第20話 庭園のアレクサンドル


 ヴィヴィアンを離宮に連れて来て一週間。

 ヴィヴィアンの体力も少しずつ回復し、部屋を出て離宮の庭を散歩できるようになった。


 この国の短い冬が終わろうとしている。日差しが強く、風のない昼間の日向は暖かい。

 ヴィヴィアンをエスコートしながら、ゆっくりと歩く。


 ヴィヴィアンはあの夕方から、離宮の中で眼鏡をしなくなった。鼻筋はすっきり通っていて、眼窩が深く、意思の強そうな眉と相まって、知性を感じさせる。灰色の瞳に、栗色の長い睫毛は、人を惹きつける。



「アーモンドの花が咲き始めたね。」

 ヴィヴィアンが呟くように言う。

「もう、春になる。」






 ヴィヴィアンが湯を沸かすのに使ったアルコールランプに細工があり、水が沸騰するときに薬品が気化し、そのガスを吸ったことによって中毒症状が起きた。


 ヴィヴィアンが使うアルコールランプは実験用のものとは別に一つだけ茶器の棚にしまってあり、ヴィヴィアンだけでなく、ダルメイヤー教授もそれで湯を沸かして茶を淹れているという。前日に教授が使ったときには細工はなく、当日は午後からの勤務のため、学院にはまだ来てもいなかった。


 また、普段は閉まっている窓が全て開いていて、寒かったため、わざわざヴィヴィアン自身が全て閉めた。あまりに寒くて、これ以上の換気は必要ないと思わせるほどだった。


 それは、事故ではなく、意図的に引き起こされている。




 化学準備室は、アレクサンドルと学長の指示で立ち入りが制限され、当時部屋にあったものは押収されミーレの研究室に移され、調査もようやく終わった。


 使ったアルコールランプに残っていた成分は、やはりあの小瓶と同じだと判明した。成分は、東方から輸入されて民間に拡がっている植物だった。生成方法、摂取方法により毒にも薬にもなるという。


 この国へは、いくつかの貿易商が取り扱っているが、王都近郊は、フレスカ商会が独占している。フレスカ商会は、イーサンの母、つまり、側妃の実家であるテンダー伯爵家が出資している。


 テンダーは側妃の兄の現当主に代替わりした頃から、商売を拡大し、悪い噂もちらほら出始めた。しかし、手口は巧妙で叩いても埃らしい埃も出ない。また、側妃の実家とあって、追及の手が緩みがちで、実態が掴めていない。

 薬の原料調達に関わっている可能性は高いが、繋がりを紐解けるかは甚だ疑問だ。



 ヴィヴィアンが寮の浴場で聞いた話と合わせると、薬物の流通にエリーゼの属する教団が絡んでいて、その背後には貴族がついている。

 その候補には、ライザのオルト子爵家か、テンダー伯爵家が上げられる。


 少しずつ情報は出てきたものの、この事件を引き起こした犯人には辿りつかない。




 体調が戻れば学院に戻りたいとヴィヴィアンは言うが、ヴィヴィアンかアレクサンドル、または両方が誰かに狙われている。

 狙われている理由は、あの薬に近づいてしまったからだろう。


 学院内の素行調査だったはずが、いつの間にか、政治的な色を帯びてきている。

 ヴィヴィアンをこの問題に不用意に近づけたくはない。少なくとも、ヴィヴィアンが尋ねてくるまでは、話すまいとアレクサンドルは決めた。




 ヴィヴィアンの体調はほとんど良くなった。中毒症状も消滅している。だが、精神的には、万全とは言えない。冷静で、気丈で、感情を制御する様子は17歳とは思えない様子だったのが、今は、年相応に見える。アレクサンドルに対しては、不安な様子を見せるし、甘えるような素ぶりもする。



 それが、事件の心理的な後遺症なのか、あれ以来、日に一度交わしている口付けのせいなのかはわからない。


 口付けが、どんな意味を持っているのか、アレクサンドルはヴィヴィアンに尋ねていない。

 毎晩、ただ唇をそっと重ね、そしてヴィヴィアンは眠りにつく。寝る前の儀式のように。


 恋人同士がする甘い口付けとは、少し違う。場所は、唇ではあるものの、家族同士で額や頬するような口付けだ。

 友人同士でするようなことではない。わかってはいるが、アレクサンドルも拒みたい気持ちにはならなかった。そもそも、最初に始めたのはアレクサンドルだ。



 12歳から、親元を離れているヴィヴィアンにとって、こうした家族の触れ合いは、気持ちを落ち着かせるために必要なものなのだろう、とアレクサンドルは結論づけた。




 庭園のガセポのベンチに腰掛ける。


「ヴィヴィ、卒業要件の単位、どれだけ残ってる?」

「突然ね… 要件だけなら、今年の単位を取り終わると、残りは四つ。」

 後ろに控えていた侍女が、ココアを用意する。


「学院、卒業したいよな?」

「勿論。仕事に就きたくて、学院に入ったし。」

 ヴィヴィアンは侍女から膝掛けを受け取ると、アレクサンドルを見る。一緒に使うか、という問いかけだが、それは、彼女の記憶の中の幼い弟とアレクサンドルを重ねているに違いない。

 視界の端にいる侍女が口をぽかんと開けている。


 否定する代わりに、ヴィヴィアンの手から膝掛けを受け取り、彼女の膝に掛けた。



「安心して学院に通えるか、通わなかったらどうなるか考えてる。」

「うん…」

 冷めたココアが嫌いなヴィヴィアンは、温かいうちに飲んでしまおうと、アレクサンドルの話などそっちのけだ。


「寮を出て、ここから通うのは?」

「… ここ、国で一番高い宿じゃない?」


「お金の心配はいいから…」

「うん… ここから通うこと、うまく隠せるかな?」


「隠さなくてもいいよ。隠してもいいけど。」

「さすがに、理由がないと、離宮に住むなんておかしいわ。」


「たとえば、ミーレの研究室で助手として働くから王城に部屋を当てがわれた、とか何でも。」

「うん… そこまでするほどの事態ってことよね?」


「多分ね。」

「…わかった。」

 出会った頃のヴィヴィアンなら、こうした提案も意にそぐわなければ、頑なに拒否しただろう。今は、アレクサンドルを信頼してくれているからのか、気力がないからなのか、あっさりとしたものだ。



「万が一のときは、卒業要件ぐらい何とかするし、就職先も何とでもする。学院内で護衛もつける。」


 できるだけ離れないように気をつけていた。それでも限界があった。女子学生の嫌がらせすら、全てを防げないでいたのに、遥かに悪意の強い相手に対抗しきれない。


 アレクサンドル一人では難しい。離宮の人間を学院に送り込むか。アレクサンドルの頭にニールの顔が思い浮かぶ。どこまで信用できるか、どこまで頼りにできるか、ぼんやり考えた。





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