第19話 離宮のアレクサンドル



 化学準備室で倒れているヴィヴィアンをアレクサンドルが見つけたとき、部屋にはわずかに甘い香りが充満していた。


 揺さぶっても起きないヴィヴィアンを見て、咄嗟に換気し、ヴィヴィアンを担いで部屋を出たのは正解だった。


 どこに連れて行くか迷ったが、ミーレとルーカスに助けを請えるよう離宮を選んだ。

 離宮へ迎う馬車の中で、うなされ、がたがたと震えるヴィヴィアンを抱えていたときは、死んでしまうのではないか、と肝が冷えた。震えが寒さから来るものなのかわからず、アレクサンドルは自分の外套でくるみ、抱きしめたり、さすったり、思いつく限りのことをした。




 ミーレとルーカスによると、ヴィヴィアンの症状は、薬物中毒だった。その薬物は、まだ分析が終わっていないが、おそらく、先に渡していた小瓶の中身と同じだろう、と。


 三日間、ヴィヴィアンはうなされ、震え、瞳は開いてもうつろで、目の前にいるアレクサンドルを認識することはなかった。

 医師や侍女たちとともに、三日間のほとんどをヴィヴィアンの寝室で過ごした。幻覚を見ているヴィヴィアンが何をするかわからず、交代で付き添った。侍女たちだけではヴィヴィアンを押さえられないときもあり、そんなときはアレクサンドルが代わった。





 やっと、ヴィヴィアンは目を覚ました。離宮の侍女たちの話では、体力が落ちていることを除けば、この三日間の様子とうって変わり、心身ともに安定したとのことだ。


 いつでも部屋を訪ねてよいと言われて、十分が経った。

 すぐに訪ねたいと思ったが、二の足を踏んでいる。


 ヴィヴィアンの承諾なしに、眼鏡を外したその顔を見た。


 美しい顔立ちだった。

 理由があって、眼鏡でそれを隠していることも想像がつく。


 果たして、素顔を見たことを伝えるべきか?

 黙っていたとして、見たでしょう?と問われたら、どう答えるべきか?


 どう振る舞うべきか、わからない。



 人をその容姿の良し悪しで、振る舞いを変えるのは、以ての外だ。

 しかし、男が美しい女性を前にしたとき、多少、それが変わってしまっても仕方がないとも思う。


 しかし、それを望まないから眼鏡をしているのだとしたら?



 ヴィヴィアンの望むような振る舞いをできるのか?



 そうこうするうちに、半刻近く時間が経つ。


 回復したヴィヴィアンに会いたいし、話を聞いてやりたい。こちらから説明もするべきだ。


 早くしないと、また眠ってしまうかもしれない。今は夕方だ。




 アレクサンドルは、考えることをやめて、自室の隣に用意させたヴィヴィアンの部屋を訪ねることにした。








 部屋に入ると、侍女に奥の寝室に通された。


「ヴィヴィ、加減はど…」

 ヴィヴィアンは寝台に枕を積んで、身体を起こして座っていた。

 眼鏡と素顔のことばかり考えていたが、まだ半病人のヴィヴィアンは、寝衣にガウンを羽織り、髪は結っていない。どこを見てよいか、視点が定まらない。

 


「殿下、わざわざありがとうございます。こんな姿ですみません。」


 眼鏡は掛けていた。侍女らがいるからか、口調が堅い。


 このままでは話し辛いので、侍女たちに寝室から下がるよう指示する。





「具合はどう?」

 近くにあったスツールを寝台の脇に置き直して腰掛ける。視線が同じぐらいの高さになると、ヴィヴィアンを見下ろしているときほど、華奢な肩や身体の線を意識し過ぎないで済んだ。


「すぐ眠くなる。身体中が痛い。」

 ヴィヴィアンは、少し袖を捲り、さするような仕草をした。

 腕には痣ができている。暴れるヴィヴィアンを押さえるため、アレクサンドルが手首を掴んだからだ。押さえなければ、意識の混濁したヴィヴィアンが自分を傷つける可能性もあった。仕方ないことだったが、その痣が痛々しい。



