第21話 ヴィヴィアンの外出
昨日、唐突にアレクサンドルから観劇に誘われた。離宮に来て十日。歩けるようになってからは、毎日アレクサンドルと中庭を散歩して、体力の回復に努めてきた。
もう学院に復帰できるつもりだが、心配症のアレクサンドルに止められている。
そのため、離宮を出るような外出を提案されて驚いた。
「歌劇場… ?」
「今シーズンの椿姫は、評判がいい。ヴィヴィも興味あるかと…」
「…ある。いつか見に行ってみたい、って思ってた… オペラは、初めてなの。」
他の生徒たちが話しているオペラの話をこっそり立ち聞きするのは楽しみの一つだった。王都の貴族は皆、シーズン中に何度も観劇する。しかし、ヴィヴィアンには、席が高額な上に、着て行く服もない。自分の給金で、天井桟敷に行ける日が来るのを待ち遠しく思っていたのだ。
「仕立て屋も呼んでいるから。」
部屋の長椅子に寝転んでいたアレクサンドルが侍女に合図すると、どこに待機していたのか、いつかの仕立て屋の女主人と数人が衣装箱を持って部屋に入ってきた。
「どれにする?」
観劇用のイブニングドレスが数着、ヴィヴィアンのサイズに直されてあった。
一つ目は、赤に銀糸の刺繍、二つ目は、黒のサテンに腰から下は黒のシフォンを重ねたもの、三つ目は、薄い水色サックス色に銀のスパンコールだった。
「ヴィヴィアン様には、水色がお似合いだと思います。殿下の瞳の色でもあります。が、演目を考えると赤でしょうか… 黒も落ち着いていてよいですし、アレクサンドル殿下の髪の色でもあります。」
女主人が説明をしてくれる。
しかし、どれも素晴らしい上に、女主人の説明を聞いた後では、選びにくい。赤と言えば、アレクサンドルの色を避けたようだし、似合うと言われた水色はアレクサンドルの瞳の色という深長な意味が加わる。無難に黒にしておくべきか。
姿見の前でドレスを身体に合わせながら、考える。
「着てみて選んだら?」
アレクサンドルは、少し離れた場所で低いスツールに腰掛けていて、姿見越しにヴィヴィアンを見ていた。
鏡の向こうのアレクサンドルが女主人に合図すると、衝立が運ばれてきて、アレクサンドルが見えなくなる。
結局、三着とも着てみた。
着替える度に衝立が取り除かれ、どの時もアレクサンドルがそれらしい言葉を掛けてくれた。似合っているかどうかというより、ドレスを褒めているような表現で、どれも当てにはならないコメントだった。
水色は、ホルターネックのマーメイドラインでデコルテが貧相なヴィヴィアンにはちょうど良いように思う。
「水色でどうかな?」
もう一度、姿見越しにアレクサンドルの反応をうかがう。
「魅力的だ。きみの美しさが引き立つ。」
アレクサンドルは満足そうに微笑む。
「… 初めて、褒めた…」
ヴィヴィアンがそう言うと、仕立て屋の女主人が眉を吊り上げる。
「そんなことない… いつも、素敵だと思っている…」
姿見越しのアレクサンドルが呟くので、振り返ると、ふらりと歩き去ってしまった。
離宮に来て以来、アレクサンドルの話し方が変わった。王族らしい上から目線の話し方はなりを潜めたのだ。
その理由には気づいている。
三日間の錯乱の後、アレクサンドルと会った夕方、アレクサンドルに口付けされた。
憔悴しきったヴィヴィアンを落ち着かせ、安心させるためだろうと思う。
その翌晩、ヴィヴィアンの寝台におやすみを言いにきたアレクサンドルが、また口付けするつもりだったのかどうかはわからない。
なんとなく、そうすることが自然なような気がして、ヴィヴィアンはアレクサンドルの袖をゆっくり引き寄せ、目を閉じた。すると、前の晩と同じように、アレクサンドルの唇がヴィヴィアンの唇に触れた。
