのは対等じゃないよな?」
ブランケットの中で座り直し、握りしめていたブランケットをそうっと下ろして、寝台のへりに腰掛けているアレクサンドルに向き合った。
「逃げていて、悪かった。ヴィヴィアンと顔を合わせたくなかった理由、本当の理由はこっちなんだ。」
また、その話をぶり返すのだろうか。ヴィヴィアンは黙って、アレクサンドルが話すのを待った。
「第三の女、って、類型1だろう?」
ヴィヴィアンは黙って頷く。
「類型2だといいな、と思っている。そうでないとしたら、類型0かな。」
ヴィヴィアンは、混乱した。
「類型2? 類型0って?」
「類型2は、わかってるだろ… 類型0は、俺の定義だ。俺が一方的に思っているだけ…」
「…」
ヴィヴィアンは絶句する。
「個別案件を類型化した定義で話すなんて、最悪!」
類型2だとすると、ヴィヴィアンだけでなく、アレクサンドルも思っている、という両片思いを指している。こんな事務的な愛の告白が許されるわけがない。
アルフレードがヴィオレッタにした愛の告白が頭を過ぎる。
嬉しいとか、恥ずかしい、とかを隠すために、怒りで返した。
ヴィヴィアンは、寝台に突っ伏したが、これでは、また同じことの繰り返しだ。
アレクサンドルが次の言葉を紡ぐ前に言っておきたい。
「ごめん… 恥ずかしくて、言わなくていいことを言った。私が言いたいのは、将来の展望がないのに…刹那的な関係で…これ以上、傷つくのは嫌なの、ってこと…」
身体を二つ折りにして寝台に顔を埋めたまま、最後は蚊の鳴くような声で言った。こんな発言をして、ヴィヴィアンは、アレクサンドルの顔をもうまともに見られない。
「わかってる… 顔を上げて…」
ヴィヴィアンは、アレクサンドルの顔を見たいような、見たくないような複雑な気持ちで、なかなか視線を上げられない。将来の展望があるはずないのだ。
「約束する。今、約束できるのは、第三なんてない。俺とヴィヴィだけ。それしか約束できなくてごめん。」
「うん。わかった…」
こんな口約束は誰もがしているとヴィヴィアンは知っている。婚約者とは婚約破棄するから、とか、いずれ正式に婚約を申し込むから、とか。そして、そんな口約束が守られることがないことも。
ただ、その口約束にすがってしまいたく気持ちは、今初めて知った。
二人で見た椿姫のヴィオレッタが頭を掠める。ヴィオレッタは、アルフレードを愛した。それは理屈や損得では制御できない感情だったからだ。
ヴィオレッタのように、最後に身を引けるのか。オペラの脚本のように、死ぬ間際に一目会えただけで満足できるのか…
「仲直りしよう。口付けをさせて。」
アレクサンドルがヴィヴィアンに優しく微笑みかける。
「…それは… ここに居てくれてありがとう、の口付けまでにしよう… あんな…愛を…交わす口付けはだめ。」
ヴィヴィアンが恐る恐る、アレクサンドルを見つめ返すと、ゆっくりとアレクサンドルがヴィヴィアンに顔を寄せた。
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