「ここに連れてきてくれて、治療も受けさせてくれてありがとう。お医者様たちに事情を聞いたわ。」


「急性の薬物中毒だってな。原因は、今調べている。」

 目の下にはくまができているし、頬もこけたようで痛々しい。


「アレク、その… 私、暴れたんでしょう? 途中、意識は朦朧としていたんだけど、アレクがそばにいてくれたのは覚えてるの。助けてくれてありがとう。」


 視線を落とし、ぼそぼそとヴィヴィアンが言う。意識なく錯乱した姿を他人に見せたことに恥じらっているのだろうが、こうして、回復したことがアレクサンドルには一番嬉しい。しかし、気にするなと言っても、難しいだろう。


「いや… 侍女たちでは、力負けしてしまってな… 触れて済まなかった。薬が効いてくるまではどうしようもなかったんだ。」


「ありがとう… そんなに強い力で暴れたんだ…私。」

「薬物のせいだ。仕方ない。」


「アレクは? 身体はなんともないの?」

「ああ。きみを見つけてすぐ部屋から出たからな。」


「良かった。」

 ヴィヴィアンは、安堵の表情を浮かべ、疲れてきたのか、積んだ枕に頭を埋める。


 いつだったか、ヴィヴィアンとアレクサンドルの距離が縮まりそうで、縮まらないもどかしさが、波のようだと考えていたのを思い出す。


 今は、少しの波さえ感じず、ヴィヴィアンとの距離が測れない。この三日間、ヴィヴィアンがヴィヴィアンでなくなっていた。アレクサンドルが知っている彼女がどこか遠くに行ってしまったように感じた。彼女が前と変わらずここにいると、どうしたら感じられるのだろうか。




「ヴィヴィ、家族にも連絡した。きみの叔父上が領地から来ると言っていたんだが、マーリン領と王都の間のシベル山脈がまだ雪道で、雪解けまでは馬車旅は難しい、と。」

「ありがとう…」


 医師やミーレから、事件の詳細は回復するまで話はないように言われている。今は、ヴィヴィアンの体力と気力が回復することに全力を尽くすだけだ。



「何かしてほしいことは? 食事は?」

「さっき、粥をいただいた…」


「もう少し眠るか?」

「うん… 寝るわ… でも…」


「なに?」


 ヴィヴィアンは躊躇っている。

「…夢が怖いの。幻覚なのかな。怖いの… いつも何かに追われて…こどもみたいだけど、誰かそばにいてほしい…」


 ヴィヴィアンが言うは、ずっと付き添っていた侍女のマリアのことなのか。アレクサンドルのことなのか。マリアにだったら、ヴィヴィアンがマリアに直接言えるだろう。


「…俺がいようか?」

「…いい?」

「ああ。」


 ヴィヴィアンは、安心したように微笑んだ。

 ヴィヴィアンの心は、離れていなかった。



 アレクサンドルは、ヴィヴィアンがガウンを脱ぐのを手伝い、背中の枕を抜くと、身体を倒すのを支える。



 何年も家族から離れて寄宿舎で生活し、友達付き合いもほとんどしていない。ヴィヴィアンの性格なら、辛いときもきっと一人で何とかしてきたはずだ。

 今まで、ヴィヴィアンは誰かに甘えたいとき、どうしてきたのだろう。


 ブランケットを掛け直し、数日前に熱を出したときにも同じようにしたことを思い出す。



 顔にかかる髪を手櫛で整え、額から頭を撫でるように触れると、ヴィヴィアンは瞳を閉じ、微笑む。

 このまま眠るのなら、眼鏡も外してよいだろう。テンプルに手を掛け、そっと眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。


 まだ、ブランケットの上に出ていた腕をブランケットの中にしまおうと、その腕を取った。

 そのとき、ヴィヴィアンの手がアレクサンドルの手に絡んできて、手を握る。


 アレクサンドルがヴィヴィアンを見ると、ぼんやりとアレクサンドルを見つめていた。

 ヴィヴィアンの手を握ったまま、その瞳に誘われるように、唇を合わせた。





「うなされたら、起こすよ。おやすみ。」

 返事はなかった。



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