それからは、どちらからということもなく、毎晩繰り返している。
貴族の娘として、やってはいけないことであると自覚はしている。しかし、たった一人の友人との心の絆を確かめ合うために、それが必要な気がした。口付けは、不安定な二人の関係を近づけた。
歌劇場に馬車が着くと、アレクサンドルがヴィヴィアンの眼鏡を取る。
「結った髪に似合わない。」
「顔をさらすの、嫌なの。」
眼鏡をしている理由は、アレクサンドルに話したことがない。
「じゃあ、仮面でもつける?」
アレクサンドルが小箱から水色のアイマスクを取り出す。
「ドレスに合わせて作ってあったの?!」
アレクサンドルは、答えずにヴィヴィアンにマスクを着ける。
「出ても、出なくてもいいけど、閉幕後は仮面舞踏会がある。だから、マスクの女性は多いよ。」
ヴィヴィアンが、ちらりと馬車のカーテンから覗くと、確かにマスクをした女性がちらほら見える。
「あ… 」
ヴィヴィアンとは縁のなさすぎる世界なため、頭からすっかり抜け落ちていたが、観劇は社交の場である。大半の人にとって、オペラを楽しむのは二の次だ。
「これ、第三王子が女性をエスコートして、社交に現れたって、そういう設定なの?」
アレクサンドルが王族であることを忘れがちだが、社交界では注目の的である。
アレクサンドルが公の場に顔を出しているとは聞いたことがないため、『第三王子が初めて社交に現れた。しかも、女性をエスコートして』が、社交界の正しい受け止めになる。
「まあ、そうなる…」
「私、社交なんてしたことない…」
これは、ヴィヴィアンがどこの誰だかがわかったら、大変な騒ぎになる。学院の嫌がらせどころの騒ぎではない。
「開幕直前に馬車から降りて、ロイヤルボックスに入ればいい。まあ、視線は気になるだろうが、もともとヴィヴィは社交界に出てないから、どこの誰かわからないよ。」
「第三王子が謎の女性と現れた、ってわざわざ示して良かった?私、天井桟敷でも良かったよ?」
ロイヤルボックスに入れるなんて、人生最初で最後かもしれない。まだ、アレクサンドルの罪滅ぼしは続いているのだろうか。
浮き足立つ気持ちと、不安が入り混じる。
「第一に、ヴィヴィが楽しむこと。第二は、学院での面倒を減らしたい。第三は、俺が社交界に出ることで、馬脚を現す奴らがいるかもしれない。まあ、気にせず楽しもう。」
不安なヴィヴィアンをよそに、アレクサンドルは楽しそうだ。
マスクのせいで左右の視界が狭い。
アレクサンドルとの間に置いていたクラッチバッグを取ろうと膝をアレクサンドル側に向ける。
クラッチを手に取るが、何か視線を感じる。顔を上げようとしたとき、アレクサンドルの唇がヴィヴィアンの頬に触れる。
「!」
一瞬、何が起きたか分からなかった。
「…今のは?!」
眠る前のおやすみの挨拶のことは置いておいて、これは説明を求めたい。
「力を抜いて。笑顔で。」
アレクサンドルの悪戯な笑顔に絆されて、肩の力が抜けた。
エスコートされ馬車を下りる。
既にエントランスの人は疎になっていたが、アレクサンドルが下りた瞬間、ざわめきが起こる。
長身のアレクサンドルがシルクハットとタキシードを着こなすと、大層見栄えがよい。
月明かりとエントランスの明かりでこの注目なのだから、劇場内でアレクサンドルが第三王子だとわかれば、騒然となるだろう。
ヴィヴィアンはごくりと唾を飲み込みと、アレクサンドルの肘に手を掛けて歩き始める。
「…」
アレクサンドルの呟きは、ざわめきにかき消され、ヴィヴィアンの耳には届かなかった。
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